ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『トラッシュ! -この街が輝く日まで-』を観て

2016年06月26日 | 2010年代映画(外国)
『トラッシュ! -この街が輝く日まで-』(スティーヴン・ダルドリー監督、2014年)を観てみた。

ブラジルのリオデジャネイロ郊外。
アンジェロが、今まさに出かけようとしている時、部屋に警察隊が強行突入してきた。
アンジェロは窓から逃げ出したが、追い詰められたため、ポケットから財布を取り出して道路に放り投げた。
偶然、財布は走っていたゴミ収集車の荷台のゴミの中に落ち、その収集車はゴミ処理場へと向かった。

「ゴミ山」のゴミ漁りを生活の糧としている者たちの一人、少年のラファエルが財布を見つけ、中にはお金があって大喜びする。
財布には他に、小さなカレンダーや少女の写真、アニマル・ロトのカード。そしてコインロッカーの鍵が入っていた。
ラファエルが友人のガルドにお金を半分ほど分けてやっていると、そこへ警察隊のパトカーが慌ただしくやって来た。
警察は、財布を見つけた者に多額の賞金を出すという。
それほど財布は、重要なものらしくて・・・・

「ゴミ山」から財布を見つけ出そうとしている警官のフェデリコは、ラファエルとガルドが怪しいと目を付ける。
ことが重大と感じたラファエルとガルドは、もう一人の友達ラットと共に、その財布が意味することを解明しようとする。
危機に遭いながらも、なぜかラファエルたちはトントン拍子しに謎を解明していく。

現実的にみて、内容があまりにも調子好過ぎではないか、巨大悪に対しても都合が好過ぎて、ラストも甘い。
そもそも、なぜ警官は財布が重要と考えているのかということから疑問が湧いてくる。
と、この作品にリアル感を求めれば、これは駄作だということになるかもしれない。
しかし、そうだろうか。

作品のテンポのよさ。躍動感。その基となる映像のリズム。
それに身を浸すと、内容の都合よさは気にならなくなってしまう。
勿体ぶった理屈をつけ、結果、不消化な内容に付き合わされて、なんともつまらないと感じる娯楽作品と比べた場合、その出来は数十倍上等である。
要は、社会派作品だろうからシビアでなければと思うか、
それとも、社会性を見せながら、これはやはり娯楽作品のひとつだなと納得して楽しむかの違いか。
それぞれの観方によって、ひとつの作品は随分と楽しみ方が違ってくる、と思える作品だった。
ただ、私にとっては納得のいく作品であった。
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『めぐりあう時間たち』を観て

2016年06月21日 | 2000年代映画(外国)
『めぐりあう時間たち』(スティーブン・ダルドリー監督、2002年)をDVDで観た。

1923年、ロンドン郊外のリッチモンド。
過去に自殺未遂の経験がある作家ヴァージニア・ウルフは、神経症療養のために夫レナードと田舎町に住み、『ダロウェイ夫人』を執筆し出した。
そんな彼女のもとに、姉ヴァネッサと子供達がロンドンから訪ねてくる。
しかし、ヴァージニアは小説の構想のために、ヴァネッサ達と過ごしている間も、上の空である。

1951年、ロサンゼルス。
主婦ローラ・ブラウンは2人目を妊娠中で、優しい夫ダンと幼い息子リッチーに囲まれている。
しかし、『ダロウェイ夫人』を愛読する彼女は、夫が望む理想の妻でいることに疲れ、満たされない心をヒロインに重ねていた。
そのローラが夫の誕生祝いの準備をしていると、親友のキティが訪ねて来て、子宮の腫瘍で入院すると告げる。
そして、キティは「子供を産まなければ、一人前の女ではない」と泣きだす。

2001年、ニューヨーク・マンハッタン。
編集者のクラリッサ・ヴォーンは、詩人で小説家の友人リチャードの受賞パーティーのために、花を買いに行く。
彼女は、エイズに侵されているリチャードとの昔の日々の思いを胸に、彼の世話を続けてきた。
リチャードはクラリッサを、ニックネームの『ダロウェイ夫人』と呼んでいて・・・・

