ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

グザヴィエ・ドラン・2~『胸騒ぎの恋人』

2024年07月20日 | 2010年代映画(外国)

『胸騒ぎの恋人』(グザヴィエ・ドラン監督、2010年)を観た。

ゲイのフランシスとストレートのマリーは姉と弟のような親友同士。
ある日、2人は友人らとのパーティで1人の明るく社交的な美青年ニコラと出会う。
フランシスもマリーも口では好みでないと言いながらも、ニコラに一目惚れする。
そんな2人とニコラは友人として親しくなり、3人で遊ぶことも増える。

フランシスもマリーもそれぞれセックスの相手には不自由していなかったが、
無邪気なニコラと親しくなるに従って、ニコラへの想いを募らせて行く。
マリーがニコラに対して積極的なのに対し、フランシスはマリーを気遣ってニコラに対しては遠慮がちであったが、
3人で小旅行に行った先で、ニコラと楽しげに戯れるフランシスに嫉妬したマリーは、フランシスと取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。
その様子を目撃したニコラは、この出来事以降、2人と距離を置くようになる。
そんなニコラへの想いを抑え切れなくなったフランシスとマリーはそれぞれニコラに告白するが、ニコラはきっぱりと拒絶する・・・
(Wikipediaより)

ニコラに想いを寄せるフランシスとマリー、その三角関係の進み具合は、内容的にさして深みがある感じがしない。
でも、飽きなく見せる手腕は評価できるんじゃないかと思う。
映像が時にアートぽかったり、進行テンポも手際よかったりするためだろうか。

映像自体は目新しそうで、いつかどこかで観たような記憶が蘇る。
1960年代のジャン=リュック・ゴダール辺りだろうか。それも昔のことで定かではないが。
そうだ三角関係と言えば、『突然炎のごとく』(フランソワ・トリュフォー監督、1962年)があった。
青年ジュールとジムがジャンヌ・モロー扮するカトリーヌに同時に恋する話だった。
その作品を観たのは10代の時だったので、記憶もあやふやになっている。
ジャンヌ・モローが歌う「つむじ風」ももう一度聴いてみたいので、是非、再度観てみたい気がする。

そんなことを思わせるグザヴィエ・ドランの第2作目作品だった。

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グザヴィエ・ドラン・1~『マイ・マザー』

2024年07月17日 | 2000年代映画(外国)

『マイ・マザー』(グザヴィエ・ドラン監督、2009年)を観た。

17歳の少年ユベール・ミネリはカナダ・ケベック州の何の変哲もない町でごく普通に暮らしていたが、
ここのところ自分の母親が疎ましく思えてどうしようもなかった。
洋服やインテリアを選ぶセンスのなさ、口元には食べカスをつけ、口を開けば小言ばかりと、母親の一挙手一投足が癪に触っていた。
母親を受け入れ難く思う一方、理由もなく苛立ってしまう自分にも嫌気がさしていた・・・
(MOVIE WALKER PRESSより)

観たことがないグザヴィエ・ドランの監督作品を今後観て行こうと思う。
まずは、19歳の時の初監督作品で脚本、主演も兼ねた半自伝的な内容という本作。

青年期特有の現象と言っていいのか、二人暮らしをしているユベールの過剰な母親への反撥。
その鬱屈した母親に対する態度の中には、幼かった頃に注がれていた愛情たっぷりの生活の裏返しが潜んでいたりする。
ユベールは独立して一人生活をしたいのに、まだ子供としてしか認めて貰えず、挙げ句の果ては寄宿学校へ行かされてしまう。
そんなユベールは同性愛者であったりするので、それを他から教えて貰った母親は動転するより仕方がなかった。

親との不和、愛情と嫌悪、それに対するユベールの苦悩が目いっぱいに描かれていて、筋としてはほぼそのことで終わっている。
だから内容の起伏は貧しいとしても、19歳の青年がこれぼどまでに出演者の人間性を生かし切っている現実に感心させられる。
それ程才能がほとばしっている、と言っていいのではないかと納得した。 

