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ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

ルネ・クレール・11~『そして誰もいなくなった』

2018年06月26日 | 戦後40年代映画(外国)
『そして誰もいなくなった』(ルネ・クレール監督、1945年)を久し振りに観た。

本土から遠く離れた孤島に8人の男女が招待されてやって来る。
だが孤島の別荘には主人の姿が見えず、召使いのロジャース夫婦がいるだけだった。
不思議に思った彼らが話し合った結果、彼らはいずれも手紙で招かれたもので、差出人のユー・エヌ・オーエン(U. N. Owen)を誰も知らなかった。
ロジャース夫婦も周旋所から手紙で雇われ、1週間前に島に来たばかりだった。
本土との連絡は、数日後に来るボートだけで、それまで彼らは島から出られない。

食事の時、食卓にある“10人のインディアン”の置き物を見て若い女性ヴェラが古い子守唄を思い出し、スターロフがその曲を弾く。


そして、ロジャースがかけたレコードから10人の罪を告発する声が聞こえてきた。
10人はいずれも殺人を犯したというのだが、皆一様にそれを否定する・・・
(Movie Walkerより一部抜粋修正)

スターロフが毒入りの酒を飲んで死んだのを皮切りに、彼らは唄の歌詞にあるように一人ずつ殺されてゆく。
それに連動して、インディアンの人形が一体ずつ壊されていく。

姿を見せないオーエンとは、何者か。
ひょっとしたらオーエンは、インディアン島に集まった者の中にいるのではないか。

アガサ・クリスティの有名な作品を、ルネ・クレールはサスペンス調でなくコメディの味を振り掛けながら物語を進めていく。
当時はアメリカへ逃れていた最中でもあり、本来のルネ・クレールの作品らしさはないが、これはこれで、軽くても趣きがあったりする。
ただ驚くのは、この作品は小説の映画化ではなく、クリスティ自身の戯曲をベースにしているので、ラストで“そして誰もいなくなった”わけでなくハッピーエンドとなる。

思い返せば、これはルネ・クレールの作品の内で唯一劇場で鑑賞した映画である。
ルネ・クレール(1898~1981)の映画は、世代が違ってくるので同時代的に観ることはできなかった。
でもこの作品の日本公開は遅かったと言われるので、その時観たのか、それともリバイバルだったのか定かではないが、どこの劇場で観たかは憶えている。
と言っても、作品のラストでは誰もいなくなると憶えていたように思うので、自分の記憶も案外いい加減なものである。

マルセル・カルネ・9~『枯葉 ~夜の門~』

2018年06月22日 | 戦後40年代映画(外国)
『枯葉 ~夜の門~』(マルセル・カルネ監督、1946年)を観た。

1945年2月、解放後の冬のパリ。

ディエゴは、レジスタンス仲間だったレイモンの死を伝えるために、彼のアパルトマンを訪ねる。
驚くことに、そこへ当のレイモンが帰ってくる。
実は、銃殺寸前だったレイモンは九死に一生を得て、今では鉄道の操車場で働いていた。

再会を喜ぶディエゴが、レイモンの家族とレストランで食事を楽しんでいると、レジスタンスの仲間からは評判の悪いギーが、人を連れて羽振りよく食事に来る。
そこへ、ひとりの紳士が店に入って来、一杯ひっかけて行く。
ふと、ディエゴが外を見ると、止まっている高級車の中に目を見張る女性が座っていて・・・

ディエゴは、高級車に乗るマルーを見そめる。
このマルーは、実はアパルトマンの家主セネシャルの娘で、英雄面づらでみんなから疎んじられているギーは、弟であるとの設定。

夫ジョルジュと不仲であるマルーは、昔の思い出が詰まった家の倉庫でディエゴと偶然に出会う。
この場面の情景は、成り行きとして恋愛感情が絡んでくるが、映画作りとしてはどうしても文学的雰囲気で終始する。
だから、その雰囲気はとてもよくっても、どうしてもリアリティに欠けたまま物語が進む。

レイモンに対する密告者であったことが暴かれそうになり逃げようとするギー。
それを知ってしまったディエゴとマルー。
夜の運河沿いを彷徨うギー。
マルーを探しにやってきたジョルジュと知り合ったギーは、ジョルジュに銃を渡す。