時代、場所を超えて3人の女性の一日の様子が描かれる。
3人に共通しているキーワードが『ダロウェイ夫人』であり、映像描写は、重なり合う部分を交互に繋ぎ合せていく。
だから、それぞれが入り乱れて進行するが、作りが丁寧なため、ストーリー展開に混乱することもなく分かり易い。

それにしても、この緻密に計算されたような物語は、原作によるところが大きいのだろうか。
この原作と、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』を読んでいないために、その素晴らしさが半減しているかもしれない。
それを感じるのは、3人の孤独感は実によくわかるが、その基の原因がわからないので、イマイチ、共感がわかない。
もっとも、感情に訴えるというより、どちらかと言えば知的な作風のために、そうかもしれないが。

この作品の緻密さは、次のようなところに表れている。

小説中のダロウェイ夫人のファースト・ネームはクラリッサであり、その夫はリチャード・ダロウェイという名である。
ヴァージニアは当初、主人公であるダロウェイ夫人を自殺をさせるつもりでいた。
しかし、それを変更し最後には、詩人の自殺とする。

その自殺は、リチャードの死となっている。
リチャードが死んで、クラリッサのところへローラが現れる。
ローラはリチャードの母親で、リチャードとはリッチーのことだっととわかる。
このローラは、第二子を産んだ後で、家族を捨てて生きる道を選んでいる。

ヴァージニア、ローラ、クラリッサの3人の物語。
それは、ニコール・キッドマンとジュリアン・ムーアとメリル・ストリープの競演の物語でもある。
3人とも、その役にふさわしく、演技の素晴らしさは甲乙つけがたい。
それを、ニコール・キッドマンにだけ、アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞させるのは不公平ではないかと、イチャモンを付けたくなる。
一人だけで主演をしているわけではないから。
もっとも、ベルリン国際映画祭では3人が銀熊賞(女優賞)を共同受賞しているが。
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『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を観て

2016年06月14日 | 2010年代映画(外国)
「紡希(さき)&グライセンのちょっとブレークしましょ。らららん!」さんが紹介されていた、
『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(スティーブン・ダルドリー監督、2011年)を観た。

宝石店を経営するトーマスは、現実社会が苦手な息子オスカーに、ニューヨークにかつて存在した第6区を探す「調査探検」の遊びに誘う。
それは、オスカーが見知らぬ人と話をするための父の親心でもあった。
そんなある日、オスカーは父トーマスを9.11の同時多発テロで失い、調査探検は中断する。
トーマスの死から1年後。
父のクローゼットを物色していたオスカーは、うっかり青い花瓶を落としてしまう。
その割れた花瓶の中にあった小さな封筒。封筒には「ブラック」の文字と、ひとつの鍵。
「ブラック」を人名と判断したオスカーは、鍵の秘密と父との繋がりを知るために、その鍵穴を見つけようと決心する。
電話帳を調べたオスカーは、ニューヨークの472人のブラック氏に一人ずつ会いに行くことに・・・・

鍵の由来を知るために、いろいろな人を訪ね歩くオスカー。
拒否する人も中にはいるが、オスカーを招き入れ、たとえ自分とその鍵が関係なくても励ましてくれたりする人が一杯いる。
そんなオスカーに、向かいのビルのアパートに住んでいる祖母の、間借り人の老人も、途中から一緒になって協力してくれる。
まだまだ沢山の人と会わなければいけないある日、意外なことから、この鍵と関連がある当人を突き止める。

オスカー役のトーマス・ホーンの演技が高く評価されているようだが、私はなぜかこのオスカーに共感できず違和感を感じた。
オスカーが小生意気な感じで、子供らしい感性が感じられないためか。
だが、オスカーが鍵の意味合いを知る後半以降、それまでの違和感が溶け去り、知らず知らずのうちに、その心情に寄り添う気持ちになる。

あの事件の時間帯に、掛かってきた父からの6回の留守電。
被災した巨大ビルに閉じ込められていた父から、オスカーへ無事でいることのメッセージ。

ブラック氏に、オスカーは告白する。
6回目の留守電についての、オスカーの秘密。
それに対する誰にも言えなかった、自責の念。
それを静かに受け止めてくれるブラック氏。

