ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『百万本のバラ』

2022年10月27日 | 音楽
以前から加藤登紀子の歌で馴染みの『百万本のバラ』を、最近、他の歌い手で聴いていたりする。
歌っているのはYOYOMI(パク・ユンア) 
                           【YouTubeより】


ロシアのアーラ・プガチョワの持ち歌であるこの歌の内容は、グルジア(現ジョージア)の画家ニコ・ピロスマニがフランス人の女優マルガリータに恋をし、
彼女の泊まるホテルの前の広場を花で埋め尽くしたという逸話をもとにしている。
                           【YouTubeより】 百万本のバラ/アーラ・プガチョワ


原曲である「マーラが与えた人生」は、バルト三国のラトビアの作曲家ライモンド・パウルスがソ連統治時代の1981年に作曲した。
アイヤ・ククレが歌唱する歌詞は、大国に翻弄されるラトビアの苦難を暗示する内容で、現在のウクライナ・ロシアの関係に通じる。
                           【YouTubeより】 マーラが与えた人生/アイヤ・ククレ(「百万本のバラ」の原曲)


そのロシアによるウクライナ侵攻に関連して、歌手アーラ・プガチョワは、夫のガルキンが今年秋、ロシア政府から「外国の代理人」(スパイ)として認定されると、
「私も『代理人』に認定せよ、私も夫と同じく平和を望み、軍事作戦の幻想に踊らされて若者が死ぬことに心を痛めている」と、ロシア政権を批判した。
(Wikipediaより)
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『ふたりの女』を観て

2022年10月24日 | 1960年代映画(外国)
『ふたりの女』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1960年)を観た。

第二次大戦中、空襲が増すローマ。
女手ひとつで食料品店をやり繰りするチェジラは、ひ弱な13歳の娘ロゼッタのために生まれ故郷に疎開しようと決意する。
留守中の店の管理は、先立たれた夫の友人ジョヴァンニに託す。
ジョヴァンニはチェジラに好意を抱いていて、チェジラは抗いながらもジョヴァンニに身体を許すことになる。

生まれ故郷の村では、まだ食料困難までにはなっておらず、大勢の人が疎開して来ていた。
その中の一人、青年ミケーレは何かとこの母娘に気を配ってくれ、ロゼッタはいつしか彼を慕うようになった。
だが彼女は、ミケーレが母を愛していることに感づいていた。

戦況はムッソリーニ政権が崩壊し、村を支配していたドイツ兵は逃走のための道案内としてミケーレを拉致して行った。
そして程なくして、米軍が戦車を連ねて進駐してきた・・・

米軍も来るようになり、戦争の終わりが近いと判断した疎開していた人達は、村を後にし始める。
チェジラも、ロゼッタを連れてローマに帰ることにする。
ローマへの帰路の途中、廃墟となった教会で休息しようとした二人は、北アフリカ植民地兵であるモロッコ兵士の集団に襲われる。

この作品は、昔から是非とも観たかった映画のひとつで、それを今回やっと観た。
と言うのも、後半の二人の悲惨さについては色々と耳にしていたからである。

確かに酷い。
母親と娘が同じ場所で大勢に強姦される。
兵士たちが立ち去って、母親であるソフィア・ローレンがそばで茫然自失となって倒れている娘を抱きかかえる。
想像以上に残酷である。
そればかりか、二人にとって大事な人であるミケーレはもうこの世にいない。

戦争とは何であるか。
大義名分を持って戦争を指令している人間には、一般市民の個々の惨状には思いを至らないであろう。
どんな理屈も要らないから、まずは、戦争は起こしてはならないと、ロシアの独裁者をみて思う。
この作品は、ソフィア・ローレンの真に迫る演技やジャン=ポール・ベルモンドを見たいという以上に、誰もが観るべき映画であると痛感した。
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『はちどり』を観て

2022年10月18日 | 2010年代映画(外国)
『はちどり』(キム・ボラ監督、2018年)を観た。

1994年、ソウル。
家族と集合団地で暮らす14歳のウニは、学校に馴染めず、 別の学校に通う親友と遊んだり、男子学生や後輩女子とデートをしたりして過ごしていた。
両親は小さな店を必死に切り盛りし、 子供達の心の動きと向き合う余裕がない。
ウニは、自分に無関心な大人に囲まれ、孤独な思いを抱えていた。

ある日、通っていた漢文塾に女性教師のヨンジがやってくる。
ウニは、 自分の話に耳を傾けてくれるヨンジに次第に心を開いていく。
ヨンジは、 ウニにとって初めて自分の人生を気にかけてくれる大人だった。
ある朝、ソンス大橋崩落の知らせが入る。
それは、いつも姉が乗るバスが橋を通過する時間帯だった。
ほどなくして、ウニのもとにヨンジから一通の手紙と小包が届く・・・
(公式サイトより)

