ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

ブニュエルの『小間使の日記』

2019年05月20日 | 1960年代映画(外国)
ルイス・ブニュエル監督の『小間使の日記』(1964年)を観た。

パリから小間使いとして田舎のサントーバン駅に降り立ったセレスティーヌ。
出迎えた使用人のジョゼフの馬車で向かった先は豪華な屋敷だった。
ここのモンテーユ家では夫人が全体を仕切っていて、夫はその陰で精力を持て余し何かと欲求不満の状態にある。
また、夫人の父親は靴フェチで、早速セレスティーヌに自分の好みの靴で歩かせたりする。

モンテーユ夫婦が出かけた日、セレスティーヌが庭に行くと隣人の元大尉が石を投げ入れてきた。
それを切っ掛けにセレスティーヌは元大尉と親しくなるが、実はモンテーユ家とは犬猿の仲であった。
 
ある日、モンテーユ家の父親がベットで婦人靴を抱かえた状態で急死する。
そして丁度その日、使用人部屋に出入りしていた少女クレールが行方不明になって・・・

セレスティーヌはクレールを好いていた。
モンテーユ家の父親が亡くなりパリへ帰ろうと駅に行ったセレスティーヌは、そこでクレールが惨殺されていたことを知る。
セレスティーヌは犯人を突き止めるため、再度モンテーユ家に戻る。
彼女はジョゼフが犯行を行ったと目論んでいて、と物語は進んでいく。

まず、この作品が凄いと思うのは、メリハリの効いた野外風景などに見る映像造りのうまさ。
特に少女クレールが森でエスカルゴを探す短いシーンは、『処女の泉』(イングマール・ベルイマン監督、1960年)を連想するような一瞬の不気味さがある。
そして、セレスティーヌ役のジャンヌ・モロー。
言葉少ない会話をしながらの眼の動きと言うか、眼そのものの表情。
まさしくこの作品では、ジャンヌ・モローの独特な雰囲気の魅力が百パーセント発揮されて、それだけでも酔いしれる。
そればかりか、個々の人物もそれぞれクセがあって内容に味をもたせる。

ジョゼフを落とし入れ、隣人大尉と結婚したセレスティーヌは、朝のベットの中で何を思っていたのか。
そのラストシーンは、一般人が考える常識的な結末と違い、はぐらかされたようでありながら興味深く印象強い。
これだから、人間の欲望をあぶり出すブニュエルの映画は面白い、とまたしても思った。
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ジャン・ルノワール・16~『小間使の日記』

2019年05月15日 | 戦後40年代映画(外国)
『小間使の日記』(ジャン・ルノワール監督、1946年)を観た。

パリからの汽車で、片田舎に降りたったセレスティーヌ。
ランレール家の高慢な執事ジョゼフが出迎え、セレスティーヌは不器用なルイーズと共にメイドとして雇われる。
セレスティーヌの望みはこれまでの経験から、愛はいらないから相手が金持ちであるかどうかだけ。
館の主人ランレールは妻に実権を握られていて、金銭の持ち合わせがほとんどない。
隣家には、ランレールと犬猿の仲の調子者モージェ大尉が住んでいる。
モージェ大尉は一目でセレスティーヌを気にいるが、彼女にその気が起きない。

そこへ、ランレールの息子で病弱なジョルジュが屋敷に戻ってくる。
息子を溺愛する母親は、ジョルジュがまた家から出て行ってしまわないよう、セレスティーヌを着飾らせて気を引かせようとする。
そしてセレスティーヌは、夫人の言いつけで、ジョルジュとの散歩が毎日の仕事になって・・・

話の前提としての、革命記念日。
ランレール家は共和国を嫌う富裕層。
そのため銀食器を当日飾ってメンツを保とうとする。
片や外では、「共和国万歳!」と叫ぶ一般市民のお祭り騒ぎ。
その対比を背景としての、セレスティーヌとジョルジュの恋愛感情のやり取り。

ただ行き違いとして残念なことに、ジョルジュはセレスティーヌが母親の回し者に違いないと疑っていること。
それに対して頭にきたセレスティーヌは、屋敷を出て行こうと、執事ジョゼフに馬車で駅まで送ってほしいと依頼する。
すると、したたかで野心家のジョゼフが、「シェルブールのカフェに一年前、手付け金が払ってあるから結婚して一緒にやろう」と言い出す。
ジョゼフにしてみれば、セレスティーヌは“似た者同士だ”という考えである。