オスカーの陰で、夫を亡くしてから笑顔を無くしている母リンダの行い。
それらのことが絡み合って、絶望の淵から立ち上がっていくオスカー。

映画は感動を与えながら終わる。
その余韻は、ピアノを主旋律とした音楽とマッチしていつまでも残る。

しかし、観終わって「感動をありがとう」と出来合いの言葉で満足していていいのかと、フッと思う。

突然、最愛の人を事件で失う。同時多発テロ。
その根本的な原因は何かと、思いを巡らす。
国が、自分と異質のものを排除しようと仮想敵国を作り、地道な対話による努力を二の次とする。
その相手は見えない凶暴な敵となり、国が守るべきはずの国民、一般市民を狙う。
それをきっかけとして、負の連鎖が始まる。

日本でも、日米同盟を強化し国民を守ると強気な現政権の発言が、国民の安全を、反って不安に貶める可能性はないのか。
そのようなことを、この映画を観て思う。
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『ジミー、野を駆ける伝説』を観て

2016年06月09日 | 2010年代映画(外国)
前回に続けてケン・ローチ監督の作品を観る。題名は『ジミー、野を駆ける伝説』(2014年)。

1932年、国を分断した悲劇的な内戦終結から10年を経たのアイルランド。
アメリカで暮らしていた元活動家のジミー・グラルトンが、10年ぶりに祖国の地を踏み、リートリム州の故郷に帰って来る。
かつて地域のリーダーとして絶大な信頼を集めたジミーは、気心の知れた仲間たちに歓待され、昔の恋人ウーナとも再会。
彼の望みは、年老いた母親アリスの面倒を見ながら穏やかに生活することだった。

しかし、村の若者たちの訴えに衝き動かされ、内にくすぶる情熱を再燃させたジミーは、ホールの再開を決意。
仲間たちも協力を申し出る。かつてジミー自身が建設したそのホールは、
人々が芸術やスポーツを学びながら人生を語らい、歌とダンスに熱中したかけがえのない場所だった。
やがてジミーの決断が、図らずもそれを快く思わない勢力との諍いを招いてしまう……。
(Movie Walkerより)

ジミーと共に、ホールの再開させようとする若者たちのその熱意は、ホール自体が目的ではない。
その集会所でアメリカ仕込みのダンス等をすることは、旧世代の物の考え方からの自由の獲得である。
そのようにして、搾取する側から労働者階級が団結しコミュニティ形成していけないか。
そのことをケン・ローチは訴え、作品を堅苦しくしないために、ホールを象徴として利用する。

ホール利用が活発になると、絶大なる権力を持つ者は、彼らの支配を揺るがす可能性があるものとして、それを恐れる。
神父シェリダンは、心無い妨害を仕出し、教会以外での教育等は認めないと言い出す。
その迫害の目的は、権力側による労働者間の断絶と団結阻害にある。
それに対して、ジミーはみんなの意見を聞いたうえで、会場とは決して言えないような場所だが、演説をし仲間を鼓舞する。

この映画は、古い時代のアイルランドを舞台にしている。
しかし、ジミーが演説するその内容、糾弾する問題はいまだに世界中で解決されず、考え方は現代への警鐘である。
ジミーは演説の最後で言う。
“欲を捨て誠実に働こう。ただ生存するためでなく喜びのために生きよう。踊って歌うために。自由な人間として!”

国外に強制追放させられるジミーに、みんなが声援するラストは、未来には一筋の希望があり、それに向かって頑張っていこうという明るさに満ちている。

ケン・ローチは常に、労働者側に立った映画を作る。
その考え方が端的に表れていると思われる言葉を紹介しておこうと思う。

<以下は、サッチャー元首相が逝去し、その葬儀に800万ポンドかかると言われて答えた時の言葉>

マーガレット・サッチャーは、現代において、もっとも分断と破壊を引き起こした首相でした。
大規模な失業、工場群の閉鎖、地域社会の破壊。それが彼女の残した遺産だったのです。
なるほど彼女は闘士でした。
が、その矛先はイギリスの労働者階級に向けられていたのです。

