goo blog サービス終了のお知らせ 

ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『希望のかなた』を観て

2022年04月29日 | 2010年代映画(外国)
『希望のかなた』(アキ・カウリスマキ監督、2017年)を観た。

フィンランドの首都ヘルシンキ。
トルコからやってきた貨物船に身を隠していたカーリドは、この街に降り立ち難民申請をする。
彼はシリアの故郷アレッポで家族を失い、たったひとり生き残った妹ミリアムと生き別れになっていた。
彼女を探し出してフィンランドに呼び、慎ましいながら幸福な暮らしを送らせることがカーリドの願いだった。

一方、この街に住むヴィクストロムは酒浸りの妻に嫌気がさして家出し、全てを売り払った金をギャンブルにつぎ込んで運良く大金を手にした。
彼はその金で一軒のレストランを買い、新しい人生の糧としようとする。
そのレストランの三人の従業員たちは無愛想でやる気のない連中だったが、ヴィクストロムにはそれなりにいい職場を築けるように思えた。

その頃カーリドは、申請空しく入国管理局から強制送還されそうになり逃走し、出くわしたネオナチの男たちに襲われる。
ヴィクストロムのレストラン脇に潜んだカーリドは、いぶかるヴィクストロムと拳を交えるが、彼のレストランの従業員に雇われたばかりか、寝床や身分証までも与えられた。
商売繁盛ためにヴィクストロムは寿司屋事業にも手を出し失敗するが、それでもいつしか他の従業員たちもカーリドと深い絆で結ばれていった・・・
(Wikipediaを修正)

久し振りにアキ・カウリスマキの作品を観た。
難民問題の深刻な内容を相変わらずのとぼけた感じの味付けで、ついつい、知らず知らず作品に引き込まれてしまった。

現在のウクライナの問題といい、この映画の背景となっているのは現実の状況そのものである。
ただ、この作品を観て救われると思うのは、名もない市井の人たちの社会の片隅での善意の優しさが見てとれるから。
そして、このような優しさに共感できる人の輪が少しでも広がれば、本来、人と人ひいては国と国の争いは起きないはずなのに、と甘く夢想する。

理由をつけて他国に侵略するということ。
すべてはその国の指導者に責任があるはずだが、その指導者を支える国民がなければ出来ないはずである。
もっとも国民はそれ以前に、権力者から巧妙に言論を封じられていたり情報操作されていたりするから、否と言おうとしてもその時はもう遅かったりする。
だから物事についての判断は常に自分でするよう訓練しておかないと、いざと言う時に取り返しがつかない、と映画から派生して考えた。

『恋愛専科』を観て

2022年04月26日 | 1960年代映画(外国)
『恋愛専科』(デルマー・デイヴィス監督、1962年)を観た。

名門女子大で「恋愛専科」という本を生徒に貸したが問題となり、自ら職を辞して、愛を知るためにローマにやってきた女教師のプルーデンス。
船で知り合った金持ちの紳士ロベルトに紹介された下宿先で建築を学んでいるアメリカ人留学生ドンと出会い、恋に落ちる。
プルーデンスはドンと一緒に夏のバカンスを楽しむが、二人の前にドンのかつての恋人で画家のリーダが現れ、プルーデンスにかつての関係を見せつける。
ドンの心に未練があることを知ったプルーデンスはローマを離れ、帰国することを決意する・・・
(ハピネットの内容説明より)

ローマの名所旧跡から始まってイタリア北部マジョーレ湖を巡る、まさしくトロイ・ドナヒューとスザンヌ・プレシェットによる観光映画。
と言っても単なる観光ものという感じでなくって、愛し合う二人の姿がメインとなっているから、見ているこちらもワクワク感が盛り上がってとっても楽しい。
内容的には単純で、ラストも物足りないハッピーエンドとなっているけれど、それでも十分に飽きない。
そればかりか、ついついウットリしてしまうのはなぜだろう。
やはり流れる「アルディラ」(歌:エミリオ・ペリコーリ)とスザンヌ・プレシェットの影響か。

十代の頃、好きな女優と言えば、ナタリー・ウッドとスザンヌ・プレシェットだった。
ナタリー・ウッドは『ウエストサイド物語』(ロバート・ワイズ/ジェローム・ロビンズ監督、1961年)や、
特に『草原の輝き』(エリア・カザン監督、1961年)で強烈な印象があるから自分としても理由はよくわかるが、
スザンヌ・プレシェットの方は『鳥』(アルフレッド・ヒッチコック監督、1963年)の小学校教師役ぐらいしか観ていないと思う。
それでもスザンヌ・プレシェットが好きだった。
今思い起こせば、高校の時、同級生にスザンヌ・プレシェットに似た雰囲気の子がいて、いいなと思っていたので多分その影響からだったと思う。