後はよくある、ジョルジュとジョゼフの乱闘ばりの争い。
そして、セレスティーヌとジョルジュのハッピーエンドと、話は収まる。

それにしても、セレスティーヌは“愛はいらない”と言っていたのに、ちゃっかりと愛を掴み、そこが甘いというか後半部分から話の内容がピリリとしていない。
やはり、ジャン・ルノワールにしても、渡米時代はどうしてもハリウッド的な物語になってしまうのかなと、思ったりする。
それでもラスト近くの群衆シーンはさすがで、『ラ・マルセイエーズ』(1938年)のシーンとオーバーラップする。

それと冒頭から流れる音楽には、アレレとなる。
曲は「魅惑のワルツ」

この曲は、『昼下がりの情事』(ビリー・ワイルダー監督、1957年)の主題曲として憶えているので、曲を聞くとゲイリー・クーパーとオードリー・ヘプバーンのロマンチックな雰囲気を思い出してしまう。
勿論、こちらの作品の方が先だとしても、やはり変な違和感が立ってしまう。

そんなことを言っても、主役はポーレット・ゴダード。
彼女については、チャップリンの『モダンタイムス』(1936年)と『独裁者』(1940年)しか知らなかったが、いい拾いものをしたような気分で大満足。
そんなこともあって多少内容が甘かろうが、これはこれでいい映画だった。
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ロベール・ブレッソン・7~『ラルジャン』

2019年05月09日 | 1980年代映画(外国)
『ラルジャン』(ロベール・ブレッソン監督、1983年)を観た。

現代のパリ。
高校生のノルベールは、父親にお金をもらおうとして断られ、借金を返せなくなり、クラスメートの友人に相談。
彼はノルベールに一枚の500フラン札を渡すがそれはニセ札で、カメラ店で安い額縁を買い女主人からツリを貰う。
後にニセ札だと気づいた主人は妻をなじったが、ガソリンの集金に来た若い店員イヴォンに黙って支払った。

それをカフェの昼食代に使おうとしたイヴォンは、カフェの店主と争って警察に通告された。
イヴォンは刑事とともにカメラ店に行き、潔白を証明しようとするが、主人はイヴォンの顔に見おぼえがないという。
幼い娘と妻エリーズがいるイヴォンは裁判に掛けられ、カメラ店の若い店員リュシアンも偽証して・・・
(Movie Walkerより)

その後、イヴォンは有罪にはならなかったが失職し、理由も知らずに銀行強盗の片棒を担ぎ、再び逮捕される。
結果、3年間入獄することになる。
その獄中のイヴォンのもとをエリーズは黙って去ってゆく。

一方、偽証したリュシアンは、店のカメラの値段を誤魔化して差額を着服し、それが元でクビになる。
そのため、店の金を盗んだのを始め、詐欺、窃盗をしては他人に施し、慈善事業みたいなことをする。

妻に見捨てられ、子供も病気で失ったイヴォンの人生は、元々は無実の嫌疑から出発しながら、どんどん悪い方向へと邁進する。
出所後は、泊ったホテルの夫婦を殺害し金を奪ったりする。
そして、後をつけていった老婦人に、親切にも納屋に泊めさせてもらい、そこに留まりながらも、最後には一家を惨殺する。

この作品は封切り時に劇場で観、その感想は、内容が理解不可能で一人取り残されたようなモヤモヤ感だけが漂った。
それを今回また観て、結局は、『バルタザールどこへ行く』(1966年)の時も感じたように、物語の流れが分かりにくかった。
要は、状況説明が一切ないために、筋がどうなっているのか一度観ただけでは理解しにくい。

例えば、二度に渡っての殺害時。
そのシーンは、具体的には描かれない。
特にホテルの場面では、間接的に、手を洗う水道水に多少血が混じる程度でお終い。
それを想像力でカバーしようとしても、場面はもう先に進んでしまっている。

そればかりか、いくら金のためといえ、何で殺人までするのか理由が何も示されない。
これがブレッソン流なのだと言い返されれば、それはそうなのだが、つまり心理描写をすることを拒否している。 
場面と場面の間(ま)が完全に省略されているので、続けて二度鑑賞してやっと全体が理解でき、成る程と頷く。
そうなると予備知識なしで、お金を払って劇場で観た時は、よく理解できなくって損した気分だけが残ったのは当然か。
そのように意識的に演出された作品群の中で、この作品がブレッソンの遺作となってしまい、そのことが印象に残る。
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『やさしくキスをして』を観て

