今日の社内連絡(ブログver)

sundayとかオリジナルテンポとかの作・演出家ウォーリー木下のつれづれなるままのもろもろ。

ブダペスト編その1

2013-09-15 | Weblog
目覚めると絢爛な中世風の建築物が並ぶ中に、車の排気ガスと騒音が混じった、いわゆるヨーロッパの都会が現れた。
コシチェと比べればだいぶ栄えてるが、イタリアの観光都市のような「イケイケ感」はない。おしとやかというか、言葉を選ばなければ、どことなく暗い表情がする(これは僕の私感です)。僕自身はブダペストは2度目なのだけど、いくつかの印象は変わったけども、その「どことなく陰鬱な気持ちを抱えたままやっている」感じは、変わらない印象として残った。変わったことは、人と接してわかったことによる。まず、道に迷ったときの人の親切さよ。そして人の輪のつながりを大事にするオープンさ。友達の友達はみな友達。それと僕が出会った人たちは芸術関係だったので、アートへの真摯な取り組みは印象に残った。
これらを総合的に鑑みて、今の所の僕のブダペストは、ヨーロッパの名古屋なんじゃないだろうか。名古屋に関して僕の印象は「どことなく暗い」「でも人はわざわざ店を出て道順を説明してくれる」「そしてシャイ」という、まさにブダペストではないか。まあそんなこと言われてもブダペストの人も名古屋の人も困るだろうけど。

まず車はホステルへ向かう。しかし降ろされたホステルはどうも違う。写真はあってるがホテルマンと話をしてもかみあわない。どうやら直前で別のアコモに変わったようだ。急遽歩いて移動。その前に僕と武吉で劇場の位置を確認しに行く。地図を片手に初めての場所を歩く。15分の場所を1時間かけて見つける。みんなのところに戻り、ようやくホステルに移動。荷物を運びながらの移動はしんどい。石畳の上をスーツケースを転がしてるとヨーロッパを感じるというのも因果な商売だ。ブダペストのホステルは、現在建築中、いわゆるunder construction。僕らが初めての客らしい。建築中なのに客を取ってしまうのもどうなのか、と思うが、ヒッピーたちがヒッピーたちのための巣窟を作ってるようでとても気に入った。ここに架空のビーチを作ろうとしているのかもしれない(タイランド!ディカプリオ!)。そこでは夜な夜なドレッドヘアーの人たちが違法な葉っぱを吸いながらレゲエのカラオケを歌っている。レゲエのカラオケってあるんだ。

今回のブダペストは、真ん中ではない場所をいろいろ教えてもらった感じだ。劇場というか公演をしたアートスペースのMüsziにしてもビーチのホステルにしてもヒッピーのたまり場的な様相だった。混沌とした人たちがいて、混沌とした音楽が流れ、アルコールと煙草が混じった世界があった。
僕が20代の若者ならすぐさま住んでたと思う。そのくらい粗野な魅力があふれていた。

宿について落ち着いたあとは、劇場に再び。今回のハンガリー公演を実現してくれたオルガさんと、このMüsziのプロデューサーのアンドレアさんと打ち合わせ。まずはスペース全体を案内してくれる。ちょうどこの日は「こどもの日」で、子供たちがたくさんいて、段ボールでロボットを作ってたり(今回の旅は段ボールがテーマ。スロバキアではフランスの段ボールアートの人とも出会った)、パックマンなどの懐かしいゲームが置いてあったり、いろいろな遊びがやってる。そこはワンフロアまるまるが迷路のように入り組んでいて(なんせまだリフォーム途中)、突然演劇のリハーサルをしていたり、園芸場が出てきたり、今流行のコワーキングスペースもあったりと、いるだけでわくわくするような場所。もちろんカフェもあって、卓球台なんかもある。

僕たちの公演場所もその一角のなんていうか、フリースペース、がらんとして空間があって「さあお好きなようにどうぞ」と言う感じ。分かる人には分かる言い方をすれば扇町ミュージアムスクエアみたいな形状です。
しばらくみんなでこうじゃないああじゃないなどと話して、そういう風にホームメイドな作り方ができるのも「Shut up,Play!!」の魅力、最終的に舞台と客席の取り方だけ決める。(そういえば扇町ミュージアムスクエアでオリテンは誕生したんだけど、そのときの舞台の取り方とそっくりになりました。原点回帰な公演になりそう!)

