今日の社内連絡(ブログver)

sundayとかオリジナルテンポとかの作・演出家ウォーリー木下のつれづれなるままのもろもろ。

電気が走る

2011-05-31 | Weblog
マチャス、と発音的には間違ってるけどカタカナ表記しやすいのでそうする、マチャスが東京出張してる間は、5月じゃない方のメイの準備の、いろいろ。それからオリテンの会議。今年は本公演はありそうにないのだけど、それ以外でいろいろあるぜ。ていうかスロベニアもそのひとつなんですが、まだ詳しくは、まだ。あー楽しいよ。たいへんだけど、このアイデア出しまくってる時期、身体に電気が走る。英語に対しても、電気が走る。とくにヒアリング。マチャスのマシンガントークが、このあと待っている。

嵐の始まり

2011-05-30 | Weblog
僕とお兄ちゃんで関空の出国ゲートでマチィアスを待つ。はじめて会う外国人で、名前の発音もよくわからないし、ましてや顔もウェブに上がってたプロフ写真くらいしかなく、なんだか心細いまま、予定時刻を20分以上過ぎる。ひとりの男性が現れて、眼鏡にひげ、あ、きっとマチィアスだと思い、近づき、「アーユースロベニア?」と尋ねると「ノー!」と怒られ去っていった。人違いか。しかし、そんなに怒らんでも。ていうか聞き方悪かったか。その後さらに20分後、出てきた男は、僕を見つけるなり笑顔で近づいてきた。彼がマチィアスだ。僕が見つけられた。どうして僕のことわかったのだろう。たぶん、ウォーリーにそっくりだから、なんてことを吹聴されてきたのではないか。ともかく、それからお兄ちゃんの運転で大阪 、神戸の劇場周り、途中、お好み焼き、夜は焼き鳥。とにかくよく喋る男。そして歩くのが速い男。それがマチィアスだ。この日は、ビールしこたま呑んで(エノピーボプローシム、ビールをもう一杯のスロベニア語)そのままラス手前の新幹線で東京に行った。嵐のような男だ。しかしこれはまだ嵐のはじまりにしか過ぎなかった。

トマト

2011-05-28 | Weblog
月曜は打ち合わせを朝から晩まで。働いた気になる。しかし、打ち合わせだけでは何も進んでいない。絵に描いた餅、ふくれまくり。おそろしや。火曜は神戸新聞の神谷さんと三好さんと梅田にある近江の新鮮野菜や郷土料理の店で食事。近江の地酒や近江の糖度8のトマトなどを胃に流し込むと、胃袋の形がびわ湖みたいになってくる。昔付き合ってた彼女がびわ湖沿いに住んでる人魚みたいな人で、毎週新快速で送りに行って帰りは一人夜のびわ湖を見ながら帰っていったこと今思い出した。電車の中で読んでた本が分厚かったことも思い出した。そして水曜は朝からマチィアスfromスロベニアを迎えに関空。関空のことをKIXと呼んでしまうのは昔付き合ってた彼女がCAだったからで、飛行機の座席のABCDEFのことなど今思い出した。そう考えると記憶と知識の多くの部分は昔の彼女によってできてる気がするのは気のせいか。

顔の本

2011-05-27 | Weblog
顔の本ことフェイスブックに登録して2年、ようやく友達が100人超えた。しかし、「友達になる」というボタン、あれいつも緊張する。こんなことひとつで友達になれるのか。友達って何? 正直な話、100人のうち、ほとんどが友達ではない。数人に限っては会ったこともない人だ。それでいいのか、友達。それとフェイスブックの「いいね!」ボタン。あれも困る。昨日は台湾の友達(嘘、知り合い)の足を怪我してる写真が上がってたのだけど、「いいね!」を押してくださいって、押せるか!でよく見たら5人が「いいね!」と言っています。どうなっとんだ。

大学の頃だったと思うが、友達どのくらいいる?って質問されて、うーん、3人くらいかなーって答えたら、エー少なーい、ていうか私はそこに入ってんの? いや入ってないよ、と言うと、えー友達だと思ってた、友達なんじゃないのみんな、あんまりそういうこと(友達が少ないんだという類いのこと)言うの良くないと思うよーと注意されたことを思い出した。もしかしたら僕は人より友達にこだわりを持ち過ぎてるのかもしれない。もしくはシリアスになり過ぎてるのか?

