今日の社内連絡(ブログver)

sundayとかオリジナルテンポとかの作・演出家ウォーリー木下のつれづれなるままのもろもろ。

煙の夢

2015-05-24 | Weblog
禁煙してからはじめてタバコの夢を見た。夢の中で僕はすっかりタバコを吸っていた。というか、実はやめていたのは夢だったのだ。僕はタバコをやめれたと思っていたが、それは全部嘘で、本当は全然やめれてなかった。びっくりした。そうか、でもそうだよな。あんなに吸っていたんだもん、やめたくてもやめれなかったものをそう簡単にはやめられないよ。と妙に納得した。そして目が覚めた。あ。どっちだ?どっちが夢なんだ?まさに胡蝶の夢。
今までに3回ほど禁煙をしている。1年以上やめたこともあるから、今回が珍しい訳でもない。でもいつもと違うのは「こっちの方がいい」と思ってることだ。今までの禁煙は、「タバコを吸ってる自分」と「タバコを吸っていない自分」を天秤にかけたときにわりと釣り合ってた。しかし今回に限ってはタバコを吸ってなくてよかった、と日々思っている。いや、思うも何も、タバコを吸うことに何のメリットを感じていないし、タバコを吸わないことが普通になっている。これはまあ奇跡なのかもしれない。強い決意とかはない。もともとの世界に戻っただけだ。こっちの世界(タバコない世界)は案外ストレスが少なくて良いですよ。

ノイズ、シンポジウム、カオス

2015-05-23 | Weblog
ようやく大阪に戻れた。ほぼ4ヶ月間帰れてなかったお家は何事も無かったようにそこにあってホッとしたけど。まずはオペラのオーディションからはじまり、海の見える劇場でみんなの歌声を聴く。前回の「愛の妙薬」はオーケストラも映像効果もできる限りいれたおおぶりな演出だったけど、今回はピアノ一本で歌をしっかり聴かせるものをやる。なんで僕がオペラをするのか?それはひとえに興味があるからで、まだ入り口にも立ってないと思うけど、その深淵な世界に足を踏み入れたい。見に行くだけでもいいけど、せっかくチャンスなんだから演出した方が早い。この間、ネットのテレビで「はじめてのノイズ」という番組を見た。吉本の小藪さんが案内人で、非常階段と大友良英さんがゲスト。こってり1時間、ノイズだけを特集していた。一応関西に住んでいたので、それなりに知っているつもりだったけど、あの当時、石を投げればノイズの人に当たるくらい僕の周りにはノイズ系バンドの人がいた(特に京都)彼らはお風呂の中で録音をして感電したり、ガラスを食べたりしていた。やはりノイズの世界も、オペラ同様、とても深い。JOJOさんも大友さんも、聴いていればいつか「聴き分けられるようになる」と言ってた。そうなんだよね。違いがわかるようになるにはとにかく入り込まないとね。しかし面白い番組だったなー。ノイズ熱があがる。
で翌日は吹田で「関西だから面白い」というテーマでシンポジウム@メイシアター。開館30周年記念だそうで。オペラ俳優の清原邦仁さんと狂言師の茂山童司さんとアーツカウンシルの佐藤千晴さんと僕の4人でトーク。関西だから面白い、なんてことはあるのだろうか?ないことはない。けどそれを声高に言うことは野暮ったい気がする。関西という場所に括って考えずに「面白いこと」を作らないといけない。一方で関西、僕の場合は大阪と神戸のふたつはお世話になったというふるさと的な思いと、関わってしまった以上ちゃんとしたい、恩返しをしたいという気持ちがある。だから大阪を離れる予定は無いし、大阪をなんとかしたいという気持ちは橋下さん並にあったりする。
で僕らの前に講演をした沖縄の平田大一さんの話がすこぶる面白く、パッションというのはどんな理屈やロジックなんかを遥かに吹き飛ばすし、面白い人ってのはそういうのを勝手にやってるもんだ。それは見習わないとね。ああ、心に大きな南海の波がばしゃーん。
で翌日は大阪都構想の投票に行ったり、自転車を京橋にとりにいったり、伊丹に打ち合わせにいったりと、ぐるぐると環状線のように天気のよい一日を楽しんだ。大阪の未来はどうなるのか?そんなことは知らないけど、楽しいことが増えればいいと思うし、それは人任せ、行政任せにはしてられないから、頑張ろうと思った。大阪と東京を行ったり来たりしてて、思うのだけど、東京の面白さはシステムの面白さで、それはある意味部外者でもシステムを真似すればその中に入れる。さらに上に行くにはもうちょっといくつかの試験を受けなければいけないのだけど、とりあえず入ることはできる。大阪はシステムはあるようでない。体系化も文脈化もされていない。ほぼ分断されている。大阪はそういう意味ではカオス、その面白さがあって、それが東京と同じような感じにならない方がいいのではないかと僕は思ったりするのだけど、どうだろう。