いずれにしても、自分の過去のこともない交ぜになって、若者同士の恋愛映画に理屈はいらないなと思った。

【YouTubeより】まず、マックス・スタイナーの音楽がムードを盛り上げる。


【YouTubeより】そして、エミリオ・ペリコーリの「アルディラ」


【YouTubeより】続いて演奏されるアル・ハートの「アルディラ」

『尼僧ヨアンナ』を再度観て

2022年04月18日 | 1960年代映画(外国)
『尼僧ヨアンナ』(イエジー・カヴァレロヴィチ監督、1961年)を観た。

17世紀中頃のポーランド辺境の寒村。
スーリン神父は悪魔祓いのために、宿屋の下男の案内で尼僧院に行く。
これまでに4人の神父が悪魔払いに来たが全員失敗している。
そのため、スーリン神父が5人目として派遣されてきた。

スーリン神父に会った尼僧長ヨアンナは、自分に8つの悪魔が取り憑かれている、と言う。
だから助けてほしいと願うヨアンナだったが、笑い声を上げて後ろ姿から振り返る時は別人となっていた。
悪魔となって喋るヨアンナは壁伝いに歩き回り、部屋から出ていく時、壁に手形を残していく。

村人たちが見守る中、尼僧たちが広間に集まる。
そこでは、4人の神父たちによって悪魔祓いの儀式が始まるところで、スーリン神父は壇上でその様子を見ていた。
聖水をかけられ、悲鳴を上げながら逃げ回る尼僧たち。
神父に十字架を振られたヨアンナは、呪いの言葉を吐き散らすが、その後どうやら一人の悪魔が去ったらしい。
だが他の悪魔によって、ヨアンナは床を転がり、神父たちからがんじがらめにベンチに縛りくくられるのだった・・・

この作品は二十歳頃に映画館で観た。
場末のその劇場は、それ以前はマイナーな名画を上映していたが、経営が成り立たないのか3本立てピンク映画館に変わってしまった。
それでも新聞の映画欄をチェックしていると、ピンク映画2本の間に名画が挟まっていたりしていた。
そんな1本が、この『尼僧ヨアンナ』だった。

しかし、煙草の煙モウモウとして薄汚れたスクリーンに映るこの作品は、勇んで観た割にはよくわからなかった。
ましてやピンク映画目的のおじさん客は、こんな小難しい作品を楽しめるかなと同情したりした記憶がある。

カヴァレロヴィチ監督の代表作とされるこの作品は、なる程、それなりに凄いと言われる理由があると思う。
白黒画面のコントラスト、悪魔祓いの場面の舞踏らしき構図の的確さ、無駄のないストーリー。

まずこの作品には原作があり、その原作は、1634年にフランス中西部にある町ルーダンに実際に起こった尼僧の集団悪魔憑き事件を元にしているという。
それに先立つ1617年、ルーダン内にある教会司祭にグランディエという人物が指名され、ハンサムで教養のある彼は娘たちの注目の的になって浮名を流したという。
ある日、女子修道院長が悪魔憑きとなり、その原因はグランディエが邪悪な悪魔だとなり、結果、聖職者たちに処刑されてしまったという。

映画では、そのような前段が省略されていて、わずかな会話と殺風景な丘にある火刑台跡だけで表現されている。
そのようにして最後には、悪魔がヨアンナからスーリン神父の内に住み着き、それを、スーリンはヨアンナに対する愛のために殺人を犯して自ら引き受ける。
このように作品は、悪魔憑きに対して徹底してストイックに追求する。

それにしてもその内容は、一応理解できるとしても所詮、キリスト教に縁遠いためか本質的な理解は不可能と思わずにいられない。
そう言えば、それ以後に作られた『エクソシスト』(ウィリアム・フリードキン監督、1973年)でも、評判になった割にはイマイチ、ピーンと来るところがなかったことを思い出した。

イエジー・カヴァレロヴィチ監督の『夜行列車』を観て

2022年04月13日 | 1950年代映画(外国)
『夜行列車』(イエジー・カヴァレロヴィチ監督、1959年)を観た。

サングラスをかけた中年男イエジーは、ワルシャワ駅から北上しバルト海沿岸の避暑地へ向かう夜行列車に乗ろうとする。
生憎、指定券を忘れた彼だが、独りになりたいために女性車掌と交渉し、15,16号室の指定席を確保する。
しかしこのコンパートメントに行くと、若い女性が占有していて決して席を空けようとはしなかった。

