今日の社内連絡(ブログver)

sundayとかオリジナルテンポとかの作・演出家ウォーリー木下のつれづれなるままのもろもろ。

エンパシー

2020-09-11 | Weblog
駅のホームで、ふと線路に飛び込みたくなることは誰だってある、のかどうかは知らないけど、僕はある。
別に、死にたいとか、ストレスとか、横領とか、失恋とか、そういうことではなくて、普通に生きていて、ふと飛び降りたらどうなるんだろう、とひとつの好奇心が頭によぎる。それは恐ろしい感じではなく、もう少しあっけらかんとした楽しい感じでもある。
先日も、ふと、京王線の明大前駅で乗り換えの電車を待っているときに、向こうからやってくるクリーム色の鉄の塊に自分の身を捧げたらどうなるのだろうとその思考が一瞬よぎった。
それは全校集会で校長先生の訓示の最中に大声を出したくなるのとか、葬式に参列している時に突然笑い出したらどうなるだろうとか、そういうわけのわからない子どもぽい衝動とほぼ匂いや感触は似ている。
このことで、僕が僕に教えてくれることは、自殺する人はなにも特別じゃない。ということや、ひいては人を殺してしまう人や、暴力をふるう人や、人を傷つけてしまうこと、そういう人たちはどこかにいるわけではなくて、僕自身の中にいるということ。なにか決定的な過ちを犯してしまうことは、正直、誰にだってあるのだろうな、と思うのだ。魔が差すの、魔は自分の中にずっとある。李徴にとっての虎のように。アナキンスカイウォーカーにとってのダークサイドのように。
自分とは全く関係のないように思われるどこかの出来事の全部に理解を示すことは不可能だし、トライしてみて狂ってしまいそうになるときもあるけど、やはりそこは踏ん張って、理解はできなくても、想像をしてみたいし、それも難しかったら、同情に近い形で(エンパシー)愛してあげたいとも思うのだ。

パズル

2020-09-07 | Weblog
20代の頃、劇作で行き詰まったときに指南書としてページを繰っていた本が2冊あってそのうちの一冊は「ヒッチコック/トリュフォー」(もう一冊は「ワイルダーならどうする?」)。若きトリュフォーがベテランのヒッチコックにインタビューをしたその本は、どの行も金言に溢れているのだけど、そのインタビューの様子がドキュメンタリー映画としてあるのを最近知って、それを見た。文章からしかわかっていなかった声のトーンや表情をこうして実際に映像で目撃することは不思議な追体験だった。そして改めてトリュフォーの物怖じしない態度、それに真摯に答えるヒッチコックの懐の広さ、丁々発止の先に、年齢を超えたお互いのリスペクトが垣間見えて、清々しさを感じた。当たり前だけど、フランス語と英語で会話してたこと、そこに通訳がいたことに気づき驚いた。で、その通訳の人のキャラクターなんかも(とても愉快そうな人だった)、実は大きく影響していることも知れて良かった。
あの頃、レンタルビデオ屋(懐かしい響き!)で、ヒッチコックの映画を片っ端から借りて、全部見た(初期の短編は置いていなかったのか記憶にないけど)。好きになった監督の映画をなるべく全部見るというのは、もしくは見た経験というのは、いつまでも自分の感性に残りやすい。その中には面白いものもさしてそうでないものも混じっていて、それでも面白さというのは、実は一つ一つの作品で計られるものではなく、体系的に見えてくることだと気づく。特にヒッチコックくらい多作でかつ自我が強い作家の場合、あれとこれが混ざり合っていてひとつの実験であり、鑑賞者にとっても完成するパズルの絵のようになっていることだってある。そういう発見もまた監督至上主義的鑑賞法の醍醐味のひとつだ(俳優やプロデューサーや編集マンなんかでそれをしてももちろん別の発見はある)。
一応、単体での僕のベスト3は「ファミリープロット」と「北北西に進路をとれ」と「裏窓」。今見たらまた違うかも。

中と外

2020-09-04 | Weblog
神戸から大阪までの新快速。ボックスシート。僕の向かいには一人の女性。アイロンのあたった白いブラウスに黒のセミタイトスカート、膝の上には上着が畳んである。就活中だろうか。その女性はずーと船を漕いでる。あんまりじろじろと見てはいけないと思いつつ、つい目がいってしまう。何度も何度も頭ががくりがくりと落ちる。そのまま首がもげて地面に落ちてしまうんじゃないか。しかし限界の一歩手前で、ふと目を覚まし我にかえる。しかし睡魔には勝てない。しばらくすると再び船を漕ぎ出す。疲れているのだろう。暑さもひどいし。
こういう部防備な人、たまにいて、見てはいけない、と思うが好奇心は駆られる。あえていえば素だからだ。思うに、人は外でほとんどの場面、仮面を被っている。
その仮面がとれているところに興味がわくのだろうか。

ところが子どもは違う。うちの三歳児にはまだ外と内の違いはほとんどない。仮面を被ることはない。
たとえば歌をうたう。電車の中でもどこでも。最近は彼の中でPSYの「カンナムスタイル」が流行っているので、電車の中でよく大声で歌っている。
しかし、子どもが電車の中で歌をうたっていてもそれをとがめる人はいない。笑う人もいなければ変に思う人もいない。子どもだからだ。
では、これが何歳を過ぎれば人は変だと思うのだろう。中学生?高校生?20歳から?うーん、年齢というより、照れなく歌ってくれれば何歳でもokな気がしてくる。
そういえば時たま酔っぱらってるからか、自転車を漕ぎながら大声で歌ってるおじさんとかいるよね。
大人だってきっと外でも歌をうたいたいときはあるのだろう。歌っていいと思う。

中と外がごちゃごちゃになる世界に住んでいたい。仮面も非仮面もごちゃごちゃに。

COVER

2020-09-02 | Weblog
カバーが好きだ。
カバー音楽のこと。たとえばビートルズのカバー。井上陽水のカバー。今夜はブギーバックのカバー。WANNABEのカバー。いろんなカバーが世の中にある。ジャズやクラシックなどの多くもカバーと言えばカバーだけど、ここでは一応歌ものという括りにしておく。
今日はカバーを聴こうと思う日がある。
新しい音楽を聴くほどには集中力もなく、かといってBGMとして保守的ないつものやつをかけたいわけでもないとき。部屋の窓をあけて少しだけ風を取り込みたい、そういう気分のとき。簡単にいい気分で目を覚ましたいとき。
あるとき、名曲が誕生する。その後、別のミュージシャンがその名曲を演奏したり歌ったりする。自分の解釈で。その循環は何か素晴らしいものに思える。美の再生産、増幅、まるで螺旋構造の遺伝子がほつれ、再びからみ、新しい子孫を作るような奇跡にも思える。カバーは原曲を超えられない、という意見もあるだろう。しかし超えるとか超えられないとか、音楽に必要なのだろうか。
そんなことを思ったのも先日録画してた「ナニワサリバンショー」を見たからだ。忌野清志郎、RCの音楽を今の人たちがよみがえらせるフェス。渡辺大地さんの「ヒッピーに捧ぐ」良かった。それまで渡辺さんの歌を聴いたことなかったけど、これを契機に聞いてみよう。
そういえばTHE TIMERS の「COVERS」は、僕が最初にカバーの良さを意識したアルバムかもしれない。デイドリームビリーバー。ほろ苦い高校時代のいろいろも一緒によみがえる。