ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

ジャン・ルノワール・3〜『フレンチ・カンカン』

2018年01月29日 | 1950年代映画(外国)

『フレンチ・カンカン』(ジャン・ルノワール監督、1954年)を再度観た。

1888年のパリ。
クラブを営んでいるダングラールは、キャバレー“白い女王”の踊り子ニニに触発され、“カンカン”を主とするショウの娯楽殿堂を作ろうと決心する。
その計画のために、自分の店を処分したダングラールは“白い女王”を買い取る。
“白い女王”は取り壊され、新しい殿堂は計画どおりに行くと思われたが、出資者が援助を止めたりしたために中々思うようには行かなくって・・・

“ムーラン・ルージュ”誕生の物語である。
しかし、そこに描かれているのは恋愛物語。

まず、中心にいるのが“ジャン・ギャバン”のダングラール。
その彼をめぐっての、以前の店からのスターであるローラと、ニニのバトル。
このニニが“フランソワーズ・アルヌール”で、主人公で、こうなるともう無条件に素敵そのもの。
後の『ヘッドライト』(アンリ・ベルヌイユ監督、1956年)で陰にこもったギャバンとアルヌールが、楽しく陽気な顔を見せてくれるから堪らない。

嫉妬深いパン職人の恋人がいても、渋いダングラールに気持ちが移ってしまうニニ。
そのニニに秘かに恋をするアラブの王子。
そしてダングラールは、他の歌手にもちょっかいを出していたりして。

その辺りの恋愛劇が“ムーラン・ルージュ”の設立物語とミックスして、その話のうまさに引き込まれる。
それに、何と言ってもラストの“カンカン”踊りが凄い。
その楽しさ、素晴らしさは、ちょっとそこらでは見当たらない。
ただ観ているのが勿体ないような、ウキウキ感でいっぱいになってしまう。
そんな幸福感で満ちあふれた映画を作れるジャン・ルノワールの才能を、再認識してしまう作品であった。

ラスト近くで、ジョルジュ・ヴァン・パリスの曲、ジャン・ルノワールの詞にコラ・ヴォケールが吹き替えで歌う「モンマルトルの丘」を、YouTubeから貼り付けておきたい。

 

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フランソワーズ・アルヌールの『女猫』

2018年01月11日 | 1950年代映画(外国)

『女猫』(アンリ・ドコアン監督、1958年)をまた観てみる。

1943年のパリ。時はドイツ軍の占領下。
12月のある日、通信傍受したドイツ軍は、レジスタンスの技師ジャンのアパルトマンを襲撃する。
ジャンは窓枠の外に逃げたが、力尽きて墜落してしまう。
隊長のもとに逃げた妻のコーラは、夫のために、レジスタンスの一員として抵抗運動に加わる決心をする。

クリスマスの日、ドイツ軍のロケット設計図を盗む計画に成功したコーラは、その夜、バー“セレクト”でスイスの新聞記者ベルナールと知りあう。

実は、そのベルナールはドイツ軍の将校なのである。
休暇中の彼は、ロシア戦線に出発する前日にミュラー大尉を訪ね、そこでコーラの似顔絵をみる。
そこにある似顔絵は、「猫のような眼」の顔。

ミュラーは、盗まれた設計図のことでコーラを探していた。
ベルナールから彼女のことを聞いたミュラーの上司は、「ロシアの出発は中止し、コーラと交際して組織に潜入せよ」と命令する・・・

物語は、よくある戦時下のメロドラマ。
男がドイツ人で、女はフランス人。そして、その女はレジスタンスである。

ベルナールはコーラを一目見た時から好きになる。
それもそのはず、コーラは“フランソワーズ・アルヌール”
彼女に近づいて組織に潜入せよと言われるベルナール。

レジスタンスの組織が解明できたらコーラだけは助けてやる、と条件をもらいながら苦しむベルナール。
コーラの方は、ベルナールの正体に気づいた隊長から彼を殺すよう命じられる。
敵は憎いが相手の恋人は恋しい、そのジレンマが痛いほど身に染みる。

戦争としての背景はメロドラマ的に多少甘かったりするが、その時代の雰囲気は十分に出ている。
捕まったコーラが仲間を密告するよう強要されても口を割らない、その信念。
しかし、コーラ自身が言わなくても、捕まり処刑の運命にあるレジスタンスの仲間。
釈放されたコーラの歩いていくその姿が痛々しく、その後の結末がなんとも悲しい。

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『フランソワーズ・アルヌール自伝』を読んで

2018年01月08日 | 本(小説ほか)

『フランソワーズ・アルヌール自伝』(フランソワーズ・アルヌール/ジャン=ルイ・マンガロン著、石木まゆみ訳、カタログハウス、2000年9月 )を読んだ。
副題は「映画が神話だった時代」。
未だに、十代に観た『ヘッドライト』(アンリ・ヴェルヌイユ監督、1955年)の“アルヌール”が忘れられなくて、ついに、インターネットで取りよせた本である。

アルヌールは、1931年6月、当時フランス領であったアルジェリアの生まれ。
それは、父がアルジェリア駐留の軍人で、それも将軍であったからである。
そして、少女時代を兄と弟とともにモロッコで過ごす。

戦後、父をモロッコに残した家族はパリに移り住み、映画好きな少女アルヌールは映画の世界に憧れる。
元々、女優志願だった母は、自分の夢を叶えようとアルヌールの後押しをする。
高校を中退し、母の知り合いのボエル=テロン夫人の演劇学校にアルヌールは通う。