ディエゴと一緒にいるマルーに逆上したジョルジュは、銃の引き金を引く。
と、話の筋はクライマックスに向かうが、やはり内容的には甘いまま大詰めを迎える。

この作品が、どうしても文学的なイメージを拭えないのは、要所要所に現われる謎の、自称“運命”の男。
この運命の男に、登場人物の成り行きが方向づけられていたりする。
なので、言わんとすることは解釈できても、作品としての感動は残念ながら生まれない。

そう言うこともあってか、この作品の最大の魅力は、例のジョセフ・コスマの“枯葉”の曲となってくる。
そして、ディエゴ役の若きイヴ・モンタンの主演と考えればとても貴重な作品だったりする。

ディエゴがレイモンの家族とレストランで食事をしている場面の“枯葉”(YouTubeより)


『万引き家族』を観て

2018年06月18日 | 日本映画
『万引き家族』(是枝裕和監督、2018年)を観てきた。

街角のスーパーで、鮮やかな連係プレーで万引きをする、父の治と息子の祥太。
肉屋でコロッケを買って、寒さに震えながら家路につくと、団地の1階の廊下で小さな女の子が凍えている。
母親に部屋から閉め出されたらしいのを以前にも見かけていた治は、高層マンションの谷間に建つ古い平屋に女の子を連れて帰る。
そこは母・初枝の家で、妻の信代、彼女の妹の亜紀も一緒に暮らしている。

信代はボヤきながらも、女の子に温かいうどんを出してやり名前を聞く。
「ゆり」と答えるこの子の腕のやけどに気付いた初枝がシャツをめくると、お腹にもたくさんの傷やあざがあった。

深夜、治と信代がゆりをおんぶして団地へ返しに行くが、ゆりの両親の罵り合う声が外まで聞こえる。
信代には、「産みたくて産んだ訳じゃない」とわめく母親の元へゆりを残して帰ることは、到底できなかった・・・
(パンフレットより一部抜粋修正)

下町らしい場所で、見るからに汚らしい家に寄り添うように暮らす一家。
生活の糧は、主に母親・初枝の年金に、副業的に万引きといったところか。
もっとも、治も信代も仕事には就いていたが、他力的出来事で思うようにいかない。

そんな環境状態であっても、この家族は生き生きしている。
それは、生きるため、生活していくためには、バラバラであってはやっていけないから。
だから、必然的に絆が強く、一家揃っての愛情に満ちあふれている。
そこに、おさな子の「ゆり」が「りん」と命名されて、一家に加わる。

りんを万引きに加担させている祥太は、駄菓子屋の店主から“妹を万引きをさせるな”と咎められる。
このことがあって、祥太の心に万引きに対する考えが徐々に変化していく。
そして、終盤のクライマックス。

家族としての幸せとは何か。
つい最近の、生々しい幼児虐待死の事件も連想させられる。

一緒に生活をしている者同士、そこに互いを思いやる愛情があれば、血の繋がりがあろうがなかろうが、それは二の次の話になる。
そのことを是枝裕和は、社会批判映画にせずに、社会そのものを提示して切り取ってみせる。

少ないシーンしか出なくっても脇役がガッチリと固めて光り、見終わった印象は重厚な作品を観れたと、無条件に感動する内容だった。

『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』を読んで

2018年06月12日 | 本(小説ほか)
“ヌーヴェル・ヴァーグ”とは何か、その定義は?
というようなことがあやふやのままの状態なので、『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』(ミシェル・マリ著・矢橋透訳、水声社:2014年刊)を読んでみた。

本書は6章建てで、映画における新しい波“ヌーヴェル・ヴァーグ”について解きほぐそうとする。
その内容は、訳者の後記が要約してしていると思うので、それをアレンジでして載せておきたい。

第1章「ジャーナリスティックなスローガン、新世代」

ヌーヴェル・ヴァーグという呼称じたいは、『エクスプレス』誌が主導した世代交代スローガンで初めて使われた。
それが映画界における新世代の登場に結びつけられたのは、成立間もないフランス文化省とCNC(国立映画センター)が管轄するユニフランス・フィルムが、1959年のカンヌ国際映画祭に出品されたトリュフォーやレネの新作を中心としてキャンペーンを張ったのが決定的であった。