彼女は、政治的に腐敗した労働党の指導者たちや、組合のあまたのダラ幹たちの協力で、勝利を得ました。
私たちが置かれている現在の悲惨な状態は、彼女の政策が起源なのです。
のちの首相たち、とりわけトニー・ブレアは、彼女とおなじ道のりをたどりました。
彼女こそが猿芝居のオルガン弾きであり、彼はその猿だったのです。
彼女が、マンデラをテロリストと呼び、虐待者であり殺人鬼であるピノチェトを、お茶に招いていたことを忘れることはできません。

私たちはどのように彼女を讃えるべきなのか?
彼女の葬儀を民営化しましょう。競争入札にかけて、最安値を提示した業者に落札させるのです。
(それこそが彼女のやってきたことであり、)きっと彼女も本望でしょう。 
(おや爺のブログ訳を流用)
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『安倍官邸の正体』を読んで

2016年06月08日 | 本(小説ほか)
『安倍官邸の正体』(田崎史郎著、講談社現代新書・2014年)を読んでみた。

「おわりに」に、
“政治記者の最大の仕事は国家権力の構造を解明することだと思っている。
国や党の方針を誰がどこで決めたか、理由は何かを取材し、読者、視聴者に届けるのが自分の務め----。”

“この本を読んで、安倍首相に寄りすぎている、批判が足りないと思われる方が多いかもしれない。
しかし、それでも権力構造を解明し、伝えることがわれわれの最大の使命であるという私の確信は揺るがない。
目の前で起こったことの真相を分かりやすく伝えていく----。
それがもっとも大事で、批判するにも肯定するにも、まず真相を知ろうというのが本書の意図である。
真実を知らないで、気軽に批判する気持ちにはなれない。”
とあるので、ひとまず読んでみようと思った。

首相官邸の4、5階は記者が立ち入り禁止になっている。
その5階にある首相執務室で、「隠し回廊」を使って官房長官、副長官、主席秘書官が集まり、「正副官房長官会議」が毎日開かれる。
わずかな時間を使って、時には雑談で終わっても、安倍首相はこのメンバーと意思疎通を図り、「最高意思決定機関」として機能させているという。
これが安倍政権の最大の特色だということを知る。

興味深かったのは、「東京五輪招致の内幕」。
私自身は、オリンピックがどこの国で行われようが、元々、開催場所に対してそんなに興味がない。
だから、安倍・二次政権発足から1カ月に満たない時期に、五輪招致が政権を挙げて取り組む重要課題に位置付けられた、とは全然知らなかった。
そのことについて、結構詳しく書いてある。

だが全般的な印象は、著者自身も言っているように、安倍首相に寄りすぎている内容である。

著者は、時事通信社の政治部として35年取材してきた人物である。
そして、一般の記者が本来入ることができない首相執務室で、安倍首相にインタビューをしているほどの信頼を得ている。
このような関係の人物に、もっと突っ込んだ客観的な物の見方を要求する方が無理かもしれない。
では著者がいう、権力構造を解明してくれたかと頭をひねると、どうもそうとも思えない。
なんか、安倍政権のPR文を読まされたみたいで、現政権に批判的な私にとって物足りない内容だった。
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『天使の分け前』を観て

2016年06月05日 | 2010年代映画(外国)
『ケス』(1969年)の監督、ケン・ローチが今年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したという。
『麦の穂をゆらす風』(2006年)と合わせて二度の快挙である。
このケン・ローチの作品、意識して観るようにしているが、まだまだ見落としがかなりある。
ということで、『天使の分け前』(2012年)を観た。

場所は、スコットランドのグラスゴー。
暴力沙汰で起訴されたロビーは、300時間の社会奉仕活動を言い渡される。
恋人レオニーとの間にできる子供のために更生するよう、裁判所は穏便な判決で済ましてくれた。
ロビーは、無人駅で酔っぱらったアルバートや、ライノ、手癖の悪い女性モー等と、ペンキ塗りの作業をすることになった。
指導員ハリーは人がよく、なにかとロビーの面倒をみてくれる。
そして、ロビーの赤ちゃんの誕生を祝い、年代もののウイスキーをふるまってくれた。
ある日、ウイスキー好きのハリーは、課外活動と称して、ロビーたちを蒸留所に案内する。
ウイスキーについて興味を持ったロビーは、その後、「世界のベストウイスキー」を読んだりして・・・・

