原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

梅太郎の血

2012年02月10日 08時31分56秒 | 社会・文化

 旅という概念などまったく頭になかった小学校生の頃から、私は遠くへ出かけることに異常に興味をもつ子供であった。小学2年頃からひとりで汽車に乗り、親せきの家に遊びに行っていた。釧網線に乗り、網走で乗り換え、雄網線(今は廃線)で常呂まで(現北見市)。たしか一日がかりの小旅行であった。混雑した車内のざわめきは今でも記憶している。この時、列車の中で知った不思議な興奮はその後の人生にまで影響したと思っている。東京に出て学生生活を送る4年間で日本全国を歩き回った。だが、まだ海外までは足を伸ばせなかった。強い希望はあったがそこまではできなかった。逆にそれが、その後のばねになった。

海外へ出かけるようになったのは社会人となってからである。仕事をしながら休みをとっては海外へ出かけるようになる。そのうち、仕事に海外を組み合わせるようになる。仕事のためではない。自分のためであった。だんだん、望みが強くなる。もっとふんだんに海外に行ける方法はないのか。それがすべての動機であった。ある雑誌の編集長と知り合いとなり、雑誌への寄稿を中心としたフリーランスのライターとなった。ここで自分の身の置き場所をようやく見つけたのである。

めったに北海道へ帰ることはなかった。時間もなかった。それでも、たまには帰る。母は私の職業について詳しく聞かない。また話してもよく分からないだろうという、思いあがった心もあった。たまたま単行本ができたので一応見せた。母はちらっと見ただけであった。当然ながら、一言の感想も言わなかった。どうやら、旅をしながら仕事をしていることだけは分かったらしい。だが、決して正業とは思っていなかっただろう。きちんとした会社に勤めるわけでもなく、日本にもあまりいない。日本にいる時は、家で毎日ごそごそ。何をやっているのやら。と思っていただろう。昔の女性の強さというか、したたかさというのだろうか、「自分の人生だから好きにやりな」、という感覚で子供を突き放していた。ある面で自分の子供を信用していたのかもしれない。そんな母がある時、言った。

「お前には梅太郎の血が入っているから」

梅太郎というのは母の兄である。母は末っ子だったので歳は15ほど違っていた。一男四女の兄妹で母は下から二番目であったが、一番末の妹が若くして病死したため、実質の末っ子であった。

不思議な縁がある。私は母が亡くなった時、海外にいて死に目にも会えないどころか葬式にも出席できなかった。だが、母の姉二人の葬儀には出ている。母はまだ存命中であったが、名代として出ていた。運命というのはなかなかに複雑なものである。

(今も北海道にはたくさんの牧場があり、屯田兵の痕跡も残されている)

母の実家は北見に入植した屯田兵であった。北見の屯田兵は明治30年の入植ということ。たぶん母の父(私には祖父)が屯田兵であったと思う。祖父は私が生まれる前に亡くなっているので当時の事情はよく認識してはいない。祖父はそれなりに苦労を重ねて牧場(馬牧場であった)を経営するまでになった。規模はよく分からないが、使用人もいたという話である。母の二人の姉は女学校を卒業している。大正から昭和初期の家としてはそれなりに裕福だったのだろう。祖父が亡くなり牧場を継いだのが、長兄であった梅太郎である。この梅太郎が悪かった。放蕩息子であった。牧場が自分の自由になると、その悪い性格が顔を出した。馬を勝手に持ち出してどこかにいなくなる。その馬を売って金をつくり、日本のあちこちを旅していたらしい。金がなくなると家に帰り、また馬を持ってどこかへ。そんな生活なのだから、実家はたちまち傾く。母が女学校に在学中に家は没落、人手に渡った。母は女学校を中退して、すぐ奉公に出された。母の苦労はここから始まった。

母には、世界を歩き回る私と梅太郎がどこかで重なっていたらしい。この梅太郎であるが、苦労をかけた末妹の母にはいろいろ気を使っていたようだ。なにかあると、よく家に遊びに来ていた。子供であったが覚えている。母は決していい顔をしなかったが、平気でやって来ていた。この辺が博労(馬喰)商売の強さなのだろう。

大学生の時、はじめて梅太郎とまともに話した。それが最後であった。梅太郎(伯父さん、呼び捨てゴメン)はこの時東京の話をいろいろしていた。当時の私よりずっと東京に詳しかった。特に浅草が詳しかった。どうやらこのあたりが拠点であったらしい。何をしていたのかは全く不明だが、相当楽しかったに違いない。嬉しそうに話していたのを思い出す。そんな話を横で聞いていた母は、今思い出せばまさしく嫌な顔をしていた。

私と梅太郎の共通点はたしかにある。旅好きという基本はもちろんだが、故郷に対する考え方である。私は海外に出ることを強く希望していたが、外国で暮らす(永住という意味)という視点は一切なかった。あくまでも旅人として外国を楽しんでいたのである。これはどうやら梅太郎も同じであった。だから、必ず戻ってくる。しかしながら、母に言わせれば、金がなくなったから戻ってきただけだ、となる。梅太郎伯父貴の気持ちはなんとなくわかる。東京は地方出身者の吹きだまりのような場所。多くの人が旅人のままで生活している。居心地がよく感じられるのは、自分がいつまでも旅人でいられるからだ。東京はそんな街であった。あくまでも個人的な感想ではあるが。東京生まれで東京育ちの人たちとはちょっと違う感覚であろうが、地方出身者はそういう感覚になる。いつまでも居ようと思えば居られるが、いつまでも旅人でいるわけにはいかない。そこでまた故郷へ戻る。故郷にいるとまた出かけたくなる。そうしたパターンが梅太郎だったのでは、と思う。

私の場合も似たようなものだ。ただ対象が海外であっただけだ。国境を越えて旅立ち、仕事がひと段落すると無性に日本に帰りたくなる。そして日本の地を踏むとホッとするような安堵感を覚える。自分は日本が好きなんだと改めて感じる。だがしばらくするとまた旅に出かけたくなる。そうした繰り返しだった。長い間こうした生活をしていると、日常と非日常が逆転する。旅をしているのが日常で、じっと家にいるのが非日常となる。梅太郎伯父貴はこうであったのだと、想像している。そのために家が没落したとしても、そうしか生きる方法がなかったのでは。これが分かるという意味では、たしかに私の体の中には梅太郎の血が流れている。


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2 コメント

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異邦人! (numapy)
2012-02-10 09:40:53
どうやら、旅人の血は多かれ少なかれ、誰にでも流れているようです。
カミユのみならず、デービッド・アイクなどの著書にも、周囲との違和感に囚われる異邦人感覚の話が良く登場します。もっともアイクは、その素は「あなたが宇宙人だから」という方向へ行ってしますのですが・・・。
貴兄の場合はかなり梅太郎氏の血が濃厚のようですが、不肖オイラもいままで、23回も引越ししました。
今後もあるのか、と尋ねられると返答に窮してしまいます。
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車寅次郎 (原野人 )
2012-02-10 10:27:37
寅さんが長い時を経ても人気なのは、やはり日本人の根に同じ血が流れているせいなのではないでしょうか。どうしょうもない人種と思っても全否定できない何かがそこにあるようです。
しかし、梅太郎はバランスが悪すぎた。寅さんも同じですね。うまく調整するのが常識人なのだと思います。その点、numapyさんのバランスはたしかです。問題ありません。
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