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『ホールドオーバーズ』を観て

2024年07月05日 | 2020年代映画(外国)

『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』(アレクサンダー・ペイン監督、2023年)を観てきた。

1970年12月の、ボストン近郊にある寄宿制の名門バートン校。
誰もが家族の待つ家に帰るクリスマス休暇が近づく。
しかし、学校に残る者たちもいた。

生真面目で融通が利かず、皆に嫌われている古代史の教師ハナム。
彼は冬休み返上で、帰れない生徒の面倒をみることに。
学校に残る生徒の一人は反抗的なアンガス。
ベトナム戦争で息子を失ったばかりの料理長メアリーも一緒にクリスマスを過ごすこととなる。
孤独な彼らにはそれぞれ心を開かぬ理由があった・・・
(パンフレットより)

最初は学校に居残っていた他の4人の生徒もいなくなり、ただ一人だけ楽しみを奪われてしまったアンガス。
心を開かず反抗的な態度をとるアンガスと、偏屈で堅物のハナム。
それに、料理の世話をするメアリーを加えた2週間のクリスマス休暇。
いやが上でも疑似家族のように過ごすはめになる3人。

そんな3人にも、個々にそれぞれの心の奥にしまい込んでいる事情がある。
そんな事情はおいそれと簡単には他人に開かせられない。
それでもクリスマスの夜のころには、少しずつ結びつきが生まれて来ている。
そしてアンガスには特別の意味合いがあるボストンへ3人で行き、そこでの行動がお互いの絆をより一層深める。

ハナムの心の内を知ることによって彼の人生を垣間見、この2週間の間にアンガスの成長に多大な影響を与えただろうと、誰もが想像する。
そして、ハナムは何も偏屈だけではない彼の行動を見て、より一層感動する。

この映画は心温まるという通り一遍の言葉を遙かに超えた真に優れた作品だと言い切れる力を持っていると、私は確信している。

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『モヒカン族の最後』を観て

2024年07月02日 | サイレント映画(外国)

『モヒカン族の最後』 (モーリス・トゥールヌール/クラレンス・ブラウン監督、1920年)を観た。   

英仏双方で大規模な植民地戦争が続いていた1757年のアメリカ。
フランス軍に荷担するヒューロン族のために滅亡寸前に追い込まれたモヒカン族の酋長サーペントは部族存続のためイギリス軍と手を組む。
折からのフランス軍の侵攻を告げるためサーペントは息子アンカスをエドワード砦に走らせる・・・
(allcinemaより)

エドワード砦ではマンロー連隊長の娘コーラや妹アリスたちがダンスなどをして何不自由なく暮らしている。
そこへアンカスが危険を知らせにやって来る。
アンカスを見て、コーラは若き酋長に恋心を抱く。

ウイリアム砦ではマンロー連隊長率いるイギリス軍がフランス軍の攻撃に対して激しい防戦を繰り広げていた。
マンローは、エドワード砦にいるウェッグ将軍に3000人以上の兵員補充を願い出るため、インディアンのマグアを伝令として送る。

参謀たちの会議で兵員補充が決定し、ウイリアム砦に向かって連隊の大移動が始まる。
コーラとアリスも父親と再会するいいチャンスだと一行と共に出発し、途中、森を抜ける近道を知っているマグアに従い別行動をとる。
実はこのマグア、イギリス軍側のインディアンではなく、ある時勝手に雲隠れしてしまう。
コーラらが道に迷っていると、アンカスら3人と出会って誘導してもらうが、そこにマグア一味のインディアンが襲ってくる。

と言うような、一難去ってまた一難のアクション。
特に、ウイリアム砦からのイギリス軍の家族共々の撤退、それを襲うフランス軍側ヒューロン族による大虐殺。
ラスト近くのクライマックス、大絶壁の上でのアンカスとマグアの格闘等。
これが本当に100年前の作品なのか、と唸らずにはおられなかった。 

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『関心領域』を観て

2024年06月21日 | 2020年代映画(外国)