友達って何ですか?

未来ちゃん

2011-05-26 | Weblog
HEPに未来ちゃんを見に行ったのはいつだったけ?未来ちゃんは過去の素晴らしさがユーモラスにそして愛情に溢れてました。未来ちゃんって名前が特に良い。それから国立国際美術館、通称トリの骨(勝手な通称)に、風穴を見に行く。風穴はそこに空いてる、っていうコンセプトで、中国の自殺の橋と等身大のPLAYとベトナムに行きたくなる街角オブジェが良かった。そしてロビーで5人コンタクトゴンゾーの殴り合い。面白い。笑えるの、いい。笑えなくてもいいんだけど、笑えるのは、笑えないのより、ちょっとだけリーチが長い。リーチの長さは、ラウンドが進めば進むほど効いてくる。PLAYの前でぶーこと出会い、井上さんと3人で自転車ランチ。うつぼ公園のインドカフェ屋で、ぶーこのインド話というか、自由な人生の素晴らしさを聴いて、未来について、インドについて、考えたり考えなかったり。その日の夜はいろいろあって、最後はバーだった。バーのマスターはかっこいい帽子をかぶっていた。スコッチなんか飲んだりして。

four season

2011-05-24 | Weblog
ミュージカルの人と豚の真珠で豚しゃぶ食べ放題。僕の質問に丁寧に答えてくれる。オレ、居て捨てて語れ。知られざる四季の世界。元四季なんてなんぼでもいるって人は言うけど、こうして間近で話をするのと、聞くのとでは違う。その人の出てるミュージカル「MITSUKO」愛は国境を越えて、を梅芸に見に行く。ハインリッヒ・クーデンホーフ光子という長い名前の女性の知られざる一生を安蘭けいが歌い上げる。これぞミュージカルだった。
若からの電話で真夜中の電気蕎麦。ノイズというかノイズ以下の潜水艦とかドイツの拷問部屋のような効果音が流れる鉄の壁に囲まれた部屋で蕎麦をすする。これもひとつのミュージカルか。

バーバーオカダ

2011-05-22 | Weblog
本日はバーバーオカダの日。ポリ袋を床に敷き、身体にも巻いて(穴をあけ首を通るようにして前掛けと、ずどんと穴をあけスカートにする)、オカダ店長が自ら僕の髪の毛にハサミを入れる。天気はよく、窓からは風も吹き込み、ラジオから流れる洋楽が、かちゃかちゃという髪の毛の切れる音とともに耳に届く。文房具のクリップで落ちる髪を押さえ、ハサミもそのへんのペーパーシーザーだ。まるでベトナムの田舎の散髪屋のようだ。小1時間ほどでフィニッシュ。できあがりは毎回感動する。オカヤンはデザイナーやめて本当に散髪屋になったらいいのに。夜は窪木くんと前田さんと打ち合わせ。はさみで切るようにちゃちゃっと2時間ほどで終わらせ、最近よく見る海の家風の居酒屋へ。威勢のいい店員、入る時は「いらっしゃいませー!」「おつかれさまでーす」と元気なのに、帰る時はほぼ無言という元気のなさに驚く。

暗黙の紅茶

2011-05-21 | Weblog
お昼過ぎ、ひさしぶりに3時間くらいゆっくりと石原さんとお話した。この間の写真家伊東くんもそうだけど、10年以上前に知り合って、それからお互い歩を止めないでここまでやってきたという友人・先輩・後輩との間には、まだまだ歩いていけるよね、という暗黙の了解と、いろいろあったんだろうねーという暗黙の推測が、午後の紅茶のように湯気を立ててそこに置いてある。そういう昼下がりの暗黙の紅茶は、うとうとしかけた心を覚ます。
夜は野菜中心の料理。体重計ダイエットの面白さにはまってきた。何を食べたら太り、なにを食べたら痩せるのか、少しだけ、わかるようになってきた。寝る4時間前に食べないの意味も。そろそろ運動も始めんとなー。フルマラソンまで半年。死なないようにしないとね。

IS IT SERIOUS?