ウニの家族の描かれ方を見ていると、1990年代の韓国はまだ相当に家父長制となっているようで、
支配的な父親が、家族に対する抑圧は多少緩やかになっていたとしても、母親や兄・姉、そしてウニは当然逆らえない。
そんな父は、いずれ兄デフンにはソウル大学に入学をと期待する。
中学2年生のウニは勉強が好きでなく、兄からは殴られたりして、バラバラな感じの家庭の中で居場所が定まらない。
ウニの心は揺れ動き、ボーイフレンドのジワンと一緒にいるのは心地良いが、
それでも、親友ジスクと万引きに手を染めて店主に捕まり、連絡を受けた父親は警察に引き渡してもらってもいいと言う。

そんな少女ウニの心の満たされない日常の中にあって、ジスクと二人で通う塾の新しい先生ヨンジに出会い、
内に秘めた感じのヨンジになぜか徐々に親しみを覚え、自分の拠りどころとなっていく。
そればかりか、後輩の少女ユリからは恋愛の感情に似た憧れの思いの熱意で慕われたりもしていく。

しかし、それもこれも壊れたり再生したり、そしてまた崩れ去って行ったりして、揺れ動く心のウニは、
先生ヨンジの悲しい出来事とも相まって、これからも続いていく日々の中で少しずつ成長していくのではと予感する。
その中心点にあるのは、多少ギクシャクしながらもやはり家族の愛と絆の結びつきと想像する。

一人の少女をこのように中心に据え、ドラマぽくなくリアルで繊細な心の綾を紡ぎ出す演出を、
第一作目の作品として監督するキム・ボラという人の今後に恐ろしさも感じ、心に沁みるこれ程の傑作は久し振りと感心した。
コメント (2)
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『まぼろしの市街戦』を観て

2022年10月10日 | 1960年代映画(外国)
『まぼろしの市街戦』(フィリップ・ド・ブロカ監督、1967年)を観た。

1918年10月。第一次世界大戦末期の北フランスの小さな町でのこと。
イギリス軍に追撃されたドイツ軍は、その田舎町から撤退する際に、イギリス軍を全滅させるため村のある場所に大型の時限爆弾を仕掛けていった。
イギリス軍司令官は、町に潜入し爆弾の時限装置の解除する役目を、たまたまフランス語が出来るというだけの理由で、
通信兵である伝書バト係のスコットランド人、プランピック二等兵に命令する。

町に侵入したプランピックは、残留していたドイツ兵と鉢合わせになってしまい、たまたま開門していた精神病院に逃げ込む。
そこでは、老若男女の患者たちが戦争をよそに、楽しげにトランプ遊びをしていた。
彼らに名前を聞かれたプランピックは、適当に“ハートのキング”と自称したことから、患者たちの王様に祭り上げられる。

町の人々が逃亡し、ドイツ兵も撤退してもぬけのからになった町。
取り残されたのは、患者たちとサーカス団の動物だけ。
彼らは町中に繰り出し、思い思いの役を演じる。
司教になる者、軍人になる者、貴族になる者、美容師になる者、娼館のマダムになる者。
ひとときのお祭りのような、リアリティのない奇妙な日常生活に、プランピックは取り込まれていく。
そんななか彼は、美しい少女コクリコを始め、徐々に精神病院の“狂人たち”に親しみを覚え始める・・・
(Wikipediaを一部修正)

この作品は端的に言うと、戦争を茶化し、そして戦争そのものを客観視しながら、明るくユーモラスに富んだ作り方をしている。
それによって、精神病患者といわゆる戦争指令者を対比した場合、どちらが本当にまともなのかを考えるキッカケとなっている。
そのいい例が、ラストでプランピックが次の前線に送られる時、一人コッソリと、この精神病棟の仲間になっていく場面に象徴される。

それとダブらせ、現在のウクライナ・ロシアの現状を考えると、独裁者はなんと馬鹿馬鹿しいことを行っているのかと、痛ましく歯がゆい思いがする。
映画の中ではいい。敵味方がみんな亡くなってしまっても、所詮人間はこのような馬鹿なことをいつの時代もしているのだなと納得していればいいいから。
ただ現実はそうはいかない、身近な人々、特にその内のかけがえのない一人でも亡くなれば、残る者の悲痛は想像するに忍びない。
世の中がきな臭い方向にグングン進んでいく中、もう一度立ち止まって、このような作品から世の中の方向転換となるいいヒントを得たいとしんから願う。
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『キャット・ピープル』(1942年)を観て

