最近、記憶の機能が衰えてきたように感じる。昔のことはよく覚えているのだが、最近のことが何やら怪しく感じる。加齢というのは筋肉だけでなく、脳の活動にも影響を与えるものらしい。昔から人の名前を覚えるのが苦手だったけど、いろいろなことを失念するようになってきた。まずいかなと思う反面、都合の悪いことは忘れたふりをすることもできる。案外、これはこれで使い道があるのではと考えている。実は、歳をとるということはこうしたことも利用できるということを、2週間ほどの入院生活で学んだ。
入院中、同室に88歳になるお年寄りがいた。私より数日後に救急車で運ばれてきた人だ。家で意識不明となったらしい。その原因はよく分からないが尿道が詰まって、意識混濁を呼んだらしい。高齢のためとりあえず入院となり、尿を強制的に排除するためカテーテル(管)装置されていた。二三日すると、かなり元気になった。すると病院では退院を勧める。治療することがなくなったからだ。ただし、カテーテルはつけたまま家庭に帰らなければならない。
老人が一人の時、医者が懸命にその説明をしていた。家での過ごし方について家族の人にも理解してもらいたいということも含めて。しかしながら、かの老人は、どうも意味をあまり理解していない感じなのである。さすがに医者も気づいて、今日にでも家族の方が見えたら、とにかく医務室に連絡するように何度も念を押して引き下がっていった。
昼近くに家族がやってきた。「お医者さんは容態について何か言ってなかったの?」と聞くと、かの老人はこともなげに「何にも聞いてないよ」という。あれま、これは認知症なのかなと、隣で聞いていて思う。しかし、声をかけるのも何かためらい、ついそのまま黙っていた。十分ほどで家族は帰ってしまった。ほどなく看護士がやってきて、「家族の人はまだ来ないですか?」と聞く。老人は「来ないよ」と返事。そして、再び家に帰らなければならない事が長々と説明される。こうして二日ほど過ぎ、病院は家族(どうやら同居はしていないらしい)に電話して、ようやく家族に事情が伝わった。老人を含めて病室で家族会議が始まった。
ところが、驚いたことに、かの老人、すべてを理解していたのである。「俺は家に帰るの嫌だよ」と開口一番の言葉がこれだ。「管をつけたままかえりたくない」。どうやら、家に帰りたくないから、知らないふりをしていたかのように思える。家族もまた同居していないので世話が大変なのか、できれば病院に置いてもらえないかと希望する。しかし、病院は救急病院なので治療がない人を入院させておくことができない。家族は渋々了解する。ただし、一週間ほど家で生活する練習をさせてくれと要望し、病院も納得した。しかしだ、この練習がまた一騒動となる。たまった尿を捨てる作業がまずあるのだが、これができない。いくら教えても記憶できない様子なのである。しかし、家族が来て話をしているのを聞くと、そんなことを感じさせない。結局、十日ほど継続入院となっていた。私が先に退院したので、その後の老人がどうなったのかは、知るところではない。
この老人が本当にアルツハイマー(認知症)なのかどうかは専門家ではないので断定はできない。本当の症状というのはひょっとしてこういうものかもしれない。隣のベッドで一部始終のやり取りを聴きながら、これは自分の生活にも使えるのかもしれない、とふと思った。
都合の悪いことは記憶にないことにしたら、結構楽になるような気がする。ただし、人をだますための、かなりの度胸というか、精神的なプレッシャーが必要になる。たぶん、普通ではこうはできないだろうな。記憶を司る大脳も海馬も、そうは都合よく機能してはくれない。
東京都知事が献金問題で追い詰められている。発言がずいぶんぶれているようだ。それでも、かつて都合が悪い事を聞かれると、「記憶にありません」と言い続けて逃げまくった政治家や財界人のに比べれば、まだましのような気がするが、それもやはり限界だな。
ところで同室だった老人の話おもしろいですね。
人間のココロというものが滲みでてきてる。
最近読んだ「認知症にならないための決定的予防法」
=ヴィンセント・フォーテネイス著の中にも似た事例が書いてありました。
ただひとつ、おじいさんが「最近、何が何だか分からなくなることがある」と言った時、娘と思われる人が「まだ早いでしょう」と即答しました。このおじいさん88歳。聞いた私は口に入った飲料水を吹き出しました。
家族の心情というものはこういうものなのでしょうね。大変参考になりました。