『関心領域』(ジョナサン・グレイザー監督、2023年)を観てきてから1週間が経ってしまった。

第2次世界大戦下のポーランド・オシフィエンチム郊外。
アウシュヴィッツ強制収容所を囲む40平方キロメートルは、ナチス親衛隊から関心領域と呼ばれた。
収容所と壁を1枚隔てた屋敷に住む所長とその家族の暮らしは、美しい庭と食に恵まれた平和そのもので・・・
(映画ナタリーより)

きれいな屋敷と庭園。
アウシュビッツ強制収容所所長・ルドルフ・ヘスと妻、そして乳飲み子を含めた5人の子供にとっての居心地のよい生活環境。
時には、家の近くのソラ川の川沿いで、家族揃って乗馬やピクニックをする。
穏やかな日々。
ただ、家のすぐ横の塀の向こうにあるのは強制収容所という事実。
そこから何か聞こえてくるのは、微かな怒鳴り声や叫び声らしきもの。
そして青く澄み切った空の向こうからの黒っぽい煙。
そんな状況の中でも、家族にとって塀の向こう側のことは関心がなく、ただただ幸せ一杯の日常である。

作品は、アウシュビッツ強制収容所の実態は描写せず、ルドルフ・ヘスの家庭の幸福な一面を見せることによって、その悲惨な状況格差を表現しようとする。
ただ、そのような暗示的表現が観客にとって心にストンと落ち込んできて情動化されるのかというと、少し疑問も残る。
それは多分、塀の向こうの暗喩を表現するために、こちら側の家庭の幸福を強調しようとする監督の奇をてらう方法が見えてしまうためではないか。

この作品によって、また一つアウシュヴィッツ強制収容所関係ものを観たという思いと共に、少しシックリ来なかった後味も残った。

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『人間の境界』を観て

2024年06月08日 | 2020年代映画(外国)

『人間の境界』(アグニエシュカ・ホランド監督、2023年)を観た。

「ベラルーシを経由してポーランド国境を渡れば、安全にヨーロッパに入ることができる」という情報を信じ、
幼い子どもを連れて祖国シリアを脱出した家族。
やっとのことで国境の森にたどり着いたものの、武装した国境警備隊から非人道的な扱いを受けた末にベラルーシへ送り返され、
さらにそこから再びポーランドへ強制移送されることに。
一家は暴力と迫害に満ちた過酷な状況のなか、地獄のような日々を強いられる・・・
(映画.comより)

中東やアフリカからの移民・難民たちがベラルーシ・ミンスク空港に降り立つ。
その中の、幼い子供2人と乳飲み子、年老いた父親もいるシリア人夫婦の一家。
そして、飛行機の中で知り合ったアフガニスタンの女性。

時は2021年10月。
シリア人一家を含めた難民たちがベラルーシ西側にある森林の鉄条網からポーランド側に入る。
しかし、ポーランドに来た喜びの難民たちの前に立ち現れる国境警備隊。

強制的に再度、ベラルーシ側に送り返される難民たち。
その扱いは非人道的で物扱いである。
そしてベラルーシ側も見つけた者を片っ端らにポーランド側に送り込む。
凍てつく国境付近の森の中を右往左往する難民たち。
食べ物もなく水さえ手に入らない。
国境警備隊員にお金を差し出し、やっと手にできると思ったペットボトルの水は、その警備隊員が目の前で地面に流す。

この作品は4つの章に分かれていて、まず「難民」側、そして「国境警備隊」側、次に「難民支援者」、
続いて「難民と遭遇した女性精神科医が支援者」として自覚していく様子。
そしてラストに「エピローグ」が付く。

このように多角的視点からの物語を、メリハリの効いたモノクローム映像で表出されるため、正しくドキュメンタリーそのものと錯覚するほどの緊迫感を醸し出す。
そして驚くのは、このような完璧な作品を僅か1ヶ月以内の撮影で行なったということ。
私がこの作品に衝撃を受けるのは、難民の苦悩は当然のこととして、国境警備隊員の自分の任務に対する疑問、苦悶。
人道支援者が難民を救助しようとしても、その立ち入り禁止区域内に入れば自分が逮捕されるため十分に活動ができないということ。

