ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『青い麦』を観て

2017年09月19日 | 1950年代映画(外国)
『青い麦』(クロード・オータン=ララ監督、1953年)を観た。

北フランスの海辺の避暑地。
その年の夏も、一軒の別荘を共有しているフィリップとバンカの両家が訪れる。
フィリップ16歳、バンカ15歳。二人は従兄妹で幼馴染の間柄である。

嵐が収まった日の夜、映画を観た二人は、その後で初めてのキスをする。
翌日の浜辺での二人。
昨夜のキスに対する想いがずれる二人。

フィリップは、一足先に浜辺から丘に上がる。
そこへ車で来たダレル婦人が、フィリップに道を尋ね・・・

バンカはフィリップとキスしたことによって、思いがフィリップより姉さんで、彼との結婚を夢みる。
片やフィリップは、子供の自分には自由がなく、大人になる日数を計算する。
そこに、まだ憧れの域しかない性の対象の女性ダレルが、フィリップの目の前に現れる。
彼がそれを意図していなかったとしても、始めて知る年上の女性による未知の世界。
それをフィリップは、愛と思う。

このひと夏を、時を隔てて振り返った時に、痛烈な思い出と共に、感傷に浸るのはフィリップよりはバンカの方ではないか。
少女が、あることをきっかけに大人になるということ。
それは少年の場合より、余程強烈でないか、そのような印象を受ける。

私がまだ青年だった頃の、避暑地でのひと夏の年上の女性への想いの映画、性への憧れも絡んで何本か観た記憶がある。
その中でも『おもいでの夏』(ロバート・マリガン監督、1971年)は、青春の痛みとして、鮮明な記憶が残り忘れられない。
そのような映画の先駆けとして、この『青い麦』も、じんわりとしながら強烈な印象を残す作品である。
特に、バンカのフィリップに対する想いは、これが私たちの青春そのものなのでないか、そういう感慨を湧き立たせる。
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『しのび泣き』を観て

2017年09月14日 | 戦後40年代映画(外国)
前回の『悲恋』の監督、ジャン・ドラノワの作品を観た。
題は『しのび泣き』(1945年)。

時は1920年。
楽壇を引退し、パリから離れた田舎の豪邸で静かな余生を送っている、バイオリンの巨匠ジェローム・ノブレ。
彼の弟子になりたい若者たちが面会に訪れるが、ジェロームは会わない。
村のはずれに投宿している弟子志願の者たちと、同宿の青年ミシェル・クレメル。

ジェロームの娘アニエスが馬車を駆っていると、ミシェルが道端でバイオリンを弾いている。
ミシェルに好意を抱いたアニエスは、父に引き合わせる手筈を取る。

ミシェルは、自ら作曲したバイオリン曲を弾き、それを聞いたジェロームは言う。
「君は天才だ。だが大いなる才能には、多大な代償がつきものだ。私はアニエスが大事だ。消えてほしい」・・・

ここから、ミシェルとアニエスの悲劇が始まっていく。

ジェローム・ノブレに見放されたミシェルは、作曲した楽譜を燃やして音楽界に見切りをつけ、宿のお手伝いイレーヌと一緒になる決心をする。
それを目撃するアニエス。傷心するアニエス。

1928年。
パリで楽譜出版業を営むアンスロの妻になっているアニエスは、ある雨の夜、裏街の映画館の楽士となっているミシェルと再会する。
偶然の成り行きの二人の再会。

アニエスの力添えで、ミシェル独奏による協奏曲の演奏会が開かれる。
しかし酔って、土壇場で現れるミシェル。
失敗したコンサートの後で、ミシェルはアニエスに言う「野心はとっくに捨てた。不運を嘆くのも楽しい」と。
アニエスは言う。
「結婚していようとも、あの時からひと筋。無名のままのあなたでもいいの。恋人がいようが私の気持ちは変わらない」

そして、思い募った二人の、外国への逃避行の望み。
それにしても悲しいことに、二人にはまたしても不幸が襲い掛かり、その望みは成就されない。
そこが無茶苦茶いい。
その良さは何も筋立てばかりでなく、画面から漂う雰囲気そのものが何とも言えず、それに酔いっぱなしになる。

この物語は、数年後へとまだまだ続いていく。
大人である二人は当然、分別もありそれこそ世間の道にそれていない。
でも、内にある凝縮された愛の想いを見ていると、胸に突き刺さって感動以外の言葉が見当たらない。

十代の始めに夢中になってテレビで観た映画、その一群のイメージが濃厚に漂っていて、私にはとっても愛着を感じる作品だった。
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『悲恋』を観て

2017年09月12日 | 戦前・戦中映画(外国)
前回の連想で、ストーリー、脚本がジャン・コクトー(1889-1963)の『悲恋』(ジャン・ドラノワ監督、1943年)を観た。

フランスはブルターニュ。
妻に先立たれている地方領主のマルクは、領地内の城に身内の4人と一緒に暮らしている。
一人が、亡き妻の姉妹の子で、両親のいない青年パトリス。
その他に、やはり妻の妹であるゲルトルートとその夫、そして夫婦の子アシール。

マルクは、パトリスには愛情を注いでいるが、ゲルトルート一家のことは厄介者に思っている。
しかしマルクにとって、ゲルトルートは義妹なので追い出すこともできない。

ある日、パトリスは、叔父マルクに結婚したらどうかと提案し、
マルクから了承を得た彼は、領地内の島へ花嫁探しに出かける。

船に乗って島に来たパトリスは、とある酒場で荒くれ者とケンカになり、ナイフで傷を負って気を失う。
その場にいた女性、ナタリーは周囲の人に頼み、パトリスを自分の家に運んでもらい・・・

