ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『なんでもないや』~「君の名は。」から

2021年01月28日 | 音楽
最近フッと、『君の名は。』(新海誠監督、2016年)のエンディング曲のメロディが出てきて頭から離れなかったりする。
なので、その『なんでもないや』をついYouTubeでよく聴いたりもする。
元のRADWIMPSは当然としても、上白石萌音の歌にも感動していいなと思う。
ただそれよりも心に沁みるのは、なぜかこちらだったりする。

なんでもないや / RADWIMPS【君の名は。】(cover)
(元の画像が非公開になってしまったのでこちらから)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『リフ・ラフ』を再度観て

2021年01月27日 | 1990年代映画(外国)
レンタルビデオ店がビデオテープの頃、ケン・ローチ作品が観たくて探したりしていた。
その中のひとつの『リフ・ラフ』(ケン・ローチ監督、1991年)を今回、また観てみた。

刑務所から出所したばかりのグラスゴー出身の青年スティーヴはロンドンに出て、古い病院を豪華アパートに改築する工事現場の職を見つけた。
そこは全国から職を求めてやって来た労働者たちの掃き溜めだった。
スティーヴは、親分風を吹かす現場監督のミックの下でそつなく仕事をこなすシェム、ラリー、モーの三人と打ち解けて仲間となる。
仕事の賃金は安く、労働条件は劣悪だった。

ある日、スティーヴは工事現場にバッグが落ちているのを見つけ、持ち主のスーザンに届ける。
最初はスティーヴを警戒した彼女も次第に打ち解けていく。
場末のパブで歌う彼女は、歌手になるのが夢だった。
スティーヴはラリーたちを誘って彼女の応援に行くが、客席からの野次で歌えなくなった彼女は泣きながら楽屋に駆け込む。
ラリーの機転でライブは盛況のうちに幕を閉じ、その晩スティーヴとスーザンは一夜を共にする・・・
(Movie Walkerより一部掲載)

スティーブは、底辺の労働者が働くビル改築現場の仕事にありつく。
仕事仲間は気のいい連中で、スティーブもすぐに馴染む。
仕事の条件はよくないが、みんな明るい。
そんな中、スティーブが落ちていたバックを見つけ、落とし主の家を訪ねる。
こうしてスティーヴはラリーは知り合う。

ラリーは歌手の夢を持って場末のパブやストリートライブを行うが、観ていて正直言ってヘタ。
そんなラリーは、貧しさもあってか精神的に不安定なところもあり傷つきやすい。
スティーヴとねんごろな仲になっても、二人の間はしっくりとしないと言うかなぜか隙間が漂う。
それでもラリーは、スティーヴと離れたりすることに怯える。

二人の不安定さは、なぜだろうと思う。
ケン・ローチは正面切って、社会ひいては時の政府を糾弾しないが、明らかに彼らの生活の基の根源には国の政策の有り様が絡んでいるのを見据えている。
ただ、そのことを何も画面に出さず、彼らの生活の土台としての仕事の風景を小さな物語として紡いでいく。
それらのことは観ていて自然と、強く共感せざるにはいられない。
なんで、スティーヴとスーザンはその後別れてしまわなければいけなかったのか。
勿論、スーザンの方に負の要素があるにしても二人しての笑顔が見たかったと、しみじみ思う。

「リフ・ラフ」とは最下層の人々を指す蔑称とのこと。
こんな社会は、少し前のイギリスの話とのんびりと構えていることは出来ず、今の日本でも同じ状態ではないかと憂慮する。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『女ともだち』を再度観て

2021年01月24日 | 1950年代映画(外国)
『女ともだち』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1956年)を再度観た。

場所はイタリアのトリノ。
クレリアは洋装店の支配人として着任するため、ローマからやって来る。
宿泊するホテルに着くと、隣りの部屋で若い女が自殺未遂を起こす事件に遭遇する。
警察の聴取を受けたクレリアのところに自殺未遂者ロゼッタの友達モミーナが訪れて、ロゼッタの行為の原因を知るための協力をクレリアに頼む。
これが切っ掛けとなって、クレリアはモミーナの女友達ネネ、マリエッラとも知り合う・・・