東雲、心斎橋、多摩

2015-05-21 | Weblog
変な時間に目覚めてしまって、なんだかインターネットの中をさまよっているうちに漠然とした寂しさというか、どっから手を付けていいのかわからない散らかった部屋にいるような気分というか、そんなこんなも理由としては1月のやぶのなか、3月ワンピース、4月の麦ふみクーツェとTPDライブツアーからの「1×0」ファイナルと怒濤のクリエーション上半期が終わったその脱力感なんだろう。特に「麦ふみクーツェ」と「1×0」は3年近くかかってここまできたから、その解放感、寂寞、情熱の燃えかす、ぽっかり空いた穴。いろいろなことをぼんやりと考えるけど秋の雲みたいにすぐに散り散りになってなにもまとまらない。
まとまらないことを承知でいろいろと頭の流れるままに即興で書いてみる。
この間ひさしぶりにワンピースの公演を見に行った。東京タワーは僕にとって2015年の冬の景色。赤い塔は寒空にこそよく似合う。稽古場の東雲は生まれた頃住んでいた思い出の地で、まさか再び足を踏み入れるとは。小さい頃そこは海で、埋め立てが始まったばかりだった。スモッグと波の音。防波堤を父親の自転車の後ろに座ってたときに、足首を後輪に挟み、アキレス腱を切った記憶。かかとには今もその傷は残っている。ワンピースの面々は元気にやっていた。もう500公演を過ぎたそうだ。あっというまに1000回、2000回と行くのだろう。俳優はとても難しいことをしている。繰り返し同じことをするというのはとても辛い。
20年以上前に、初めてブロードウェイにいったとき、ひとりで毎朝Ticketsに行って安い劇を探す。その中で、タイトルももう覚えてないけど、昔ながらのミュージカルを見た。その公演は何年もやってるそうだ。客席は7割程度しか埋まっていない。幾分古くさい出し物だった。しかし出演者たちのテンションたるや、ちょっと驚いた。まるで今日が初舞台かのような喜びよう。見ているこっちが「え?今日はなんかスペシャルな日?」と思ってしまったくらいだ。終わったあとに気づいた。これを彼らは毎日やっているのだ。だからロングランできるんだ、と。一回一回にすべてを出し切る。ワンピースのみんなを見て、きっと彼らならそういうショーをいつまでも見せてくれると思いホッとした。ギアもまたロングランだ。もうすぐ1000回とか。5年ほど前に心斎橋の小さな劇場で産声をあげて、僕は演出家としては手を引いてしまったけど、こんなに長い間上演されているってのは奇跡に近いことだと思う。みんな元気だろうか?近いうちに見に行きたいと思う。
東京タワーでうれしかったことのひとつにたくさんの修学旅行生がきていたことだ。外国からの観光客もたくさんいたし、おそらく演劇なんて見たことない人たちが見に来てくれる。舞台表現というものに少しでも興味を持ってくれたら嬉しい。そこにはエネルギーが充満している。さすが電波塔だ。
昔を振り返っている場合でもない。10年くらいかけてやろうと思ってたことを最近、一気に実現させてしまっているから正直不安だ。次の10年後のためのことをはじめないと。それにまだ実現できていないことが10個以上ある。あー、そう考えると20年とか30年とか、かけないといけないのか。遠くの景色を見ながら、足下を踏みしめる。とん、たたん、とん。麦ふみにも行かないと。
多摩1キロフェスが今年もやります。ようやく3年目。少しづつ。これも一生かけてやりたい仕事のひとつ。

