今日の社内連絡(ブログver)

sundayとかオリジナルテンポとかの作・演出家ウォーリー木下のつれづれなるままのもろもろ。

準備

2020-06-09 | Weblog
6月に入り、本来なら「プラネタリウムのふたご」の稽古と、あともう一個の情報の出ていないリハーサルを重ねていたはずの日々なんだけど、それらは泡と消えて、相変わらず自炊とこどもと体重計だけを一日の寄る辺として生きている。その隙間に本を読んだりドラマを見たりもしている。絵を描いたり運動して散歩をして移ろいゆく季節を楽しんでもいる。先日は散歩の途中、近所の家の庭になる枇杷をもらった。空を見上げることも増えた。
これって相当幸せなはずだ。しかしどうも、幸せだけれど、物足りない、のも確かで。演劇を創りたい、という願望もあるけれど、そこにいくまでの準備すらできていないような有様だ。
とはいえ、演劇の準備ってなんだろう?生活をしていればそこには演劇はある。と思ってずっと生きてきた。この教えは誰に教えてもらったわけでもないのだけど、たぶんオリジナルテンポをやっているときに自然と身についた。限界芸術とまではいかないけれど、生きていればそこには発見があり、その発見こそが芸術になると、そう信じている。
おそらくコンプレックスからきている部分もあると思う。周りを見渡して、様々な尊敬する人たちと自分を比較して、特別な何かが自分にはないとあるときに気づき、「to be or not to be」的に、自問した。このまま、ゼロのまま、人になにかを見せる仕事をしていていいのだろうか、と。自分の心に問うてみても、ありあまるオリジナリティ等一切なく、語る物の少なさ、ありふれた人生、できることの稚拙さ、と、マイナスな要素しか出てこない。
それでも、止めなかった(to be)。それは、まあ、いろいろあって(色々な人に出会ったおかげで)、そんなことを理由に止めるなんてくだらないし、間違っていると気づいたからだ。
ゼロならゼロで、描けることは、ある。そのうちのひとつが、生活だったりする。生きているひとみんなが、発見することを、ひとつの形として切り取り、提示することで、そこに何かがあると思えた。
深い意味などなくてもいい。それは僕が決めることじゃない。
さて、長い自粛期間で、もちろん問うてみる。発見したことを演劇にできないだろうかと。そのことがひとつの準備だとすれば、かなりいろいろ準備はできてきている(頭の中だけ)。楽しみはこれからだ。

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