2011-05-20 | Weblog
時間をかけてしか理解できないことってあって、たとえば、この地震のあとの、少なくない意見のなかで「この地震以降世界は変わる」「もうもとには戻らない」というような、ポジティブも含めた意見としてはすごく真っ当に思えるし、もしくは感慨として、実感として、そういうサムシングがあるのはわかるのだけど、それに僕はずっと違和感があって、そしてその違和感を封じ込めるくらいのつよい善意的な圧力もずっとあるのだけど。たとえば、さっきのようなことは、主に東京にいる、意見を言える立場の人が言ってる。僕もあのとき東京にいたから、わかるのだけど、それはたぶん何も知らない人にとってはあの揺れ、あのパニックはショックだと思う。別に僕が知ってるというわけではなく、ただ、そういう何万人もの人がいっぺんに死んでしまうことは、もう、何度も見てきて、何度も現実感を失ってきた。いまさら、地面が固いことなんて信じてない。でも、やっぱり多くの東京人はそれを信じてたんだな、と、もしくは意見を言える立場にいる人たちは。

阪神大震災のときに、おそらく多くの人は、ここがもう1秒前とは違う別の世界ってことは自覚した。それを受け入れるか受け入れないかで言ったら、当事者は早くに受け入れるものなのだ。

もう一つの世界に入ってしまった、そこは今まで住んでた世界とは理論も道徳も善悪も違う。まるでSFだ。剣を持ち立ち上がり元の世界に戻るのか、ここの理屈を受け入れ生きるのか。二者択一。

で、時間をかけてしか理解できない、という話に戻るのだけど、僕は95年以降、あちらの世界に住んでるのだ。そこで仕事を見つけ、恋をし、子供をもうけ、いつか死ぬ、そういう選択をした。もうあっちの世界には戻らない覚悟なんだなーと。だから、いま、「この地震以降世界は変わる」と言ってる人を見て、違和感を感じる、つまり、もう僕たちはとっくに違う世界にきてて、それからどういう選択をしたかを問われてるのに、と思ってしまうのだ。

あの、厳しい言い方すれば、いま、わーわー怯えてる人たち、騒いでる人たち、それをひとりただ声高に叫んでる人たち、興奮してる人たち、みんな死んじゃうよって思う。パニックで崖につっこむレミングみたいに。
ねえ、いったいいくつの人間が死ねば、理解できるんですか?そこに自問も含みつつ。

濃い

2011-05-19 | Weblog
日曜日はコモンカフェに石原さんの二人芝居。今週は観劇多いな。とても濃厚な時間。繰り返し思い出しそうな気がする。ラストシーンは記憶にぴたっと張り付いた。しかし前列2列目、役者と目が合いそうでドキドキするね。たまにこっちが緊張する。それから仕事。風邪は平行線、夜は井上さんと打ち合わせ。近くの入ったことない鶏屋に入り、僕らのテーブルを挟んで、二組のカップルが会話をするという、なぜ? 僕らに全部話す内容が届く仕組み。どうしてこの2組は離れて座ってたのだろう。翌日はオリテンの濃いミーティング。濃すぎる。そしてわくわくする。まだ、何も達成してないし、まだまだすることはあるんだなー。

ゴマの葉

2011-05-17 | Weblog
3日家に帰ってなく、風呂は入ったけど、服は変えれてない、多分臭い。せめてと、コンビニで靴下買い、売込隊ビーム観劇。隣の席によりによって先輩の女優さん、臭いと思われないように少し距離とる。しかし距離とるとなんだかいやがってるような風にも見えると思い、近づいたり離れたり。ビーム、最後の台詞、最後の暗転、意識が遠のくような終わり方。この間見た夢のよう。この間ていつのことだろう。夜、事務所でサムギョプサル。韓国から専用鉄板を購入し、その辺のサムギョプサル屋よりもおいしいものを作る。ゴマの葉とキムチとナムルはお手製、マッコリも輸入もの。韓国ブームが続いてる。