ワンピース@東京タワー→http://onepiecetower.tokyo
ギア→http://www.gear.ac
多摩1キロフェス2015→http://1kmfes.com

デンタルホラー(後半)

2015-05-09 | Weblog
もう2ヶ月以上前の話の続き。東京のあるところの歯医者。一応駅前だ。なのに、言葉を選ばなければ「いつつぶれてもおかしくない雰囲気」の、たったひとりの女医がきりもりしているところで、中も薄暗く(昼間なのに)、ぱちぱちという謎の音だけがする。そこできしむ椅子に座らされ、インフォームドなんちゃらはおかまいなしで、尖った何かを歯茎に順番にあてられる。激痛が走る。麻酔なしでよくもここまでやるよ、てくらいに激しい痛みが襲う。僕は泣きそうになる。ああ思い出すだけでも辛い。僕はうめき声を出すが、女医は眉一つ動かさないで尖ったものを当てていく。僕はさすがに「ほってまっっへ(ちょっと待って)」と、「虫歯を治してくれませんか?」と言った。女医はまるで愚者を見るかのように僕を見下ろしそれからこう言った。「虫歯を治す前にしなくてはいけないことは、その歯の土台をなおすことです。あなたの歯茎はいまだめになっています。歯茎は地面です。歯が家です。どれだけ家を修復しても地面ががたついていては何度も同じことを繰り返すだけです」
たしかに言ってることは一理ある。筋も通っている。僕はおとなしくあげた腰を下ろし、再び施術に身を任せた。激痛が走る。今度は言い負かされた悔しさもあって本当に泣いた。なんだろうこのSMプレイ。いや、別に興奮しないし。その日はとにかく完敗だった。結局虫歯の治療は途中で止まったまま。聞くと、次回は歯の磨き方を伝授しますとのこと。「毎日のケアが大事なんですからね」
いや、いま、虫歯があって、それを治してほしいんです。その言葉は出てこなかった。完全に負けたのだ。
1週間後、僕は歯ブラシを持って再訪した。でも院内に入る前から決めていた。今日こそは「虫歯を治して下さい」そう言おうと。なんせ治療の途中なのだ。大阪のホストクラブみたいな歯医者が懐かしい。いい人たちだった。
がちゃ。やはり患者は誰もいない。この歯医者はどうやって成り立ってるのだろう。僕は壁に貼ってあるポスターを見ながら女医が出てくるのを待った。そこには「痛みの無い治療を心掛けます」と書いてあった。嘘だろ・・・とつぶやいた。
まず20分かけて歯磨きの練習だ。虫歯のことは言えない。女医が僕の歯ブラシで僕の歯をごしごし磨くのだけど、それもまた痛い。歯ブラシ折れるんじゃないかって強さ。そのあとにようやく治療が始まる。虫歯のことを言う。お願いします、治してください、と。懇願だ。
女医は10秒くらい黙ったあとに、「わかったわ」というようなことを言った。・・倒錯してないだろうか。ここは歯医者だよね??
ともかく麻酔をされてようやく虫歯の治療がはじまったのだけど、型をとったのでそれができるまで3週間、その間に毎週ブラッシングのために通院してください、と言われ、さすがに暇じゃないんで、と断って、結局今は「まともな」歯医者に通っている。
しかしなんだったんだろう。まるでイヨネスコの戯曲のようだった。いつか歯医者のふたり芝居作れるな。(転んでもただでは起きない)