2019年05月04日 | 2000年代映画(外国)
『やさしくキスをして』(ケン・ローチ監督、2004年)を観た。

スコットランド・グラスゴー。
カトリックの高校で音楽教師をする女性ロシーンはある日、パキスタン移民二世の女子生徒タハラの兄カシムと出会う。
別居中の夫がいるロシーンだったが、クラブのDJをするカシムの誠実さに好感を抱き、ほどなく二人は恋に落ちる。
しかし、敬虔なイスラム教徒であるカシムの両親は、子どもの結婚相手は同じイスラム教徒と決めており、カシムについてもすでに勝手に縁談話を進めていた。
ロシーンにそのことを打ち明けられずにいたカシムは、二人でスペイン旅行へ出かけた際、ついに婚約者の存在を告白するのだが・・・
(allcinemaより)

男と女が愛し合う。
どこにでもある話だが、しかし、ここに示される二人に対しての壁はとてつもなく大きく重い。
スコットランド社会の中のパキスタン人。
それに伴う、宗教としてのカトリックとイスラム。
特に、カシムの父はイスラム教に基づく家族主義、コミュニティーの念が非常に強い。
だからカシムが顔も知らない従姉妹を、婚約者として父親が一方的に決める。
それを打ち明けられたロシーンは、私の愛と家族とどちらが大事なの?と迫る。
ロシーンの態度は誰がみても当然なのだが、カシムには決断ができない。
理由は、カシムが優柔不断という訳ではなく、彼の家族の崩壊を意味するからである。
その葛藤に悩む。

なぜ、カシムがロシーンを選ぶと家族を捨てることになるのか。
その社会の有りようは根深く絡み合い、解決の糸口が難しいまま残る。

カシムの父は40年前、この地に渡ってきた。
その後の苦難は語られていないが、スコットランド社会の中でイスラムコミュニティーを形成し家族が結束しなけば、やってこれなかっただろうと想像させる。
片や、ロシーンが勤めるカトリック系学校の方でも、イスラム教徒のカシムと付き合う彼女をクビにする。

このような話を、ケン・ローチは例のごとく、個人的な内容から社会的普遍性へと問題を提起していく。
だからラストは明るい内容になっていても、この家族を取り巻く現状を考える時、手放しで喜ぶ訳にはいかない。
甘い題名からは想像できないケン・ローチの鋭いタッチは、この作品でも健在である。
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『にがい米』を観て

2019年05月02日 | 戦後40年代映画(外国)
めずらしく、『にがい米』(ジュゼッペ・デ・サンティス監督、1949年)を観た。

舞台は北イタリアのポー川流域の大水田地帯。
毎年この地域へ、田植えの出稼ぎに大勢の女性がやってくる。

今年も、ヴェルセリ行きの出稼ぎ専用列車がトリノ駅から出る。
その駅の中に、宝石を盗んで手配されているワルターと愛人フランチェスカの姿があった。
警察に見つかったワルターは逃げ、その間に、フランチェスカは出稼ぎ列車に飛び乗り、大勢の中に紛れる。
それを一部始終見ていた若い女シルヴァナが、列車の中でフランチェスカに声をかける。
シルヴァナは、失業しているフランチェスカのために交渉して、彼女も出稼ぎ仲間として扱ってもらう。

だが農場に着いてから、正規に契約した者と契約なしで来た者との間で一騒動が起きる。
それを軍曹のマルコが、どちらも共に働けるようにと地主に話をつけ解決してくれた。
そんなマルコの男らしさに、フランチェスカは惚れてしまい・・・

春に、女たちが40日間の田植え・草取りの出稼ぎにくる実態がリアルに映し出される。
それに絡んでの、シルヴァナとマルコ、ワルターとフランチェスカの四人のメロドラマが繰り広げられる。
フランチェスカはマルコを好きになり、そのフランチェスカを追って農場にやって来たワルターはシルヴァナを気に入る。
マルコとシルヴァナも共に気はあるがそれ以上にはならない。
その辺りの関係が、後半以後ドラマチックに進みアクションとなっていく。
そして、ついにクライマックスへとなだれ込んでいく。
しかしなぜ、あんないい加減なワルのワルターにシルヴァナは夢中になり騙されるのか。
まだまだ世間知らずで若すぎるからか。

それにしても、シルヴァーナ・マンガーノの姿態には眼を見張るものがある。

この作品は、二十歳の時にテレビで観たとメモってある。
だが、今では当時の記憶が何も残っていない。
あのシルヴァーナ・マンガーノのスチール写真はどこそこでよく見ているから、田植えシーンぐらい憶えていそうなのに、我ながら不思議である。
田植えといえば、イタリアのあの早苗の大きさは凄い。日本の場合と比べると正しく雑草の類である。
それを無雑作に植えていくから、国柄がよくわかって面白い。

ネオリアリズモ、プラスメロドラマのこの作品が、封切られた当時大ヒットしたという話に、十分過ぎるほど納得できる内容であった。
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