そのあとは取材があって、それも終わればしばらく自由行動。夜の9時に再びMüsziに。そこでスイスからきた実験音楽の二人組がライブをするというので見にいく。開演前にソファで音響の竹下君とビールを飲んでたら、ドレッドの男性が喋りかけてきたので会話をしていると、その人は今からあるライブの出演者で、ついこの間も大阪のなんとかっていうライブハウス(失念)でもライブをしてきたらしい。竹下君は一時期いわゆる「ノイズミュージック」にはまってた時期があり、わりと詳しいことを言ってた。
ライブ自体、とても興味深い、ある種、ばかばかしさと深遠さが混じり合ったパフォーマンスで、現実と夢の中を行ったり来たりする40分間だった。楽器もいわゆる既成のものはほとんど使っておらず、台所にあるものだけでやってたり、ドラムのフロアの下にスピーカーを仕込んで膜を振動させて持続音を作ったり、まあなんていうか、愉快で心地よい実験音楽。オリテンと共通するところもあり。

ライブ後は、テクニカルのチーフと僕と舞台監督の武吉と音響竹下とでもろもろ確認、コシチェの反省もいかして、実際にものを見せてもらったりする。夜中までかかり、晩飯を食べてないことに気づき、レストランを探すも見つからず、最終的にヨーロッパではどこでも見かけるケバブの店へ。
プライスダウンしてたチキンとライスと野菜の盛り合わせ。大盛りで750ホリント。およそ250円。ホテルでユースト準備をしてくれてたきよとお兄ちゃんにお土産にギロスピタを2つテイクアウト。その日は帰ってバタン。シビウと違ってブダペストはメンバーと相部屋。誰とでもすぐに寝れる(やらしい意味ではなく)。
翌日は朝起きて車でスロベニアのリュビュアナへ。昨年の共同製作「オーディション・フォー・ライフ」のメンバーに会いに!第2の故郷と呼んでもいい。(この話は今回のツアーとは関係ないと言えば関係ないので割愛します)


コシチェその2(不定期連載)

2013-09-02 | Weblog
結局、2日目も3日目も4日目も雨は降り続いた。時折、晴れ間が覗き、夏のような暑さになったかと思うと、急に山風が吹いて雪でも降ってくるんじゃないだろうかと思うくらい冷え込む時もある。雨はしとしと、時にスコール、雲の流れを見ながら、太陽が顔を出した隙を見てリハーサルをする。野外の大変なところは、ひとえに天候との帳尻あわせだ。
朝昼晩と決まったレストランがある。フェスティバルに参加してる人たちはそこで食べる。ここがなかなかクオリティが高く、特に毎回スープには驚かされた。スープのあとにもう一皿でる。それらもスロバキア料理を、おそらく、外人でも食べやすいように調理されている。ジャガイモが美味しい。
というわけでコシチェは食事と睡眠に関しては充実した日々だった。そのおかげで風邪はゆっくりと快方に向かったかというと、そういうわけではもなく、こじれたまま日は進んだ。雨に打たれ、美味しいものを食べ、十分寝る。この繰り返し。何かできの良い家畜を育てる秘訣のようにも聞こえる。
そういえば、タランティーノが来たというカフェに連れて行かれた。そこにはタランティーノ映画のポスターが所狭しと飾られていた。いま思えばタランティーノがきたのか、ただ単にタランティーノ好きのマスターなのかわからない。そういう小さいけれど、確実な間違いというのが英語会話では存在する。今の僕の英語はそういうレベルだ。タランティーノが来たのか来てないのか。どっちでもいいのだけど。

本番前夜は、EUジャパンフェスタ主催の食事会に出席。僕の前に座ったのは目の青い盆栽夫婦で、この期間に盆栽展も開かれていた、僕はスロバキア人に英語で盆栽の魅力と世界の盆栽事情について教えてもらうことになる。隣はベルギーのメディアアート系のカンパニーの人。ブランカとも再会。ブランカとクリスチャンの両名と大阪で出会ったのが昨年の6月。スロベニアの共同製作から戻ってきてすぐに出会ったので、スロベニアとスロバキアをよく混同していた。
そもそもコシチェという街も知らなかった。知ってました?僕は知らなかった。到着するまで、コシチェというのが実体を伴ってはいなかった。架空の街。地図の上の知らないどこか。
しかし実際にコシチェに着いてそこで息を吸って買い物をして、人と言葉を交わすと、コシチェが実体をもって眼前にせまってくる。ぼんやりしていた靄が晴れ、そこに活気あふれる街が現れた。コシチェはコシチェとして、それこそローマ時代からそこにあった。いくつかの戦争の舞台にもなった。実体を伴って人々が生活を繰り返している街なのだ。コシチェと呟いてみると、それは来る前と後では全然ニュアンスが僕の中で変わる。
街の名前というのはつまりそういう風にできている。僕は小さい頃から地図を見るのが好きだった。意味もなく世界地図を眺め、適当に指をあてた場所の地名をぶつぶつと声に出して、その呪文のような名前(たとえばヴォルゴレチェンスクだとか、アディスアディバとか)に答えのない軽い憧憬を覚えたものだった。いったいそこには何があるのだろう?どんな人々が暮らしてるのだろう?と。
僕がはじめて海外に行ったのは19歳の時で、ひとりっきりだった。地図を見ながら適当に指をさしていた街に「実際に」行ってみて、そのときに自分の中に芽生えたことは「実際に行くことではじめて実体になる」という至極当たり前のことだった。物語の、ファンタジーといっても良い、中の世界が実はそこにあった。それも脈々と。そのことは旅にでる目的の1つだと思う。

コシチェのオリジナルテンポに話を戻そう。今回はひとり旅ではない。公演をしにきている。心配なのは雨だ。
本番当日は朝から快晴である。でも油断はできない。何度も繰り返し、この風景は見ている。突然変わるのだ。たとえ空が晴れていても雨が降ってくるときもある。一体どういう仕組みなんだ? 雨は定期的に運ばれて僕の上に落とされる。
日本では考えられないことだけど、その日の朝まで、もしも雨天時にどうするか実行委員側では決定されていなかった。これは前回の韓国の時もそうだった。クロアチアでも。「明日は降らないよ」と言う。根拠はないことはないのだろうけど、どこまで信じていいのかはわからない。リスクヘッジというものに対して、ゆるいのか?それとも日本システムは発達しすぎてるのかもしれない。ここでその長短を言ってても仕方ない。
ともかく、雨の時は公演中止にするのか?しないのか?代替案は?いくつか検討された。別の屋内候補地も見に行った。
本番の8時間前。判断しないといけない。僕が判断する。ここでやりましょう。この場所のために今まで内容を考えて作ってきたんだし、それが屋内になるのならやらないほうがましだ。
あまり説得力はないけど、後ろ押しにはなったようで、急速に本番準備が進む。
空は晴れている。大きな雲が遠くの方に浮かんでる。気にしないようにする。

本番2時間前に突然の大雨。公演中止がみんなの頭によぎる。

結果から言えば、本番5分前に雨は止んで、観客が並んでる前で準備をして、20分押しで開演。内容は、うーん、もちろん大変だったけど、奇跡のような盛り上がり方だった。僕はコシチェでの本番がとても好きだし、忘れられないし、なんていうか、僕にとっての演劇というものの答えの1つだし、そもそもこんな活動をしている理由はこういうことだ。つまり「ライブがしたいのだ」。失敗も成功も呑み込んで進むような「ライブがしたい」のだ。

公演も終わり、ホテルに戻り、武吉と竹下と一階のバーで飲もうとするがもう閉まっていた。仕方ないのでソファに座って少しだけ喋る。エアーのグラスで乾杯。
翌日の朝は10時に車がやってくる。やはり雨が降っている。ブダペストに向かう道のりも行きと一緒で延々とミニマムなテクノが流れていた。単調な風景を相まって心地よい。そう言われればヨーロッパのハイウェイというのはBPM90の打ち込み音楽に似ているかもしれない。少し眠る。

(ブダペスト編へ続く)