麦ふみの人たち3

2015-05-05 | Weblog
麦ふみクーツェ「いまさらキャスト紹介」いかがでしたか? 
公演に関してツイッターやブログなどでたくさんの感想をもらい、これも今更ですが、見つかる範囲で見ました。ありがとうございます。僕としては、みなさんの感想に勇気づけられますし、そもそも観客の皆さんこそが今回の主役だった訳で、あの不思議な体験を言葉にしてくれることに感謝しかありません。再演?したいですね。でもどの芝居よりも難しいところもあるし。神のみぞ知るですね。でも麦ふみ楽団はあの港町を飛び出してこれからいろいろなところでライブをします。まずはトクマルさん主催のtonofon fes。僕も遊びにいきます。気持ちのよい野外フェスです。もちろんトクマルさんの演奏もあるそうです。みんなで行こう。http://www.tonofon.com/fes15/

そしてここには書ききれないけど、たっくさんのスタッフのみなさん、ねこの足をやってくれて稽古場にもずっと通ってくれた村上くん、大阪でのねこ足の永沼君、すべてのはじまりであり大千秋楽のカーテンコールでねこの声をやってくれたいしいさん親子、新潮社のみなさん、そしてブラバ・MBSのみなさん、ありがとうございました。演出助手の則岡さん、舞台監督の武吉さん、舞台美術の柴田君、照明大塚さんに直ちゃんに、映像の大鹿さん、銀ちゃん、衣装の北迫さん、溝口さん、米田さん、メイクの宮内さんチーム、音響の井上さんチーム、制作のたまちゃんに中村さん、デザイナーの千原さんチームに、写真家の中島さん。演出部は中西君、みどりちゃん、今井さん、浦本君、大友さん。そしてクーツェという大きな船の帆の部分、これがなければどこにも進めなかった、その音楽を手がけてくれた音楽監督トクマルさん、ありがとうございました。スペシャルサンクスとしてブラバの武田さんと日高さん、小川さん、とリコモーションの森さん。企画立ち上げから一緒に歩んできた。丸3年?4年?ともかく根気づよくあきらめないで船をプッシュし続けた。こんなに美しい座組ができたのもこの4人のおかげだと思っている。
たぶんきちんと一人づつ家のドアをノックしてお礼を言いに参らないといけないのだけど、みんなも迷惑だろうから、なにか新しい冒険を早く見つけてまたご一緒できるように尽力することがたぶん僕のできるお礼なんだと思って、今はおとなしく、インターネットの端っこからぺこりとお辞儀をさせてもらって略式とさせてもらいます。

そして今回やってて思ったことに、全部つながっているんだなーと言うこと。オリジナルテンポでやってたことだし、映像表現としての形はTPDで養ったし、そもそもsundayの「牡丹灯籠」がきっかけではじまった企画だし、実は「ハイ/ウェイ」という作品で予言的なシーンがあったり、観客参加で言えばHEPでつくった「YOUPLAY」は大きなポイントになってる。「YOUPLAY」は「素浪人ワルツ」という作品がなければはじまらなかっただろうから、もう10年以上一緒に作品を作ってるみんなに感謝しないといけない。「麦ふみクーツェ」は「麦ふみクーツェ」だけで出来上がった訳ではなく、もっとたくさんのものからつながって生まれた。そのすべての関係者に感謝します。

なんだか終わった感じがすごいするけど、はじまった感じもするんです。ここから次の枝が伸びて、また誰かにつながっていく。つながる音楽劇って、だいぶ野暮ったいタイトルだなあと思ってたのだけど、つながることの恐怖とか悲しみとか、ネガティブなものも含んで、それでもつなぐのかつながないのか、その選択を迫られている、という意味ではとても時代的だと思うし、おそらく僕にとってのテーマなんだろうな、と。簡単につながることなんてできない。そんなに容易いものじゃない。動物園のシーンでねこがみどり色の手を握るシーンのように、それは大きな覚悟がいる。そういう風に音楽とも人とも演劇ともつながろうと。それさえクリアしちゃえば、たぶん、あとは運命が味方についてくれると、そう信じている。

