今日の社内連絡(ブログver)

sundayとかオリジナルテンポとかの作・演出家ウォーリー木下のつれづれなるままのもろもろ。

孤独の価値、振り返り、記憶力の低下

2013-12-31 | Weblog
年の瀬をのんびり東南アジアで過ごせたのは、ラッキーだったし、これ以上ない2013年の締めになった。
ひとり旅というもの実に久しぶりだった。20代のころを思い出した。
今は、さすがに街に到着してから宿を探すということもしないし、その場ののりで帰国日を変えるなんてこともできない。
あの頃はインターネットや携帯電話がここまで発達してなかった。知らない街に着いたらまず宿を見つけて、そこで話を聞いて、日本の仕事をするときはネットカフェに行ってた。
今は、ひとりで知らない街をサバイブすることもさして難しくない。手のひらにネットカフェもある。ひとりになりたくてひとり旅するのに、そもそも「本当にひとりになる」なんてこととても難しい。
孤独の相対的価値は上がってるのかもしれない。いかにして孤独を手に入れるのか。わざわざネットの繋がらない場所に行かないとそれができないのもどうかと思う。もっと上手に細かくつきあっていかないとな。

さて2013年ももう終わりだ。今年を振りかえったりかえらなかったり。
初めてオペラをやらせてもらった。チャンスがあれば、もう何回かしたいな。PVを作る感覚で芝居を作りたいといつも思ってるのだけど、音楽としてオペラはとても面白い。それにPAを必要としない声量というものを肌で感じたことはいい経験になった。
YOUPLAYは難産だった。そのおかげで、自分が今一番新しいと思えることができた。なかなか人に伝わりづらいのがつらいが、そのあたり開拓していくしかない。おそらく人生の後半のひとつのテーマが見えた作品だった。秋にはバージョンアップもした。メタモルフォーゼを繰り返し、世に問うていきたい。(僕は、基本、世に問いたい欲が強い)。
そのあとはオリテンのヨーロッパツアーか。前半体調が悪かったのを思い出す。総じて楽しいツアーだった。そのまま渋谷に持って行く。もはや東京とかでいちいち力を入れないことが地方在住アーティストのやっていく方法の一つだろうな。いつも通りのことした。
高槻の呼吸らも今年だ。福永信さんの「星座から見た地球」を上演した。僕の中での演劇実験室として、呼吸らは大きな場所だった。そもそも1年間かけてじっくりと演劇のことを考えられたのは高槻のおかげだ。僕は演劇が好きなんだということを再認識した。面白いよね、演劇って。
そのあとは東京パフォーマンスドール。結果的に今年一番公演と稽古と打ち合わせをした現場になった。新しく立ち上げるプロジェクトとしては、ここ最近では一番大きいし、僕自身こんなにエキサイティングなことになるとは当初は思ってなかった。あれよあれよという間に、のめりこんでしまった。今では「これまでのいろいろなことはここに集約させるため」だったのではないかと思うくらい、自分としてフルスイングで挑めた。ありとあらゆるやりたいことを詰め込んだ。もちろん本番に乗るのは氷山の一角だけど、そういう空気、とりあえずやりたいことを言う、それを検証する現場にしてくれたスタッフやメンバーには感謝だ。
そしてもいっこ、大きいのが多摩1キロフェス。これも今までいくつかのフェスをやってきたのは、ここに繋げるためだったのではないだろうか、と思わせてくれるものだった。街を取り込んでフェスをするというのはひとつの文化事業だ。やりがいはあるけど、危険な刀でもある。扱いは厳重に。でも、そういう切れるものをうまく扱うというのも僕も「いい大人」としてやっていかないといけない。まだまだ試行錯誤中だけど、大きな渦を作りたい。
静岡→バンコクとオリテンの野外パフォーマンスを作ったのは秋から冬。街の中で知らない人同士が繋がるパフォーマンス。YOUPLAYにしろ多摩にしろ、演劇というものに触れたことない人が「いつの間にかパフォーマンスをしている」構造というものは今後も追求していきたい。「繋がる」ことは「体験」しないと成立しない。そういう意味では、ただ見るだけの演劇はもうあまりしないかもしれない。
自分のやってることを言語化して説明する機会も多かった。人前で話すのは苦手だけど、それもまた「いい大人」としてやっていかないといけない。
他もいろいろあったけど、記憶力の低下は悩ましい、総じてすばらしい一年でした。みなさんありがとうございました。