傷が回復したパトリスはナタリーに、叔父との結婚を申し出る。
ナタリーは、彼女の婚約者気取りでいる荒くれ者から逃れられるし、
希望もない寂しい島から離れられると、その夢にのる。

このようにして物語はどんどん進んで行き、この成りゆきが観ていて最後まで飽きない。
それもそのはずで、内容は「トリスタンとイゾルデ」の伝説を基にしている。
だから、パトリスとナタリーには“媚薬”が重要な役割を果たすことになるし、
後半には、もう一人の“ナタリー”が現れる。

勿論、筋ばかりでなく映画的にも興味が尽きない。
特に、悪だくみをする小人症アシールの、パトリスを見る眼の表情などはサスペンスを帯びていたりする。
そして、パトリス役のジャン・コクトーの作品には欠かせない“ジャン・マレー”がナイーブで、全体の雰囲気にマッチしている。

この作品が多少は時代掛かっていると感じたとしても、私にとっては決して飽きることのない、非常に優れた「悲恋物語」であった。
コメント (2)
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『恐るべき子供たち』を再度観て

2017年09月06日 | 1950年代映画(外国)
前回に関連して、ジャン・コクトー絡みの『恐るべき子供たち』(ジャン=ピエール・メルヴィル監督、1950年)を観た。

ある晩、中学生たちは学校での広場で雪合戦を始める。
ポールは、 慕っているリーダー格のダルジュロスを探す。
ダルジュロスはポールに気付き、石入りの雪玉を投げる。
みごと、雪玉はポールの胸に当たり、持病を持っていた彼は血を流して気絶する。

ポールの友人、ジェラールがポールをアパートへ送っていく。
病弱な母を抱えている姉エリザベートは、それを見てジェラールに怒りをぶつける。

ポールが学校を休んで療養している間に、ダルジュロスの方は、校長に反抗し放校処分を受けている。
それを知ったポールは、失意の感情を味わい・・・

ちょうど40年前、仕事研修の合間の日曜日に、池袋の名画座で「新学期 操行ゼロ」(ジャン・ヴィゴ監督、1933年)と二本立てで観たのがこの作品である。
今でも印象に残っているのが、内容よりも、主人公や友達が、中学生なのに大人そのものであることに対する違和感。
それと、白い女性彫像の顔にある黒い大きなカイゼル髭。

ジャン・コクトーの小説をジャン=ピエール・メルヴィル監督が映画化し、
脚色はメルヴィルとコクトー。ナレーションはコクトー自身が担当している。
だから、コクトーの色合いが濃厚。

ひとつ部屋で、ポールを看病するエリザベート。
二人にとってここは、もともと、自由に夢想に浸れる世界であった。

それが、母の死後、エリザベートがモデルとして働き始め、女友達のアガートを部屋へ連れてくるようになってから様子が変わる。
ポールにとって、アガートがダルジュロスと瓜二つだったからだ。

この辺りから、作品の内容がグングンと盛り上がっていく。
城のような屋敷。
そこの広間の隅っこで寛ぐ、エリザベート、ポール、アガート、ジェラールの4人。

悲劇のラストに向かって進んでいく話術の凄さが堪らない。
エリザベートの弟ポールへの想い。
ポールのアガートに対する恋。
しかし、この恋の本当のところは、ダルジュロスへの幻想としての恋ではなかっただろうか。
つまるところ、大人になることに対する無意識な拒否。

ここには、後世に残る作品としての価値・要素が十分に含まれている。
現に、時代がそれを証明している。
それに加え、次の世代“ヌーヴェル・ヴァーグ”の若手監督へと影響していったことを思えば、やはり重要な映画の一つである。
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『詩人の血』を観て

2017年09月04日 | 戦前・戦中映画(外国)
レンタル落ちのDVDが安かったので11本買ってきた。
ほとんどが古い時代のフランス映画。
念の為に、記録面を調べてみると、やけにきれい過ぎる。
と言うことは、どうも、レンタルで置いていても商売にならないので放出したみたいだ。
その中から、まずは、アヴァンギャルド映画として有名な『詩人の血』(ジャン・コクトー監督、1930年)を観てみた。

作品自体は、4話で構成されていて、

第1章「傷を負った手 もしくは詩人の傷跡」
絵画の制作にはげむ画家。
彼は女性の顔を描いている。
が、ふと画布から目を離すと、描かれた口が呼吸をし始める。
画家はびっくりして、思わずそれを手で擦って掻き消すと、いつしかその口は彼の手のひらに移ってしまう。
詩人はその口をどうにかしようとして、女性の彫像の顔に移す。

第2章「壁に耳はあるのか」
すると彫像は語り出し、彼に、鏡の中に飛び込めと言う。
詩人が飛び込むと、異常な熱気に包まれたホテルの世界へと行き着く。
彼は、その各戸のドアの鍵穴を覗き・・・

そして、第3章「雪合戦」。
第4章「聖体の冒とく」、と続く。

物語は、ストーリーを無視して、断片的なイメージらしきものを次々と繋いでいく。

当時の究極の表現方法を駆使した実験映画。
まさしくの前衛映画である。

この作品は、ジャン・コクトーの映画監督としてのデビュー作である。
これを観ると、コクトーが多才な芸術家であったことがよくわかり、そればかりでなく、知らずうちに“コクトーの世界”へと誘われていく。
そこでは、詩の世界が広がっていく。
「映画による詩」
コクトーにとっては、映画もひとつの思想の表現手段だった、と納得した。
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