お化け

2011-05-15 | Weblog
お化けは夜にだけいるわけではない。昼間にだって活動してるはずだ。でもほとんど夜にしか目撃されないのは、人間側の感知能力の問題なのか、もしくは闇があぶり出す仕組みになってるか。星とか月が夜空にだけくっきりと浮かぶのも同じ。どちらにしても、夜の面白さ、闇の特別さ、それに伴う感覚の驚異などは、お化けに関係なく、ある。昔よく見たお化けだけど最近見ない。感受性とも何か関係あるのか。
昼間のさくら夙川で打ち合わせ。そのあと神戸へ。遊気舍、観劇。羽曳野の伊藤の「お前たち人間はきっかけがないと知ろうとしないのか」という台詞は、月の人からの代弁。本当にそうなんだよな。きっかけがないと知ろうとしない、きっかけがないと始めない。きっかけがないと問題意識すらない。気づけばそのときは訪れて、なにがどうなろうとあわてふためく。体調は一進一退。健康もまたしかり。

ゾンビ

2011-05-14 | Weblog
夢の中でゾンビに襲われた。死ぬ直前で目が覚めたが、ほとんど死んでた。夢の中とはいえ、夢の中とは思ってないので、死ぬというのはショックなことである。僕は人生で3度ほど死ぬ直前まで、現実で、行ったことあるので、特に1回は、本当に1cm前に死があったので、死についてそれなりに見識があると思ってたのだが、やはりまだまだで、ゾンビがとうとう僕を殺そうとした瞬間、恐怖と哀しみでやりきれなくなった。死ぬとはこんなにショックなことなんだ、というのは目が覚めてからの再認識である。
嫌な汗をシャワーで落とし、汗をかいたおかげで少し風邪が治った、それからMills Brothersをかけて呪いを払う。平林にずいぶん昔に教えてもらったアメリカのコーラスグループだ。雲から太陽が射すような気持ち。ゾンビ払い。
平林と言えば、なぜか平林バブルと陰で言われるほどに、出演が重なってる。彼のなにかが今必要とされてるのかもしれない。そうだとしたらうれしいね。うれしいと言えば西村さんのブログを久しぶりに読んだら、新天地で忙しそうにされてるようで、そういうインターネット的遠くの空がうれしかった。

たけのこ

2011-05-13 | Weblog
特別なウィークも終わって、雨のウィークに。大家さんにもらったタケノコ一株を、野菜と一緒にご飯で炊いて、残りは生ワカメと一緒に煮て、事務所のみんなで食べる。どうやら風邪を引いたようだ。雨で濡れたせいかもしれない。油断のせいかもしれない。喉が痛く、頭もボーとし、カバンを忘れて家を出たりして、おそらくこういう日はろくなことないだろうと思ったら実際にろくなことなく、大きなトラブルが起こり、そのせいでよけい気が滅入る。良いイメージを持つことの重要性は知ってるが、悪いイメージを楽しむというのも、ひとつの過ごし方である。
ドラマシティで「千年女優」観劇。映画は「ミックマック」見る。本は「忍びの国」を読み始める。

総合的世界

2011-05-12 | Weblog
ゴールデンウィークの最後の日曜日、僕はひとりで川辺に行きました。図書館から借りてきた本読む。3代に渡るシロクマの物語で、彼女らは小説を書いたり、人に恋したりするのだけど、ページをめくるごとに飛行機が飛んできたり、川面を魚が跳ねたりするので、いっこうに進まない。空では燕がきーきーと猿みたいに鳴いて、阪急電車がガタンゴトンと空気をふるわせ往来する。小学校中学年の子供たちは水遊びをしていて、親は遠くでそれを見ているともなく見ている。僕から少し離れたところのコンクリートのふちに座ってるカップルは甘えあっている。彼らは2時間くらい囁きあったり、肌と肌を触れあわせて、気づくといなくなっていた。カップルのいた場所に次は自転車で30代の男性がやってきて、歌の練習を大声でしはじめる。こういうのを総合的世界と呼ぶ。陽はその間にもゆっくりと沈んでいき、ちょうど暗くなったところで熊の年代記もいったん完結する。
日常なんていう簡単な言葉では済まない奥行きを久しぶりに体験する。この空はあの空に繋がっている。ただ悩んでも仕方ない。どうやって忘れないようにするか、とても難しい。僕は自分が埋もれたことを忘れてない。それもいつか忘れてしまうのだろうか。僕は自分が演劇を作る人間で良かった、と思ったのはあの地震以降(阪神のことです)だったような気がする。なぜなら、少なくとも僕には語れる何かがあって、語れる場所があったからだ。秋に向けて、ゆっくり語る準備に入る。冬眠の熊みたいに。