第2章「批評的コンセプト」

このようにヌーヴェル・ヴァーグの発生には、国家による文化産業へのてこ入れが大きく関わっていた。
だが、どれほど国が動いても、「新しい波」じたいに力がなければ、大きなムーヴメントが起きるはずもない。
そうした実力は50年代において、『カイエ・デュ・シネマ』誌を中心とする批評家たちによって、理論的に着実に蓄積されていた。
アストリュック、トリュフォー、バザンらによって、映画芸術とは監督による映像的演出によって成立するのだという「作家主義」が綱領として打ち立てられていった。

第3章「製作・配給方法」

CNCはキャンペーンを張る以前から、作品の質的価値を基準とした助成金を交付することで、商業主義に流れる業界の体質改革に取り組み始めており、それがシャブロルの最初期作品などが生まれる原動力となった。
そのことはまた、助成金を利用して芸術的野心作を製作しようとする新世代プロデューサーの出現を呼び、ヌーヴェル・ヴァーグが運動として軌道に乗る最大の契機となった。

第4章「技術的実践、美学」

実際に批評家たちが映画を撮り始めると、ふたつの方向が分岐し始める。
ロケで都市や自然のなかに入り込み、そこでの偶発的事態をも取り込みながら即興的に物語りを生み出し、フィクションとドキュメンタリーの境界を溶解させ、あらゆる桎梏から離れた自由な創造を実現しようとする、ヌーヴェル・ヴァーグの理想をまさに体現した、ルーシュ、ゴダール、ロメール、リヴェット、ロジエらの流れ。
もう一方には、トリュフォー、シャブロル、レネらに代表されるより伝統的な映画製作の流れがあり、それは、監督による創造性の独占というよりも、新世代の脚本家との新たな協力関係であるとされる。

第5章「新しいテーマと身体ー登場人物と役者」
第6章「国際的影響関係、今日に残る遺産」と続くが、後は省略。

本書は、フランスにおける“ヌーヴェル・ヴァーグ”の発生形態、その定義について分かりやすく解説されている。
その方法は、ヌーヴェル・ヴァーグの全体像を知るためだから、個々の作品題名を上げてもいちいち具体的内容には追求していない。

“ヌーヴェル・ヴァーグ”とは何だったのか。
ひとことで言うと、
「1950年代末期からフランスで製作され始めた、旧来の映画が作り上げてきた伝統を打ち破るような映画群の総称。
代表的な監督にジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、ジャック・リヴェット、クロード・ジャブロルらがいる。
もっとも“ヌーヴェル・ヴァーグ”の厳密な定義付けは不可能であり、それぞれの監督の映画製作方法と彼らが扱う主題を明確に区分けし簡単にまとめることもできない。
しかし“ヌーヴェル・ヴァーグ”の監督に見られたごく大まかな共通項として、自作の中で映画史に意識的であろうとし、主題と技術の両面で既存の映画作りを破壊・更新しようとする姿勢を挙げることができる」
(『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』紀伊國屋映画叢書3より)
となるか。

このヌーヴェル・ヴァーグについては書きたいことも結構あるが、そのことにのめり込んでしまうとあらぬ方向に行ってしまうので、それはいずれ落ち着いてからにしようと思う。

マルセル・カルネ・8~『港のマリィ』

2018年06月11日 | 戦後40年代映画(外国)
『港のマリィ』(マルセル・カルネ監督、1949年)を観た。

愛人オディルの父親が亡くなったために、シャトラールは車で、シェルブールからポールの村へオディルを送ってくる。
村あげての葬式。
時間潰しにシャトラールはカフェへ立ち寄る。

葬儀が終わり、オディルの妹マリーに叔父が、弟たちと共に田舎へ行くよう提案するが、マリーはここのカフェで勤めたいと言う。
働くための願いに来たそのカフェで、マリーとシャトラールが出会う。
しかし、声を掛かけて出ていくシャトラールから“義理の妹”と言われても、素っ気ない素振りをするマリーだった・・・

シャトラールは、シェルブールで映画館併用のレストラン付きホテルを経営している。
オディルはシャトラールに対して倦怠期の兆候があり、元々夢見ていたパリに行きたいと思っている。
18歳のマリーには、恋人として理髪師のマルセルがいるが、のぼせているマルセルほどには感情が動かない。