麦ふみの人たち2

2015-05-03 | Weblog
有田杏子(配管工)→ありちゃんは音楽と演劇を同じ比率で愛している、それはそれはとてもクーツェ的な人です。彼女の存在が座組全体に与える影響って実はすごく大きくて、いわゆるムードメーカーとしてすばらしい功績を残した。一方で、毎ステージチャレンジし続け、なんていうか見えない敵と戦っている様はみっともなくて美しかった。普通は舞台上でリアルに泣くことを僕は是としないんだけど、ありちゃんだったら許してしまう、不思議。彼女のトロンボーンはそういう意味ではマジカルなものを持ってると思う。
松延耕資(花屋の兄)→満月の前で吹くサックスはのぶくんしかできない芸当だったな。芸達者で、謙虚で、そして意志の強さと、頭の柔らさを持ってる人。ときには押し引きで失敗することもあったかもしれないけど、のぶくんの言うことは皆一様に耳を傾けた。誰よりも器用で、できないことはないような気にさせる。音楽も演劇もわかってるからこそ、この作品が演劇でも音楽でもない新しい何かを目指してることに深く注力を傾けてくれた。船の先に立つタイプではないけれど、風の匂いと潮の流れをきちんとどこかで見ていてくれる。彼のおかげでこの船は転覆しなかった。
牛尾茉由(花屋の妹)→フルート力(りょく)、という言葉無いけど、繊細で細いんだけど簡単には折れない、というようなことをフルート力と呼ぶ。うっしーはまさにそんな人だと思う。演技について一番質問してきてのも彼女だ。彼女の気づきは僕にとって見張り台の役目のようにとても助かった。そしていつだってクレバーで思慮深い。まるで、うん、まるでフルートだ。そういう意味で言えば今回楽器とその人はまるで飼い犬と飼い主みたいに、自然と似てることに気づいた。
岡田啓(教頭先生)→ファゴットという楽器をこんなに間近に見たのは聞いたのは初めてで、ファゴットの面白さを「するめ」のように引き出す岡田さんは僕にとって世界一のファゴット奏者だ。彼の存在感は一目会ったときから気になるものがあり、実際知合いからどこの役者?と聞かれたくらい、強い個性があった。一方で、演奏者としての腕前とそのしなやかなロングトーンは見た目とは裏腹にどこまでも透明でそのギャップににやにやしてしまう。ちなみに恐竜の声も彼です。
田中馨(肉屋の夫)→今回のバンマスで、実は酒場の曲の作曲も彼。それにクーツェのほとんどのステップを叩いてもらっていた。クーツェの足踏みが全体を通してひとつのリズムを形成するのだけど、そのニュアンス、震え、響きを映像の熊谷さんがその場にいるかのように叩いてくれた。ケイ君の意思とリズムが大きくこの作品の音楽的方向性をつくったのは間違いない。そしてそういうリーダーとしてのすばらしさもさることながら、本番でのプレイヤーとしての細やかさ、でも大胆に、の精神はさすが!の一言につきる。観客の腰を動かしていたその中心人物はケイ君だ。
小林うてな(肉屋の妻)→彼女の舞台上でのありかたは、嘘がない、てことのすごさ、嘘をつかない、ためになにをするべきなのかを本能的にわかってる。ように僕には見える。そしてそのギャップとしての冷静さにドキドキする。それはPLAY(演じる、演奏する、遊ぶ)という言葉を肉体で獲得しているのだなあと何度も感心した。打楽器奏者が一般的にそうなのかどうかは知らないけれど、正確に、でも正解じゃないように、叩く歌う踊る。会ったこと無いけどビョークみたいな人です。
斎藤彰子(宿屋の女主人)→サザエさんカットでクラリネットを颯爽と吹く姿は、どっかとぼけているように見えて、でもかっこいい。彼女のクラリネットはなにか特別な美しさがある訳じゃないのに(クラリネットてなんかそれをアピールしてくるでしょ?)聴いてる人の見えない扉をしっかりとあけてくる。開け方があまりにも自然なもので、まるで酒場ののれんのように、僕らはその風の中でいつのまにか知らない場所にたどり着いている。もしかしたら港町の楽団という設定を一番しっかり作っていたのかもしれない。それって技術だよねー。感服。