ポーランド政府は、このような国境近くに立ち入り禁止エリアを設けることによって、難民を宙ぶらりんの状態に置く。
それをこの作品はえぐり出し、問題提起する。
そして痛烈な政権批判として、「エピローグ、2022年2月26日」で、政府が人道支援として隣国ウクライナから2週間で200万人もの難民を受け入れ、
国境警備隊員たちはウクライナ難民に対して良き人たちだった事実を描く。

ではなぜ、ベラルーシが大量の難民を受け入れると見せかけポーランドに送り込んだのかの現実問題は、勿論背景があるがここでは省略したい。

『太陽と月に背いて』(1995年)、『ソハの地下水道』(2011年)の題名は聞いて知っていても、これらがこのアグニエシュカ・ホランド監督作品とは知らなかった。
覚えておこうと思う。

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『戦雲(いくさふむ)』を観て

2024年05月13日 | 日本映画

『戦雲(いくさふむ)』(三上智恵監督、2024年)を観てきた。

与那国島、石垣島、宮古島、沖縄本島 ──
この美しい島々で、日米両政府の主導のもと急速な軍事要塞化が進行している。
自衛隊ミサイル部隊の配備、弾薬庫の大増設、基地の地下化、そして全島民避難計画・・・

2022年には、「台湾有事」を想定した大規模な日米共同軍事演習「キーン・ソード23」と安保三文書の内容から、
九州から南西諸島を主戦場とし、現地の人々の犠牲を事実上覚悟した防衛計画が露わになった。
しかし、その真の恐ろしさを読み解き、報じるメディアはほとんどない。
全国の空港・港湾の軍事拠点化・兵站基地化が進められていることをどれほどの日本人が知っているか。
本当の「国防」とは何か。
圧殺されるのは沖縄の声だけではない。
(「戦雲」チラシより)

この作品は、三上智恵監督が2015年から8年かけて沖縄・南西諸島を取材したドキュメンタリーである。

与那国島では、町に何も知らされないままミサイル基地建設が決まり、戦車やPAC3積載車が公道を走る。
石垣島では、若者主導の住民投票運動は市政に潰され、ミサイル基地が島の真ん中にできた。
宮古島では、集落の程近くにミサイル基地、射撃訓練場を備えた弾薬庫も完成した。
沖縄本島では、島々に配備されたミサイル基地統括本部がまもなく完成、民間の港が次々と軍事訓練に使われている。
(これも、チラシより)

日本の最西端に位置する島々、先島諸島。
そこでは、粛々と確実に基地整備がされて来ている。
当初、島に自衛隊が来ることによる経済効果も期待した人もいたが、結果、効果なんてなかった。
素朴な風景の美しい島の穏やかな生活が変化してくる。
反対運動を持続させる島の人々。
矢面に立たせられるのは自衛隊員であり、悲しいかな、彼らは何の権限も持っていない。

「台湾有事」の場合時の南西諸島を主戦場とする防衛計画。
いざと言う時、狙われるのは基地のある島々である。
島民を守るためと言いながら、戦争気配になった場合のために全島民の島外退出計画をしている。
現実的には、国は島民および、ひいては国民を守る気はサラサラないとしか思えない。
威嚇のために着々と進めている戦争設備。
今の世界を見てもわかるように、そのようなことをして仮想敵を刺激して何をしようと考えているのか。

悲しいかな、このような作品を観なければ情報に接することができない日本とは何か、と考えさせられる。

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『オッペンハイマー』を観て

2024年04月08日 | 2020年代映画(外国)

『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督、2023年)を観てきた。

1926年、ハーバード大学を最優秀の成績で卒業したオッペンハイマーは、イギリスのケンブリッジ大学に留学するが、
そこでの環境や実験物理学に嫌気が差して、ドイツのゲッティンゲン大学に留学する。
留学先で出会ったニールス・ボーアやヴェルナー・ハイゼンベルクの影響から理論物理学の道を歩み始める。