正直言って、しんどい作品である。
5人の会話体の物語に、その相手となる男たちも絡んでくる。
その物語の先は、どこへどのように落ち着くかは後半になるまでわからず、観ていても常に不安定さがつきまとう。
それがアントニオーニの狙いと言ってしまえばそれまでだが観ている方は落ち着かない。

話はこうである。
モミーナは夫との関係が冷え切っていて、愛人と情事を重ねている。
女流彫刻家のネネは画家ロレンツォを夫としているが、自殺未遂したロゼッタはこのロレンツォに恋している。
ネネは夫とロゼッタの関係を知っていながら、絵画個展が失敗したロレンツォの苦しみも理解している。
ローマから着任したクレリアは、開店予定の店を設計しているチェザレの助手、カルロと恋仲になる。
モミーナは設計士のチェザレを部屋に誘う。

クレリアは、自殺未遂から回復したロゼッタが立ち直るために、ロレンツォを諦めて自分の店で働くよう勧める。
しかし、モミーナはロゼッタの恋心を知ると、内心面白がってけしかける。
こうなるとロゼッタは益々ロレンツォに夢中になり、クレリアの言葉も届かなくなる。

クレリアの店の開店祝いでのファッション・ショーに女友だちが集まる。
ネネはロゼッタに、ロレンツォを譲って自分は個展を開くためにアメリカへ渡る覚悟だと話す。
ロゼッタはネネからの言葉をロレンツォに話す。
それを知ったロレンツォは、ネネの心持ちを察してロゼッタに別れを告げる。
ロゼッタは絶望し、自殺して本当に死んでしまう。

クレリアはロゼッタを煽ったモミーナに怒り、人前で罵倒する・・・

話は終盤に向かってまだ続くが、ここにあるクレリア以外の女友だちの世界は、欺瞞とか虚飾で溢れている。
そればかりか、妬みも絡んで粉飾された上流社会の中で、彼女らの内心はドロドロしている。

アントニオーニの言わんとすることはラストの方になって理解できてくるが、
それにしても前半をもう少し単純にするとかして分かりやすくしてほしかった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『原節子の真実』を読んで

2021年01月06日 | 本(小説ほか)
『原節子の真実』(石井妙子著、新潮社:2016年刊)を読んだ。

14歳で女優になった。戦前、戦後の激動の時代に112本の作品に出演、日本映画界に君臨する。
しかし42歳で静かに銀幕を去り、半世紀にわたり沈黙を貫いた。
数々の神話に彩られた原節子とは何者だったのか。
たったひとつの恋、空白の一年、小津との関係、そして引退の真相――。
(新潮文庫の裏表紙より)

著者である石井妙子は、本名・会田昌江が原節子として映画界に関わっていく事柄に、その出生以前の親のことまで遡って追っていく。
その内容は、膨大な資料を読み漁り、他の者では真似ができない原節子に寄り添った緻密な内容となっている。

原節子は1920年に2男5女の末っ子として横浜で生まれる。
父親は生糸問屋を営み裕福だったが、世界恐慌以降生活は困窮していく。
家計を助けたいという思いから学業優秀だった節子は、女学校を退学して映画界に入る。
それには当時気鋭の映画監督、義兄の熊谷久虎の勧めも影響した。

と、戦前の時代状況も背景としながら丁寧に、若き原節子を蘇えさせる。
映画界が好きでなかった節子が、戦後、女優という立場に自覚を持ち、いかに黒澤明や小津安二郎の作品に対応して行ったか。
イングリッド・バーグマンに憧れて演技の参考にした節子が、あの小津の名作『晩春』(49年)や『東京物語』(53年)の主人公に共感を持っていなかったという。
原節子自身は自立する女性を目標とし、中でも明智光秀の娘である細川ガラシャ夫人を演じたいと熱望したが、最後まで叶わなかった。

私が原節子を初めて目にしたのは、時代もずれていることもあり、二十歳前後にテレビのNHKで観た『晩春』である。
笠智衆の父親、一人娘の原節子。
父親周吉は、独身の娘紀子が婚期がずれるのを心配しているが、紀子は父を一人にするわけにはいかないとその気がない。
周吉は自分にも再婚の話があるからと説得し、紀子はとうとう見合い相手との結婚を承諾する。
嫁入り前の二人の最後の旅行で、やはりこのまま父と一緒に暮らしたいと紀子は心情を漏らす。
紀子が嫁いだ晩、自分の再婚話は紀子を結婚させるための嘘だったと、一人、椅子でリンゴの皮をむきながらうなだれる周吉。