結果、イエジーは見知らぬ女マルタと個室を共にすることになり、夜行列車はいろいろな人々の思惑を乗せて走り出した・・・

同室になったイエジーとマルタは仕方なく会話を交わすが、話は噛み合わず、ギクシャクした感情のまま列車に身を委ねる。
なぜイエジーは独りになりたかったか。
マルタはなぜ孤独そうなのか。
列車の狭い通路で新聞を読む客の記事には妻殺しで逃亡中の事件が載っている。

名前も何も知らない他人同士が乗る列車の中の会話では、通り一遍的で深くその人物の人となりは見えてこない。
老牧師と若い牧師、不眠症に悩む男、独身主義のハゲの男、そして隣室の老弁護士とその妻など様々な人々。

老弁護士の妻は、溜め込んだストレスのために刺激を求めてイエジーに色目を使う。

二等車両には、マルタへの未練を捨て切れずにいる若いスタシェクが乗り込んでいる。
列車内では、満員の普通席の二等車両から指定席の一等車両へは遮断されていて行くことができない。
だからスタシェクは、熱がさめている感じのマルタにどうにかして会おうと必死である。

列車は走り続け、時と共に徐々に明らかになってくる人々の内面。
臨時停車。
そこに警察が乗り込んできて、16号室にいるイエジーに手錠を掛ける。
イエジーとしては何のことか訳が分からない。

物語はスリリングな展開と張り詰めた雰囲気で盛り上がっていく。
その緊張感を醸し出す、走り続ける列車の音。

狭い個室や通路の空間を巧みに使用したカメラワーク、その人々の顔の描写。
少ない会話から滲み出てくる、個々の人物の内実。
そして最後に、朝、終着駅のホームに降り立ってバラバラに分かれていく人たち。
トランクを持って、静かに、白波の見える砂浜を一人歩き続けるマルタ。

映画はサイレントから生まれて来たように、本来、このように無駄がない映像で見せるべきだと言う見本ような作品であった。
それ程、見事に映画の本質を突いていると、これこそ真の傑作の一本であると、思った。

イエジー・カヴァレロヴィチ監督の『影』を観て

2022年04月11日 | 1950年代映画(外国)
『影』(イエジー・カヴァレロヴィチ監督、1956年)を観た。

ドライブする男女の目の前で、並行する列車から男が飛び降りた。
驚いた二人がその場に行ってみると、男の顔は潰れ、身許の手がかりになるものはなかった。
この男を検死した医師クニシンはこれがキッカケで、戦時中に起こった地下抵抗組織に関するある事件を語った。

当時、地下抵抗組織に属していたクニシンは、ワルシャワ郊外の修理店を連絡所として活動を続けていた。
ある日、武器調達資金を得るために、クニシンの班はドイツ軍と関係があるポーランド人の店を襲った。
しかし、金を手にしようとした丁度その時、突如、別の一隊がやってきて、お互いに敵と誤認した同士で激しい銃撃戦となった。
そして、クニシンを除いて二グループの全員が死傷してしまった。

偶然にしては筋立が上手すぎ、クニシンはそれ以後、この事件に疑惑を感じた・・・

先の鉄道事故の直後に無賃乗車し逃げた青年、ミクワが近くの駅で捕らえられた。
ミクワは無賃乗車した理由を拒み、公安のカルボフスキが彼を引き取るために駅に行った。
そしてカルボスキは、戦争直後のある出来事を思い出す。

大戦直後でポーランド国内がまだ混乱し不安定な状態の頃。
共産党員の中尉カルボフスキは、ヤシチカと言う兵士と共に、"小隊"と呼ばれるヤクザな集団に潜入することになった。
うまく騙したつもりで相手の隊長の部落にたどり着いたが、実はヤシチカはその集団の一味だった。
カルボフスキは自分が持っていた手榴弾で危機一髪の難を逃れたが、両脚を粉砕してしまった。
誰がヤシチカをスパイとして送ってきたのか。

1956年現在、捕まったミクワの話。
炭鉱で働いていた彼は、ある有力者に坑内に入るよう命じられた。
その直後、坑内で火災が起きて犠牲者が多数出、彼は放火の疑いで追われる。
ミクワは身の明しのため、自分を依頼したその有力者を捜す。
そして、ついにその男を列車の中に追い詰めて突き落とそうとしたのだった。