1929年に博士号を取得した彼はアメリカに戻り、若く優秀な科学者としてカリフォルニア大学バークレー校で教鞭を取っていた。
オッペンハイマーは自身の研究や活動を通して核分裂を応用した原子爆弾実現の可能性を感じており、
1938年にはナチス・ドイツで核分裂が発見されるなど原爆開発は時間の問題と考えていた。

第二次世界大戦が中盤に差し掛かった1942年10月、オッペンハイマーはアメリカ軍のレズリー・グローヴス准将から呼び出しを受ける。
ナチス・ドイツの勢いに焦りを感じたグローヴスは原爆を開発・製造するための極秘プロジェクト「マンハッタン計画」を立ち上げ、
優秀な科学者と聞きつけたオッペンハイマーを原爆開発チームのリーダーに抜擢した・・・
(Wikipediaより一部抜粋)

この作品、観てから1週間も経ってしまった。
その間、感想を書こうと思いあぐねているうちにズルズルになってしまった。
要は、作品主題に対して軽々しく扱えないなとの思いも関係している。
だから今回は内容に触れず簡単に記しておしまい。

オッペンハイマーとは、歴史上どのような人物だったのか。
クリストファー・ノーランがこの人物に込める考えが力強くヒシヒシと伝わってくる。
その点、凄い作品と言っていいかなと思う。
ただ悲しいかな、会話劇を私は字幕で読まなければいけない。
画面は見ているが、半分は字幕を見て内容を理解する。
本を読む場合、気になったところは立ち止まって反芻できるが、映画はどんどん進行してしまって待ってくれない。
それが3時間続くので緊張感の連続であった。
だから正直言って、この作品を十分に納得いくように理解できたのか心許ない、との思いが残った。

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『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』を観て

2024年03月26日 | 日本映画

『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』(井上淳一監督、2023年)を観てきた。

1980年代。
時代も人も変わった。シラケ世代と言われ、熱くなることがカッコ悪いと思われていた時代。
ビデオが普及し始め、映画館から人々の足が遠のき始めた時代。
それに逆行するように、若松孝二は名古屋にミニシアターを作る。
その名はシネマスコーレ。ラテン語で「映画の学校」。

支配人に抜擢されたのは、結婚を機に東京の文芸坐を辞め、「これからはビデオの時代」と地元名古屋でビデオカメラのセールスマンをやっていた木全純治だった。
木全は若松に振り回されながらも、持ち前の明るさで経済的危機を乗り越えていく。

そこに吸い寄せられる若者たち。まだ女性監督のほとんどいなかった時代。
金本法子は「自分には撮りたいものなんか何もない」と言いながら、映画から離れられない。
田舎の映画青年だった井上淳一もまた映画監督になりたい一心で若松プロの門を叩く。
己れの才能のなさを嫌でも自覚させられる日々。それでも、映画を諦め切れない。
救いは、木全が度々口にする「これから、これから」という言葉。 
今がダメでも次がある。涙だけじゃない。そこには笑いがある。絶望だけじゃない。希望がある・・・
(公式サイトより)

【シネマスコーレ】


開館当時のオーナーは映画監督でもある若松孝二である。
若松は「若い映画製作者が自分の思うような映画を作っても、現実的にメジャー作品を配給する映画館ではそれを上映することが難しい」と考え、
場を提供することを目的として映画館を作りたいと考えていた。
当初は東京の新宿に映画館を開館させる予定だったが、条件の合う土地やビルがなく断念せざるを得なかった。
若松は知人が保有する名古屋駅西側のビルを借り、1983年(昭和58年)2月19日にシネマスコーレを開館した。
支配人として、池袋文芸座にいた「木全純治」が就任し、若松亡き後も館を守り続けている。
(Wikipediaより)