こうやって簡易版で振り返ってみても、たくさんの人にお世話になった。結局の所、ひとりで生きていくことというのは無理なんだろうな。
例年以上に、濃い関係性を仕事相手にもてたのも良かった。性格上、仕事の人と友達になることってあんまりないんだけど。
仕事に関してはそれなりに達成感というか、よくやったなーと自分をほめたい気持ちはあるけど、正直プライベートはもう全然だめなんだろうな。自分で自分を叱咤したい。人生はそう簡単にはうまくいかないですね。

しんみりしましたが、みなさん良いお年を。


高校演劇私感脱線

2013-12-05 | Weblog
もはやこのブログの時系列は無茶苦茶です、この文章もずいぶん前(2ヶ月前)に書いたやつ。
・・・
人生ではじめて高校演劇をがっつりと見た。いわゆる審査員というやつだ。直前に高校演劇の世界を描いた平田オリザの「幕が上がる」を読んでいたこともあり、またTPDをやってて、10代の演劇観というものに個人的に興味もあり、やってみることにした。
その中で、多くの発見があり、驚きがあり、そして失望もあったのだけど、そのあたりは書き出すと長いのでやめておく。
で、どうでもいいことを2つ連続で書く。

ひとつめ。僕自身、長い間悩んでることのひとつだ。それはアドバイスについて。
審査会の後に一校づつアドバイスをする時間がある。5分ほどだ。で僕は苦手だ。
そもそも具体的なアドバイスをすることの気恥ずかしさってある。
どう転んでも「偉そうになる」し、そもそも本当にあってるのかどうかわからない。
他人に具体的なアドバイスをしている人を横で見ていると、「うわ恥ずかしいこと言ってる」と思うことも多い。
で、演出家というのは、アドバイスをしないといけない場面がたびたびある。それも仕事のひとつだ。
そういうわけで僕はわりと抽象的なアドバイスばかりしてしまい、役者さんの頭の中に「?」が飛んでることが多い。
もちろん人によっては、具体的に言うよりはすこし回りくどい方が伸びしろが増える俳優もいる。
逆に具体的にしてあげた方が、どんどん演技をつかんでいく人もいる。
特に若い俳優は具体的な方法を求めたがる傾向があると思う。
昔は稽古場で僕が自分で「やってしまう」ことも多かったが、最近はほとんどしない。
それはなんていうか「エゴ」のような気がするのだ。
それも含めて一番は「恥ずかしい」。
とは言っても「心の中の悪魔と戦ってみたらどうでしょう」とか言い続けるわけにはいかないので、
3:7くらいの割合で(3くらいは)具体的なことも言う。

二つめは、等身大という言葉について。
等身大というものを僕らは勘違いしている、ということに気づいた。
等身大、というのは、今の自分が抱える問題を扱ったり、観客にとってみじかな問題を扱ったりすることを言いそうだ。対義語としては「背伸びしてる」とか「身の丈に合ってない」とかだろうか。
スターウォーズのことを等身大とは言わないですよね。
女子高生が女子高生が出てくる演劇をしたときに(そんでもって夢とか進路とかをテーマにしてたりすると)それを等身大という。
でもそれはホントに等身大なんだろうか、って思ったんだよね。
等身大って、ことは、ある程度自分の大きさや立ち位置がわかってるから言えるわけで、でも実際は、そんなものはわからない。
特に若いときはそれがわからない。
今、自分がどこにいるのか、なんてほとんどわからない。あとあと、後ろを振り返ったときに、ああ私はあの場所にいたんだ、と理解できることがほとんどだ。と僕は思う。
青春という現象がなにかと言うと、それはほとんどが「混乱してる」ことを指している。
わけもなく、壁をぶん殴るようなこと、そして拳から血を流すことが、青春なんだと思う。
思うこともままならない。思ってもどうしたらいいかわからない。さらには思い通りにいかない。

高校生たちが壁をぶん殴り、拳から血を流してる演劇を作ってるのを見ると、まだまだ俺も頑張ろうと普通に思うのでした。