そして、何度かのオーディションの後、OKが出て喜ぶが悲しいことに主催者側の都合でおじゃん。
その後、やっと掴みとった『七月のランデヴー』(ジャック・ベッケル監督、1949年)でデビュー。
その時、ひと言だけのセリフをもらったが、セリフ場面は編集段階でカット。
と、そのような興味深いエピソードが続いていく。

そればかりか、アルヌールが徐々にスターになっていくに連れて、仕事に絡む広範囲な人々や有名人、それ以外の交友関係も次々と綴られる。
あまりに出てくる人の名前が多いので、末ページの人名検索を数えてみたら800名以上になっている。
よくもまあ、こんなにたくさんの人たちの、名前ばかりかエピソードが出てくることかと唖然とする。
中でも、シモーヌ・シニョレとの長年の交友関係が興味深い。
勿論、連れ合いであったジョルジュ・クラヴァンヌとの結婚と離婚、映像作家のベルナール・ポールとの再婚と死別も書かれている。

ただ、この本で少し分かりづらかったりするのは、フランソワーズ・アルヌールが内容を書いたというより、共著の人にインタビューを受けて本にしているとの印象を受ける。
だから、そのエピソードの時期、つまり年月がよくわからなく、読み手がその書き手の人生の流れをスムーズに捉えることができない。
とケチをつけながらも、私にとってはそれでもいい。
なにしろ、人がどう言ようが、フランソワーズ・アルヌールだから。

出演作品54本(1991年時点)中、日本上映が23本。
その中でスゥーと私が思い出すのは、『フレンチ・カンカン』(ジャン・ルノワール監督、1954年)、『ヘッドライト』(1955年)、『女猫』(アンリ・ドコアン監督、1958年)ぐらい。
観ている本数は心もとないが、極端に言えばアルヌールの作品は、『ヘッドライト』1本を観れば十分。
それだけで、一生虜にされるから。
今、思い浮かべても、ビニールコートを着た哀しげなアルヌールの姿に、自然と涙が滲む。
どうにかしてあげたかったという想いが、いつまでも脳裏から離れない。

この『ヘッドライト』は去年の秋、テレビで放映されたと聞く。
いつ観たのか思い出せないほど、若かったころに観たこの作品を、再度観直したら記事にしてみたいと思う。
折角のアルヌールがらみだから、次回は『女猫』のことでも書いてみようかなと思っている。

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『令嬢ジュリー』を観て

2018年01月04日 | 1950年代映画(外国)

若い頃から是非観てみたいと思いながら、未だ目に触れないままの作品がいくつかある。
そんな中の一つ、『令嬢ジュリー』(アルフ・シェーベルイ監督、1951年)をやっと観た。

ヨハネ祭のイヴ、伯爵家の納屋では農民や使用人たちが酒を飲み踊り興じている。
伯爵は知事の家に行って留守をし、娘のジュリーは使用人たちのダンスに交じる。
そこへやって来た下男のジャンをジュリーはパートナー役に選ぶが、彼は横柄な素振りをとる。

ダンスをやめたジャンは、料理人で許婚のクリスティンの部屋へ来る。
と、ジュリーも彼を追って来る。
そして、ジュリーはジャンに対して再度ダンスをしようと、挑発的な態度を取り始め・・・

物語は、スウェーデン、夏至祭の6月24日、白夜の宵から朝方までである。
ストリンドベルイの同名戯曲を、スウェーデン王室演劇場出身の監督、出演者で映画化。
戯曲の映画化といっても、ここにあるのは完全な映画の世界である。
人の表情の撮り方、シーンの構成の仕方、そのカメラワーク。
それらをないまぜにしての、主人公ジュリーとジャンの心の変化、葛藤とそれに伴う緊張感。

わがままで勝気なジュリーは、ジャンにしつこく付きまとう。
それに対して、ジャンの方はジュリーの戯れにうんざりしている。
が、
ジュリーが、恋をしたことがあるかを聞けば、
ジャンの答えは、思いを寄せ悩んだことの対象は、あなただ、と言う。

ジャンの幼い頃の経験。
湖の対岸の花園にいる、下の世界を知らない少女ジュリーへの関心、憧憬。

この物語に緊張感が張りつめ出すのは、この後で、ジュリーがジャンに身を任せてから。

主従の態度が、180度逆転する。
今までの横柄なジュリーが、オロオロと自立できない女としてジャンにすがる。

作品は、映画的手法を駆使して、ふたりの心的葛藤を、巧みなセリフでもって目を離せなくする。

ジュリーが身の上話を始める。
そこにあるのは、自身の親からの育てられ方。
男女同権を吹き込まれて育った平民出の、母の影響。
男の子としての教育と、それにつらなう生活態度の徹底。
父が育て方の間違いに気付いて女の子として育て出しても、男を憎むことを教えた母。

そして、今のジュリーの現実は、
家族の名誉を犠牲にして、下男に心を許したこと。
その事実を知るクリスティン。
伯爵にわかった時の、伯爵の苦しみを心配するクリスティン。
今やジュリーは、ジャンとの罪の贖いをどのようしたらいいかわからない。

罪の結果を背負わねば、と思うジュリー。
伯爵が帰ってくる。
伯爵の用聞きをして、召使いであることに目覚めるジャン。
そしてクライマックスでの、ジュリーにとっての剃刀の存在。

まさしく素晴らしいとしか言いようのない、傑作作品である。
映画とは、このようにして舞台劇作品を自己消化し、独自の作品とするものなのかと感心させられる。
ただラストのジュリーの自害については、もう少し納得させてほしいと、贅沢な愚痴も出してみる。
と言っても、作品への想いは変わらない。やはり、これはすごい傑作である。

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