このように作品の中に、三つの事件がなぞとして描かれている。
1943年の第二次大戦期ドイツ占領下での、外科医クニシンの回想と、
1946年の大戦直後の、公安高官カルボフスキの回想。
そして、1956年現在の炭坑労働者の青年ミクワの話。

互いに関係のなさそうな事件の背後に、影となる人物が浮かび上がりひとつに繋がっていく。
その時々の時代を背景としたサスペンス調の手法に一時も目が離せず飽きない。
さすが、その後のポーランドでもっとも重要な監督の一人となるだけあると感心した。
次は、このカヴァレロヴィチの『夜行列車』(1959年)を観る。

『英雄の証明』を観て

2022年04月09日 | 2020年代映画(外国)
上映中の『英雄の証明』(アスガー・ファルハディ監督、2021年)を観てきた。

イランの古都シラーズ。
ラヒムは借金の罪で投獄され、服役している。そんなある時、婚約者が偶然17枚の金貨を拾う。
借金を返済すればその日にでも出所できるラヒムにとって、それはまさに神からの贈り物のように思えた。
しかし、罪悪感にさいなまれたラヒムは、金貨を落とし主に返すことを決意する。
そのささやかな善行がメディアに報じられると大きな反響を呼び、ラヒムは「正直者の囚人」という美談とともに祭り上げられていく。
ところが、SNSを介して広まったある噂をきっかけに、状況は一変。
罪のない吃音症の幼い息子をも巻き込んだ、大きな事件へと発展していく・・・
(映画.comより)

冒頭、刑務所から2日間の休暇を貰ったラヒムは、遺跡修復作業に従事している義兄ホセインを訪ねる。
姉マリとホセインの夫婦の家に、ラヒムの前妻との子シアヴァシュも住んでいて、ラヒムはここに落ち着く。

看板書きのラヒムの服役理由は、一緒に事業を起こそうとした相方に資金を持ち逃げされ、保証人の元妻の兄バーラムから返済を求められているが約束を果たせないでいるためである。
婚約者ファルコンデと会ったラヒムは、彼女が金貨が入ったバックを拾ったことを知り、これで借金を返せば刑務所から出所できると考える。
しかし、貴金属店で見積もってもらうと借金の返済額には足らない。
そのこともあって、ラヒムは良心の呵責も芽生え、落とし主にバックを返そうと考える。

と、このように話は展開していき、ラヒムの善行はテレビ局にも取り上げられる。
特別休暇を貰ったラヒムは、チャリティー協会のイベントにも駆り出され時の人となる。
しかし、現在のSNSの世界は、そのような善行にも容赦しない。
彼は騙している、そのような情報が出て、実際に自分が拾った訳でもないラヒムにも弱点が現われる。
善行の栄光から突き落とされたラヒムは、これは借金元のバーラムの仕業だと思い込む。
そして、名誉を賭けたラヒムの状況は最悪の事態へと突き進んでいく。

この作品は、傍目には何気ないように見えても、そこには緻密な物語の展開が絡んでいて、そのスリリングさは飽きが来ないばかりか目が離せない。
そして、その内容に横たわっているのは、現代における個人に対するややもするとソーシャルメディアの得体の知れなさ、不気味さであり、普遍的に身近にある事柄である。

現在における超一級監督ファルハディの最新作品、その提示する内容は分かりやすいうえに凄い、傑作だと言わずにおれない。
と、このように言っても『彼女が消えた浜辺』(2009)、『誰もがそれを知っている』(2018)のDVDは棚に眠ったままなので是非、近々観てみたいと思っている。

『夜』を観て

2022年04月07日 | 1960年代映画(外国)
『夜』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1961年)を観た。

ある日の午後、作家のジョヴァンニと妻リディアは、病床の友人トマーゾを見舞った。
トマーゾの病気は回復の見込みがない。
トマーゾはジョヴァンニの親友であるが、リディアにとっても親しい間柄だった。
以前トマーゾはリディアを愛したが、彼女はすでにジョヴァンニを愛し結婚していた。

彼女は作家夫人として何不自由のない毎日を送っていたが、その生活に得体の知れぬ不安が徐々に広がっていった。
結婚前二人を結びつけたはずの愛を見失ったと感じたとき、彼女の心にポッカリと一つの空洞があいた・・・
(映画.comより)