2022年10月09日 | 戦前・戦中映画(外国)
『キャット・ピープル』(ジャック・ターナー監督、1942年)を観た。

ニューヨークのセントラル・パーク動物園。
セルビア出身でイラストレーターのイレーナが黒ヒョウをスケッチしながらクズを出したところ、通りがかった船舶設計師のオリバーが拾う。
イレーナは、快活なオリバーに心を許し、家まで送ってくれた彼にお茶を振る舞う。
その後、二人はお互い恋愛感情を抱き、やがて結婚にたどり着いたが、イレーナには秘かな悩みがあった。

彼女の生まれたセルビアの小さな村は、昔から呪われた魔女の村として、嫉妬や欲望を持つ者はヒョウに変身すると言われていた。
イレーナの父は森で不審な死に方をし、それが元で母親は猫女と罵られていた。
そのためにイレーナはいじめのトラウマを持っていた。

オリバーとイレーナは、結婚してからも寝室は別々のままであった。
イレーナからすると、本心から恋に落ちキスでもしようものなら邪悪な心が芽生えて、相手のオリバーを殺しかねないとの警戒からだった。
そんなイレーナを見かねてオリバーは、精神科医ジャドのカウンセリングを受けるように勧める。
ジャドは、イレーナの症状からみて、これは幼少期のトラウマからくる妄想だと診断する。

イレーナのことを心配するオリバーは職場の同僚であるアリスに悩みを打ち明け、この親身な話を契機に、二人は互いに友情以上のものを意識する。
そのような二人の関係に気づいたイレーナは、やがてアリスに付きまとうようになり・・・

ナスターシャ・キンスキー主演の『キャット・ピープル』(ポール・シュレイダー監督、1982年)を観て、もう40年も経つ。
あの作品では、ナスターシャ・キンスキーが黒ヒョウに変身していく様が印象深く残っている。
その元作品である1942年版を一度観てみたいとかねがね思っていて、今回やっと観た。

この作品は当時B級作品として作られ、上映時間もわずか73分足らずである。
しかし、出来は丁寧であり、シモーヌ・シモン扮するイレーナの愛することへの不安感、“猫族の血筋”に対するジレンマが素直に伝わってくる。
そしてホラーとしてのおどおどろしさは微塵もなく、イレーナはひょっとしたら黒ヒョウなんかではなく、これは単なる本人の妄想かなとの思いも想定させるようにも作ってあり、
その辺りの手腕が優れていて、今でも通用する作品であると感心した。
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『黒い牡牛』を観て

2022年10月07日 | 1950年代映画(外国)
『黒い牡牛』(アービング・ラッパー監督、1956年)を観た。

メキシコの田舎の貧しい農家に育ったレオナルド少年。
母の葬式を終えた晩、落雷で倒れた大木の下敷きで死んだ母牛のそばに、生まれたばかりの黒い子牛をみつけて家に連れ戻る。
父親から育てることを許可を得て、闘牛用の猛牛の子にも拘らず“ヒタノ(ジプシー)”と名付けられた子牛は少年によくなついた。
だが「ヒタノは雇主である牧場主の所有だから烙印を押さねばならぬ」と父親から聞かされたレオナルドは、学校の先生の助けを借り牧場主に手紙を送る。
それを読んだ牧場主は、子牛をレオナルドに譲ると約束した。

2歳を迎えたヒタノは、逞しく育ち、闘牛用のテストにも勇猛ぶりを見せた。
たまたま、レオナルドが学校を卒業した日、牧場主は自動車レースによる不慮の事故死をする。
やがて牧場主の財産処分となり、レオナルドは牧場主からの譲渡証明の手紙を探しても見つからず、ヒタノが自分の物であることを証明できなかった。
そのためヒタノは競売に掛けられ、メキシコ市の闘牛場へ送られることになって・・・
(Movie Walkerより大幅修正)

児童映画とまでは言わなくても子どもと子牛が主役となっていて、大人の世界の都合によって当人たちが何度も引き離されそうになったりする。
だが、ここには悪意のある人物は現われない。
そのことが単純というか、筋の起伏はあっても単調なところともなっている。
しかしそのことが反って、レオナルド少年の子牛ヒタノに対する一途の思い、愛情がヒシヒシと伝わってくる要因ともなっていて、観ていていいなと思う。
そのいい例が、終盤近く、レオナルドが首都メキシコシティーへ行ってから、ヒタノの闘牛をストップさせようと大統領に会うカラクリは余りにも能天気すぎ、でもそれも良しかなと思えてしまう。

ただ全体的にそんなヤワな作品かと言えば全然そうではなくって、ラストに向かっての闘牛ヒタノと闘牛士による長い闘牛場シーンは、驚くほどの観客の多さもさることながら興奮のるつぼと化す。
そしてラストシーンのレオナルドとヒタノに向かって、いい映画を見せてくれたねと拍手を送りたくなる。
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