シャトラールは、マルセルの父親の船をオークションで購入したため、その修理を含めポールに頻繁に来るようになる。
そして必然的に、カフェでマリーと顔を合わせることになる。
そんなマリーが恋人のマルセルに、シェルブールに行きたいと言ったりする。

シャトラールにとってマリーは、愛人の妹である。
だから、シャトラールがマリーを気に入っても、そこは中年の大人でもあるし、微妙な雰囲気だけであからさまにはしない。
マリーだってわかっている。
シャトラールに親しみ以上の感情がどこかにあっても、やはり姉の情人ということで警戒心も拭えない。
それでも、この閉塞した漁村からシェルブールに連れて行ってくれる希望も捨てない。

そんな二人の、時が経過してもギクシャクした関係は続く。
中年男の分別と、それに寄り添っていいのか、冷ややかな面持ちで戸惑う大人になる手前のマリー。
それらの場面を、会話の妙で繋いでいく。
そして、今まで笑顔がなかったマリーが、ラストで、幸せの予感の笑みを浮かべる時には、心底感動させられる。

そもそもこの作品の魅力として、シャトラール役を演じているこの時期のジャン・ギャバンの自然体が、とっても素晴らしい。
また、相手役のニコール・クールセルが何と言っても魅力的である。
このニコール・クールセルについては、後に『シベールの日曜日』(セルジュ・ブールギニョン監督、1962年)で、主人公ピエールに寄り添う看護師マドレーヌの思いが印象的で、これまたいつまでも忘れられない。

ジャン・ルノワール・10~『浜辺の女』

2018年06月06日 | 戦後40年代映画(外国)
『浜辺の女』(ジャン・ルノワール監督、1946年)を観た。

乗船していた船舶を機雷で撃沈された経験がトラウマの、沿岸警備隊のバーネット中尉は、相思相愛の造船所の娘イブと、一刻も早く結婚しようと約束し合う。

靄の立ち込めるある日、馬に乗ったバーネットが浜辺を進んでいくと、古い難破船のところで薪を拾う謎の女ペギーと出会う。
薪運びを手伝うバーネットは、ペギーの家に一緒に行く。
バーネットがその家から帰ろうとした時、丁度、ペギーの夫トッド・バトラーが外出から戻ってきた。

トッドは画家だったが、今は盲目の身になっている。
トッドから歓迎を受けたバーネットだが、勤務のためと言い残し帰っていく。
大雨の日、バーネットの勤務先に現われたトッドを、バーネットは家まで送って行って・・・

盲目のためにペギーに対する所有欲が強くなっている夫のトッド。
それを厭うペギー。
バーネットとペギーの間柄は、急速に接近する。
ペギーはバーネットに言う、「彼の目が見えることを証明したら、別れる」と。

トッドの目は見えるのではないかと疑うバーネットは、浜辺の崖っぷちへとトッドを誘う。
観ているこちらとしても、どうもトッドが盲目らしく見えない。
だから、わざと見えないふりをして、ペギーを拘束し、それを絆にしているのだなと感じてしまわない訳にいかない。
だが、どうだろう。
トッドはどうやら本当に目が見えないらしい、という設定。

真面目に観ていると、何だかだんだんと、いい加減なシナリオがあからさまに見えてくる。
その後ラストまで、明らかにこれはB級作品。
嵐の中を、バーネットとトッドが釣りに出掛け対決するシーンや、ラストの結末なんかは、ふざけているを通り越してそんな設定も傑作のうちだと感心してしまう。

ジャン・ルノワールがこの作品を監督していると言われなければ、とてもルノワールの作品とは思えぬほどの作家性のない、在り来たりの出来である。
要は、単なるハリウッド映画という感じである。
そんな作品を、“allcinema”のように「ミステリアスな水や炎の表現に優れており・・・」と、平然と持ち上げている評もある。
何でもかんでもルノワールの作品だったら神様の作品と考えて、キーワードを当てはめればいいと考えているのか、私には理解のできない評である。
と、このようにこき下ろしても、不思議なことにこの作品は、最後まで興味深く観れた。
なぜか、全く退屈しないのである。
思うにこれは、ペギー役のジョーン・ベネットに陶酔させられてしまったからに違いないためだろう。