末期症状のトマーゾを見舞った二人は、ジョヴァンニのサイン会場に行く。
同行したリディアは夫と分かれ、ひとりミラノの街を歩き、これと言った目的もないのにタクシーで郊外のうら寂れた家並みを歩く。

その夜、リディアの希望で二人はナイトクラブに行き、その後、富豪ゲラルディニのパーティーへ行く。
会場でジョヴァンニは、ゲラルディニの娘ヴァレンティーナに魅了される。
一方リディアは、トマーゾの病院へ電話し彼の死を知る。
自分を理解をしてくれていたトマーゾを失ったリディアは、ジョヴァンニとヴァレンティーナが抱き合ってキスを交わす姿を垣間見ても嫉妬も感じなかった。
そして自分も、パーティで知り合った男と土砂降りの中、ドライブに出かける。

夜が明け、互いに別々の相手と夜を過ごした二人だったが、屋敷の広大な庭の一角でリディアは、トマーゾが死んだこと、もうジョヴァンニを愛していないことを告げる。
それを聞いたジョヴァンニは、かつて二人の間にあった愛を取り戻そうとするかのようにリディアを抱きしめる。

結末は、二人に一縷の望みがありそうにみえるが、夫婦の絆が失われている以上、やはり二人の間に断絶が横たわっていると思わずにはいられない。
主演は、マルチェロ・マストロヤンニとジャンヌ・モローの夫婦役。それに富豪の娘としてモニカ・ヴィッティが絡む。
セリフが少なく、映像で見せるこの作品は、アントニオーニの「愛の不毛・三部作」の中で、核心を一番明確について分かりやすいのではないか、そんな風に思わずにいられなかった。

『CODA』を観て

2022年04月05日 | 2020年代映画(外国)
『コーダ あいのうた』(シアン・ヘダー監督、2021年)がアカデミー賞の作品賞を受賞したためか、手頃な時間帯の上映になったので観てきた。

幼い頃から家族の耳となったルビーは家業の漁業も毎日欠かさず手伝っていた。
新学期、合唱クラブに入部したルビーの歌の才能に気づいた顧問の先生は、都会の名門音楽大学の受験を強く勧めるが、
ルビーの歌声が聞こえない両親は娘の才能を信じられずにいた。
家業の方が大事だと反対する両親に、ルビーは自分の夢よりも家族の助けを続けることを決意するが・・・
(映画.comより)

マサチューセッツ州の港町に住む女子高生のルビー。
貧しい漁師のロッシ家は、ルビー以外の父フランクと母ジャッキー、それに兄レオが聴覚障害。

ルビーは新学期を迎え、一目で好きになったマイルズが入ろうとするコーラス部へ自分も入部する。
その後、歌の才能がルビーにあると見抜いた教師は、発表会に向けマイルズとデュエットを組ませる。
そして教師は、マイルズも目指すボストンの音楽大学への進学をルビーにも勧める。

片や、仲買の暴利によって利益が出ないために不満を募らせる漁師たちの船に、政府の監視員が同行することになった。
フランクとレオは、監視員が船に同行することになった日、ルビーの都合によって、通訳なしで漁に出る。
漁の最中、沿岸警備隊から船の停止を命じられたが、親子は耳が聞こえないためにわからなかった。
後日、漁を行おうとすれば健聴者を乗船させること、そして反則金を支払うことを命じられたフランクは悩む。

漁業を糧としている一家の生活は、まともに賄われない。
そんな状態の中で、ルビーは家族のために対人的な通訳者として今後もやっていきたいが、歌のために音楽大学へも進みたい。
そのジレンマが随所に深く滲み出る。

私は、障害を持った人との関係や病気の話の作品はどちらかと言うと避ける傾向にある。
それは、障害や病気の人を扱いながら、同情だけを誘おうとする涙頂戴的な商業主義が多分にあるから。
もっともそんな作品ばかりのはずはなく、それは判っていてもやはり遠ざかる。
今作品もまず題名からして観る気がせず、今回、アカデミー賞絡みだから一応は、と期待もせずに観た。

しかし、正直言って無条件で感動してしまった。
作品自体の出来の良さは言うまでもなく、何と言っても、ルビー役のエミリア・ジョーンズの素晴らしいこと。そして、歌が無茶苦茶うまいこと。
そればかりか、すべての出演者が役に溶けいっていて自然体なこと。本当に脱帽した。

これを機に、母親役のマーリー・マトソンがオスカーを取った『愛は静けさの中に』(1986年)や、
この作品元のフランス映画『エール!』(2014年)もいずれ観てみたいと思った。