すっごくいい映画を観た、と感激してしまった。
内容は公式サイトからの引用にあるように、若松孝二が名古屋で映画館を作り、それに携わる人達の青春群像。
若松孝二と言えば、数々の作品がある中で私にとって青春時代の神様。
それは以前、ブログ“「ピンク映画」、そして若松孝二へ”に書いたとおりである。

この作品内容のシネマスコーレの話を、当の“シネマスコーレ”で観る。
出演者は俳優が演技するとしてもすべて実在の人達。
その一人、当の劇場に入るためのキップを売っているのが実際の木全純治さん。

「では、肝心の作品の出来は」となるが、ひいき目を抜きにして素晴らしい。
勿論、作品の中で会話される監督等の人物のことが理解できるということもある程度影響しているかもしれないが、文句なしである。
満足して、会場を後にする時、出て来た人たちを見送る木全さんのほんのり笑顔にほだされて、井上淳一監督ほかのサイン入りパンフレットも記念に買った。
パンフレットと言えば、最近はよく、ネットで読める“公式サイト”に誰かの対談、解説ぐらいでお茶を濁してあるのが多い中で、
このパンフレットは値打ちなうえに、120ページ近くもある正しく本に近い代物。
おまけに、近頃見かけないシナリオまで付いていたりしていたりつくせりである。

思い返すと、シネマスコーレができた当時、若松孝二が名古屋に映画館を作るとはどういう意味だろうと不思議な気がした。
それでもマイナーで気になる作品が係ると観に行ったりして、その後、この作品の筋にもあるようにピンク映画がかかるようになって足が遠のいたりもしたが、
それ以降、中国映画の特集を重点的に組んだりしてアジア作品を観るなら“スコーレ”で、という案配になって今に続く。
私はシネマスコーレにとっての決していい観客ではないかもしれないが、それでも色々なミニシアターの経営が危ぶまれているなか、どうか頑張ってほしいと影ながら祈らずにはいられない。

 

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『哀れなるものたち』を観て

2024年03月05日 | 2020年代映画(外国)

『哀れなるものたち』(ヨルゴス・ランティモス監督、2023年)を観てきた。

不幸な若い女性ベラは自ら命を絶つが、風変わりな天才外科医ゴッドウィン・バクスターによって自らの胎児の脳を移植され、奇跡的に蘇生する。
「世界を自分の目で見たい」という強い欲望にかられた彼女は、放蕩者の弁護士ダンカンに誘われて大陸横断の旅に出る。
大人の体を持ちながら新生児の目線で世界を見つめるベラは時代の偏見から解放され、平等や自由を知り、驚くべき成長を遂げていく・・・
(映画.comより)

奇想天外なお話。
だって、河に投身自殺した女性ベラを「フランケンシュタイン」と同じようにゴッド(ゴッドウィン)は蘇生させたんだから。
その方法は、死んでいるベラの脳と生きていた自分の胎児の脳を入れ替えるやり方。
ゴッドの実験研究は、弟子マックスに記録させてベラのその後の成長過程を調べること。
と言うわけで映画の始まりは、身体は大人でも行動は幼児のベラのおこない。

そんなベラだが、徐々に物事を覚え、家の中だけの体験だけでは飽き足らず外界を知りたいと思うようになっていく。
その外界の世界へ、と話は進んでいく。
それと同時に困ったことに性の快感も覚えて突き進むこと。
だからこの作品はエロ・グロで成り立っている。
そこのところが、上品な人には抵抗感がある内容かなとも思う。
私自身は面白かったが、そこまでやるの、という気は確かにしたりもした。

この監督、ランティモスは以前に『ロブスター』(2015年)を観て、変わった作品を作るなぁとは感じたが、今回は映像マジックも加味されてそれに輪をかけた内容だった。
それを表現すると、常識を外されずっこけて深い穴に落ち込んでしまったと錯覚するような感じだった。
だから、傑作だとか駄作だとかの基準じゃなくって、映画は想像からはみ出す作品があるからとっても面白いなと感じた。

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