この作品の笠智衆、原節子は忘れられない。
それ以後、古い日本映画を観るたびに原節子を目にしてきて、その姿は脳裏に焼き付いている。

話は戻って、
思慕していた小津が亡くなったことにより原節子は引退した、というようなあやふやな情報を今まで私は信じてきた。
しかし、実際の原因は全然違うところにあるのがよくわかる。
いずれにしても、細かい内容をここで羅列するよりも本書を読んだ方が素晴らしいし、原節子その人の誠実さに納得もし共感できる、と思う。
一人の人生の生き方を知ること、後半に至る大半が謎のままとしてもこのような女優、女性がいたという事実は、いつまでも輝しく後生に引き継がれていくのではないか、そのような感想をもった。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『さすらい』を再度観て

2021年01月02日 | 1950年代映画(外国)
『さすらい』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1957年)の内容の記憶があやふやなので、この際もう一度観てみた。

場所は北イタリア、ポー河沿いのフェッラーラ地方で、そこの寒村ゴリアーノ。
製糖工場に勤めるアルドは、イルマと同棲して七年になり、二人の間には娘のロジーナがいる。

ある日、役場に行ったイルマは、別居している夫がシドニーで亡くなったと知らされる。
アルドはこれを機に結婚しようとするが、イルマは拒否する。
そしてイルマはアルドに、もう一緒には暮らせないと言う。
理由は、好きな若い男がいるからと言う。
アルドは動転し、こんなに愛しているのにどうしてなのか、と問い詰める。
イルマは、アルドを愛しているがもうダメなのだ、と意志が固い。

逆上したアルドは村人が大勢いる路上で、イルマの顔を何度も平手打ちする。
そしてその後彼は、娘のロジーナを連れて村を後にする・・・


村を出たアルドは、イルマと一緒になる前の元婚約者エルヴィアを訪ねる。
独り身のエルヴィアはアルドを暖かく迎え入れ、二人はヨリを取り戻そうするが、満たされない思いのアルドはこの家をロジーナと出て行く。

二人は、道路脇の一軒のガソリンスタンドでヒッチハイクで乗ったタンクローリーから降りる。
ここのガソリンスタンドは、独身のヴィルジニアが手の焼ける老父を抱えながら切り盛りしている。
寝る場所もなく困っているアルド親子にヴィルジニアは、小屋で寝起きすることを許す。
翌日アルドがガソリンの給油を手伝ったのをきっかけに、女盛りで淋しい思いのヴィルジニアとの間は急速に親しくなる。
だがヴィルジニアは、ロジーナの世話を段々嫌がりだして、アルドはやむなく娘を一人バスで故郷のゴリアーノに行かせる。
その後、やはりアルドは空虚な思いでヴィルジニアの所から離れていく。

仕事を探しながら道を行くアルドは、河岸の雨漏りする小屋に住むアンドレイーナを手助けし、泊めてもらう。
娼婦のアンドレイーナは、住む家があっても食べ物がなくてはどうすることもできないと、雨の中、相手を探しに行く。
追いかけたアルドだったが、やはりアンドレイーナと決別していく。
そして行き先のないアルドは、イルマのいる村ゴリアーノに向かう。


主になる物語は、アルドが娘ロジーナを連れて、あてもなく仕事を探しながら道をさすらう姿。
途中で知り合った女性は親切であったりしてアルドを愛するが、それでもアルドは満たされない。
アルドにとって、どうしてもイルマの別れにいたる心情がわからない。
普通に愛し合っていての突然の決別宣言は、一体どのような意味なのか。

アントニオーニが実際に当時の妻からこのことを突きつけられて、その結果として出来た作品だという。
だからここには、アントニオーニの苦悩が如実に表われているのではないかと感じる。
それにしても、ラストの、たどり着いたアルドが家の中のイルマを見た光景のショックは計り知れないものだったはずである。
そしてその後の悲劇に対して、イルマの取り返しの付かない絶望も想像を絶する。
 
この映画は、陰影の富んだ白黒画面の中に、寒々とした心境風景を的確に描いた真の傑作といってよい作品だった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする