今日の社内連絡(ブログver)

sundayとかオリジナルテンポとかの作・演出家ウォーリー木下のつれづれなるままのもろもろ。

遠くを見るか、近くを見るか、どっちが多いですか?

2016-11-27 | Weblog
随分昔、「645」というお芝居の稽古中に劇団員の東くんの馬跳びをする動きが気に入らず、調子こいて見本を見せたら思いきっり足首をぐねった。それ以来、年に数回、右足をぐねる。いわゆる「くせ」になっている。だいたい調子に乗ったときに「それ(捻挫)」は起こる。神様がブレーキをかけているのだと思って、足首をぐねったときは、「調子に乗ってすいません」と心の中で思うようにしている。もしくは何かの危険信号だと思うようにする。ただの雨の日というのもあるけど。
身体のサイン、で言えば、最近夜になると目がかすむ、という完全に老化への道が開かれはじめていて、大阪にいたときにいつも通っている眼鏡さんに行き、新調すると同時にこれって老眼ですか?と聞いてきた。詳しく調べてもらって、「老眼ではないがこれから先あやうい」と診断。もともと近視の乱視のW受賞者だったので、老眼になっていても気づくのが遅いらしい。「遠くを見るか、近くを見るか、どっちが多いですか?」と聞かれて、そういえばいろんな意味で近くしか見てないなーと反省、意味もなく「遠くを見ます」と宣言して都島の眼鏡屋をあとにした。

もうひとつ別の世界

2016-11-25 | Weblog
「ハイキュー!!」のツアーも佳境、大阪公演初日が昨日あけて、今週末まで、そのあとは東京凱旋。千秋楽は全国47都道府県でライブビューイング。何万人て人に見てもらえるのは嬉しい。
今年は明治座とか梅芸とか、1年前の自分では想像もしていなかった小屋で演出をさせてもらえる。まったく不思議なものだ。
で、頭をよぎるのが2つ。ひとつは、これは決して僕が売れたわけではないということ。そういう作品に巡り合わせてもらっているだけで、かなり一過性のものだと考えた方がよい。
もうひとつは、劇場の大きさや格式で演劇の内容は変わらないということ。表面的には随分と違うことになっても、根本的なメッセージ、偉そうに言えば「演劇たるもの」は何も変わらない。特別だけど特別じゃない物語と、登場人物がいて、彼らが息づいていること、演劇という表現媒体の最大のメリットは「生きている人が目の前で別の生きている世界を作り出すこと」だと思っている。難しい言い方で申し訳ないが、そういうことだ。とにかくそこには「もうひとつ別の世界がある」。観客はそれを「存在している」と思い込む。思い込むためには、俳優が全力で自分と共演者を騙さないといけない。その作業には観客の脳みそがあってのことだ。観客の脳みそを通過して、それは「存在する」。そういう今生きている観客と今生きている俳優の共同作業こそが演劇だと言ってもいいと思う。主演の須賀健太君がカーテンコールで言う「ハイキューの世界を生きれるのはみなさんが劇場に足を運んでくれるからです」という言葉はまさにそのことを示唆しているのだと思っている。お金を払ってくれることも嬉しいけど(興業としてはそれがないと立ちゆかない)、観客のみんなが能みそをフル稼働して想像してくれることで、僕らは演劇を演劇たらしめていけてるのだ。

1020

2016-11-23 | Weblog
sundayの10周年イベントとダンスボックスの20周年イベントが土日連続で。前者ではオリジナルの短編「モノローグダイアローグ」をその場で書いてみんなで読んだ。また2時間以上も過去の作品の思い出トークに花を咲かせた。後者は6時間半越えの夏フェスのような怒濤のダンスダンスダンスで、関西の主要なコンテ系のダンサーはだいたい集まっていたんじゃないだろうか。20年という歳月の重みと、db独自の”軽み”が、2種類の密度の違う液体を混ぜたドレッシングみたいに反発と調和を繰り返しながら美しい模様を描いていた。
盆と正月、という言い回しがあるけど、まさにそんな二日間だった。
たまにしっかりと過去を見つめるのは良いことだ。ひとりで見つめるのも良いし、こうしてみんなでわいわい見つめるのも良い。前だけ向いて走っていると傲慢な人間になってしまう。見たいものしか見なくなってしまう。でも過去には見たくないものも汚れたものも混じっている。それをなしにはできないんだぜ。
ああしかしツアーが長いと、身体がだめになっていく。物理的には、前だけ向いて走りたい。

タッチ

2016-11-16 | Weblog
新幹線の中で何をするか?だいたい音楽を聴いて本を読んで外の景色を眺め、そして眠る。この繰り返し。一時期は仕事をしようとパソコンを開いていたのだけど、なんだか貧乏性のような気がしてきて最近はやめている。もうひとつの理由はどうやら僕はキーボードのたたき方(タッチ)がうるさいらしいのだ。うるさいらしいというのは自分では正直気づかないのだけど、何度も人に注意されたから相当うるさいのだろう。”親のかたき”のようにMacBookをたたいている。気が散ってしょうがない。一時期、デザイナーの事務所、矢印の名前で机を借りていたときも、ほんとウォーリーさんもう少し優しくたたいてください、それとも何かあったんですか?と何度も聞かれた。
不器用。この一言につきるのだけど、僕は指先に関して、不機嫌な動きをすることが多い。ジャガイモの皮むきとか、爪切りとか、ボンドで何かをつけるとか、それら一帯全部苦手だ。
なのに無駄に指が長く、小さい頃は「ピアニストになれるね」などとおだてられ、その気になってピアノを練習した時期もあるのだけど、むべなるかな、黒鍵と白鍵を暴力的に殴りつけるだけで音というものが生まれた試しは一度もなかった。いつかリベンジしてみたいのだけど。
だからか、手先が器用な人を見ると、それだけ尊敬してしまう。針の穴に糸を見事に通す瞬間なんてブラボーと声があがる。生まれ変わるなら手先が器用な人間に生まれ変わりたい。ジャングルのテナガザルとかでもいいけど。

どのルートで

2016-11-11 | Weblog
東京でタクシーに乗ると必ず「どのルートで行かれますか?」と尋ねられる。
おそらく、東京はいくつもの道があるので、もし少しでも遠回りになってしまって、あとで文句を言われたらかなわん、という保険として言ってるのだろうが、こちとら東京の道に詳しくないし、道路事情にだって疎いのだから、プロであるあなたの最良の裁量に任せたいと僕は思うのだけど。
でも「道わかんないんです」等と言おうものなら、「こいつ田舎もんだな。よし遠回りしてやろう」という運転手がいるのかもしれないなーという考えが一瞬頭をよぎり、知ったかぶりをしてしまう。
結果「いまだと、あれですよね、あの、ほら、あのルートが、ね」などとごにょごにょ言うことになる。ああ、面倒だ。
でもやっぱり、おかしいと思う。僕が観客に「次の芝居はどんな演出がいいですかね?」と聞くようなもので。そんな馬鹿なことないでしょ。
一方で、お客さんが望むことを一生懸命調べて、それを創り上げようとする作り手(?)もいなくもないわけで。それがプロフェッショナルだ、みたいな風潮もあったりして。なんだかおかしな時代だなと思う。

まとまりのない雑文

2016-11-10 | Weblog
またまた(何度となく)放置していたブログを開いてみたらカビが生えていたので、外の風にあてるためにもこうして文章を書いてみる。今月は移動が多いのもあるし、山と山の間の避暑地的時期なので、とりとめもない思考をつらつらとタイピングしてみるのも悪くない。というわけでいつまで続くかわからないけど、ブログを再開してみる。なにもない文章なのでお目汚しだと思っていただければ。

さてこうして改まって何かを書こうと思うけど、別になにも浮かばない。浮かばないので、アメリカ大統領選挙のことでも書いてみる。が、正直、ほとんど興味はない。彼の国のトップが女性になろうが差別主義者になろうが、僕は僕の人生を粛々と執行していくしかなく、そのことで一喜一憂していては身体が持たない。そう言えば大阪に住んでいた頃(とはいっても今も大阪には頻繁にいるけども、大阪に住民票があった頃)維新の人たちが、特にあの悪名高い橋下さんが知事になったころ、僕らの周りの人たちはみな葬式のような顔をしていた。何人かの利益誘導を計る人たち以外(つまりそこには演劇人はひとりもいない)、橋下さんが知事になったら「大阪は終わる」と言っていた。引っ越す、と言ってた人たちもたくさんいた。
しかし実際に引っ越した人は少なくとも僕の周りにはいなかったし、大阪は当たり前だけど「終わってはいない」。橋下さんはどっかに去っていったが、去り際には、あのヒステリック気味に騒いでた人たちも、「少し言い過ぎたかな」などと少し反省していたりしてた。
大阪とアメリカでは規模が違うと言うかもしれないが、なにか共通することはあるような気がしている。
たとえばよっぽどの経済的安定期以外(そんな時代、バブル以外知らないけど)政治家に大衆が求めるものは「マッチョイズム」なんだと思う。良く言えば「力強いリーダー」。悪く言えば「暴力的な人」だ。マッチョイズムというと、男性の特権に思えるかもしれないけど、悲しいかな、今の時代、社会にコミットしようとすれば多くの女性にだってそれは求められる。ヒラリーさんだって例外ではない。でそのときに、より強いマッチョイズムを鼓舞する人に我々は魅了されるのだと思う。アニマルプラネットでも、そういうの見たことある。

僕にとって、10代の頃、アメリカがすべてだった。アメリカからやってくるものが輝いてた。アメリカの音楽、映画、小説、アート(特にニューヨークで生まれるもの)それらを手にすれば自分も輝いて見えると錯覚してた。それはあの星条旗のデザインのようなポップさがあった。軽さと刷新があった。newest is best。それはマッチョイズムとは対極にあるようだ。
僕の世代はベトナム戦争も安保闘争も全部終わって、そこには灰のようなものが積もっていた。それを払って出てきたのはアメリカンドリームという概念だった(それはおそらくメディアと代理店の仕業だけど)。お金があれば手に入る物が続々と輸入されてきた(精神的・物理的両方で)。でそれは完全にコンプレックスになった。10代のその体験は、とても大きくて、払拭するのに20年近くかかった。アメリカのカルチャーは今も好きだけど。

10代の最後の年にひとりでアメリカに実際に行ったこと、それから20年かけて世界中のいろんな国にも実際に行ったこと、そうしてようやくコンプレックスは払拭できた(それもまた錯覚かもしれないけど)。
とはいえ、マッチョイズムに対しては、昔から直観的に「鳥肌が立つ」。おそらく自分の中のアメリカ賛美と、おじいちゃんから聞かされた太平洋戦争の話、が、引き裂かれた自我のように存在するからか。もしくは昔いじめられてた経験があるからか。もしくは演劇界にはびこる男性社会やマッチョな演出家たちをイヤってほど見てきたからか。

今回の選挙の結果をどう判断していいのかはわからないけど、闇雲に葬式みたいな顔はしないでおこうと思う。思うのだけど、ああいう為政者は、そうやって人を暗い気持ちにさせることで人心を掌握する方法を使っているんじゃないかとすら思うのだ。ヒステリックになればなるほど、泥沼に足を取られていっている可能性だってある。結果を結果として、自分の身近な世界がそういう「マッチョイズム」で覆われないようにだけは気をつけようと思う。

(ここだけの話、演劇界にはいまだにそういうの多いんだよなー)