『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』を観て

2018年06月03日 | 2010年代映画(外国)
『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』(ジャンフランコ・ロージ監督、2013年)をDVDで観た。

イタリアの首都ローマを囲む環状高速道路GRAに沿って建てられたモダンなアパートに住む老紳士とその娘、
シュロの木に寄生した害虫の世界に没頭する植物学者、
果てしない交通事故の知らせに休む間もない救急隊員、
後継者がいないことに悩むウナギ漁師、
年老いたソープオペラの俳優、夢と名声を追う若者など、
GRA周辺部に住む人々の暮らしをとらえ、その風景の中からイタリアの光と影や欲望と混沌、そこに生きる人々の息づかいを伝える。
(映画.comより)

この作品は第70回ベネチア国際映画祭で、ドキュメンタリーとして史上初の金獅子賞受賞の作品である。
だから、非常に興味を持って観た。
ところが何やこれは、とても内容に中味があるとは思えない。
作品として、何を訴えたいのかトントわからない。
個々の被写体としての点描写はあっても、観ている観客としては、その個々の人物たちの会話にこれと言った意味も見い出せず、だから何なのとなる。

これ程のズッコケ作品は久々なので、逆に愛らしさまで感じてしまうと言おうか。
不思議なのは、このような作品がどうしてベネチア国際映画祭の金獅子賞かということ。
作品の内容より、そのことの方がミステリーとしての興味が湧く。

このような、自分に感性が合わない作品を観て、それでも自分が以前と多少でも変わったと感じるのは、一応は最後まで観る点か。
昔、例えば『ラストエンペラー』(ベルナルド・ベルトルッチ監督、1987年)を封切りで観た時、相性が合わないと30分で満席の劇場から出でしまったし、
思い出せば、ビスコンティの作品だって15分で出てしまったことがある。
もっとも、それらは後年、ビデオで観てその内容に納得をしたということはあるけれども。

話は戻って、この作品、環状高速道路を走る車を被写体としてその夕暮れ風景などは、得も言われぬ描写だとつくづく感心してしまうのは、この映画の最大の取り柄か。

『レディ・バード』を観て

2018年06月01日 | 2010年代映画(外国)
本日から上映の『レディ・バード』(グレタ・ガーウィグ監督、2017年)を観てきた。

2002年のカリフォルニア州サクラメント。
片田舎のカトリック系高校に通う17歳のクリスティンは、自分を“レディ・バード”と呼び、大学進学については大都会のニューヨークを夢見ている。
レディ・バードは母親と何かと上手くいっていなく、会社からリストラを受けている父親を含め、家庭内が面白くない。
それでも、学校にはジュリーという親友がいた。

レディ・バードとジュリーは授業の一環の演劇オーディションを受けて、そこでダニーという青年に出会う。
感謝祭の日。
ダニーと急速に親密になったレディ・バードは、冷え切った家庭より、ダニーの家の夕食会の方が居心地よく感じて・・・

青春の真っただ中のはずなのに、レディ・バードと家庭の、特に母親とのギクシャクした関係。
でも、それは徹底した回復不可能という状態というより、どこの家でもありそうな悩みごとに近い。

レディ・バードはボーイフレンドのダニーと上手く行っていたが、ある時偶然に、学校のトイレでダニーが男の子とキスをしている場面を見てしまい、ふたりの間はオジャン。

カフェでアルバイトを始めたレディ・バードは、バンドをしているカイルと知り合う。
そして、カイルとの初体験でうっとりするレディ・バードだったが、実はカイルの方は初めてでなくガッカリ。
そんなレディ・バードが、疎遠になったジュリーとまた友情を確かめ合ったり、
遂には、ニューヨークの大学にどうにか入学することが出来、旅立つ。

レディ・バードの家族との関係、中でも母親との微妙な心の葛藤から目が離せない。
青春の、友人との間のレディ・バードの心の揺れ動きが、手に取るように納得できる。

このようなみずみずしさを含んだ作品だが、ひとつ残念なことは、物語の筋に起伏が少なく地味な感じを受けること。
だから1時間半の作品なのに、なぜかもっと長く感じられてしまう。
その辺りがチョットな、と言うところか。
でも最後に、レディ・バードがその名を捨て、本名を名乗っていくところは、少女から一人の女性に自立していく力強い姿が読み取れて、結果的には、いい作品だなと感じた。