ロビーは、親の代から仲のよくない相手といつも争いが絶えず、売られた喧嘩で暴力沙汰を起こす。
だから、喧嘩早いロビーは最近も、少年刑務所から出たばかりである。
そんなロビー、環境も絡んでか、以前から仕事がない。
このような社会の底辺に近い若者たちをベースに、ケン・ローチは話を暗くせず、何気ないユーモアを持って描く。

更生しようともがくロビーに、社会がはばむ。
だが、ウイスキーを知ることにより、自らにテイスティングの才能があることに気付くロビー。
そして、それを契機に、彼は大きな仕事を思いつく。
一般的に言えば、こういう場合、大体まともな仕事の話に繋がっていくのに、ケン・ローチはそうさせない。
貧しい者たちが大金持ちにしっぺ返しをすることを、ケン・ローチは冷静に客観的なタッチで描く。
決して良い方法ではないが社会をうまく手玉にとったロビー。
彼の希望に満ちる未来が、ほのぼのとしたイメージとなり、そのすがすがしさに拍手を送りたくなる。
とっても楽しくなるような、満足する作品。

こうなると、次回もケン・ローチ。『ジミー、野を駆ける伝説』(2014年)を観ることにする。

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『草原の実験』を観て

2016年06月02日 | 2010年代映画(外国)
気になっていた『草原の実験』(アレクサンドル・コット監督、2014年)が、レンタルDVDになっていたので借りてきた。

その少女は、大草原にポツンと建つ小さな家で父親と暮らしていた。
家の前には家族を見守る一本の樹。
毎朝、どこかへと働きにでかける父親を見送ってはその帰りを待つ少女。
壁に世界地図が貼られた部屋でスクラップブックを眺め、遠い世界へ思いを馳せながらも、繰り返される穏やかな生活にささやかな幸せを感じていた。
幼なじみの少年が少女に想いを寄せている。
どこからかやってきた青い瞳の少年もまた、美しい彼女に恋をする。3人のほのかな三角関係。
そんな静かな日々に突如、暗い影がさしてくる・・・・
(公式サイトより)

旧式のトラックの荷台で、羊にもたれて男が寝ている。
それを高い高い所から俯瞰した映像で、映画は始まる。
辺りは見渡す限りの大草原。といっても草は疎ら。
そんな中に家が一軒だけある。男が帰ってくると、ひとり少女がいる。
それがどこなのか、親子の名は何なのか、それは特定されていない。
そして日常生活が、不思議な魅力を伴って、静かに描かれる。
だから、あらすじはあまり意味をなさない。

観ていると、あれ?まだ会話が出て来ない。と思っていたら、この映画には最後までセリフがない。
言葉がない分、映像で物語を創る。その映像の光と影のコントラスト。
緻密に計算された画面作りのはずなのに、観る側にそれを意識させず、飽きがこない自然な風景として納得させる。
少女の表情にしても、無表情に近い顔立ちの中に現れる感情が手に取るようにわかる。
それを導き出す監督の力量がすばらしい。



内容も、
父親はどこへ仕事にいくのか。
少年はどこに住んでいるのか。
もう一人の青い瞳の少年はどこから来たのか。
という説明は一切ない。
しかし、観終われば、しっかりと想像できるようになっている。
この一見、のんびりそうな生活に、ラストで待ち構えていることは・・・・

ロシアのコット監督は、旧ソ連のカザフスタンで起きた実際の出来事に着想を得て作り上げた、という。
作品は寡黙であっても、監督が世界に向かって言わんとするアピールは、この内容から透けて滲み出てくる。

私にとって、探し求めていた映画がここにある、と言えるほどの作品に出会った思いであり、大傑作だと意識が働く。
アクション。娯楽。ストーリー。会話体、等。その対極にあるこの作品に、ものすごく愛着が湧く。
だから映画はやめられない。
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