永滝元太郎(巡査)→毎日必ずなにかしらのアイデアを出すと決めてるかのように、稽古場では率先して意見を言ってくれた。僕はナガタキさんのアイデアがすごい好きで、いちいち笑ってしまうし、まっすぐ真面目なところが面白い。なのに「いやー僕以外みんなへんてこですねー」なんて言うもんだからへんてこな人は自分のへんてこさに気づかないものなのかもしれない。同じくらいホルンも真面目でへんてこ、最後のコンサート曲のファゴット岡田君とのハーモニーには毎回鳥肌が立っていた。
兵頭祐香(音楽教師)→ゆかちゃんとは何年もこういうことをやってきているから、いわば今回の作品の中では一番最初にビジョンが見えてた人かもしれない。彼女のバイタリティとか、アイデアとか、アイデアを組み立てる筋道とかは、いつも感心するし、こだわりの部分への追求も、表現者のプロとしてやっていく覚悟からくるものだから潔い。観客に届けたい、という気持ちと、出演者全員で楽しもう、というふたつの選択肢は同じ箱にあることを教えられる。ムチキャラが面白かった。 
三浦千明(灯台守)→今回出てもらっている人、みんなすごい人たち(それぞれの世界で長いキャリアを実力を持つという意味)なんだけど、千明ちゃんももちろんそういう人なんだけど、その自分のテリトリーからひょいとこっちに来てくれて、さあなにする?と笑顔できいてくれるそのスタンスは、クーツェの中でもひときわ目立っていた。吹奏楽リーダーとして、輪の中でわいわいしながらも、どこか遠い場所も心配しながらみんなが危険にさらされないようにしてくれてた姿勢はまさに灯台守だったのかもしれない。楽団の海風の音楽は彼女のトランペットを中心にできあがっていた。
山本直輝(酒場主人)→楽団の中でもっとも翻弄される役なんだけど、なにせいきなり「へたくそ!」と怒鳴られる役だ、観客は彼を通して楽団員たちを受け入れ楽しむことができる。そして最後のコンサートのはじまりの音までつながる。そういう要としての存在感はすばらしい。それと演技者が演奏者になるというこの舞台は予想以上にヘビーで、山本さんのチューバはその中でももっとも(リアルに)ヘビーだった。大型犬を抱えてると思ってもらえたら大変さが想像できると思う。なのに文句一つも言わずに、動き回り、そして繊細な音を奏でる。山本さんの汽笛はこの作品の印象深い音の一つだ。
ヨース毛(出納係)→「素浪人ワルツ」「友達」に引き続き一緒に音楽劇を作れて嬉しい。僕の音楽劇(演劇×音楽)のバックボーンはヨース毛によってできていると言える。音の世界は魔物が棲んでいると思うのだけど、その世界に僕をつれていって明るい光を照らしてくれる存在。ヨース毛がいれば魔物も踊りだす。僕らはそうやって「音楽の面白さ」をまだ知らない人たちに知ってほしいのだ。同様に彼の奏でるチェロもまた音楽の根源的な喜びを教えてくれる。今回はチェロじゃないものもいつも以上にやってくれてたけど、本当に彼にとっては「すべては楽器」なんだろう。
熊谷和徳(クーツェ)→「心臓もまた打楽器だ」というような台詞があるのだけど、まさに熊谷さんのタップは打楽器で、心臓がその中心にある。そうタップは足でするもんじゃなく、体でするもの。心臓が全身に血を送り出すようなイメージ。それは、まさに、ビート(鼓動)だ。またクーツェといういわゆる形而上的存在をなんなく演じられたのも、そういうプリミティブなものがあって、それを遺憾なく発揮してくれたからだと思う。哲学的な台詞も熊谷さんにかかればどこかの民謡のようだ。俳優としてもいろいろ今後活動してほしいなあと勝手に思っている。