「麦ふみクーツェ」無事に終わりました。おそらく今までのどの作品よりも時間と労力をかけたんではないだろうか。おかげで今は燃え尽きて灰になっています。
で、今更ですが出演者を紹介します。へんてこな登場人物たちを、演じてるのか演じてないのかよくわからない感じで演じてた24人のへんてこな人たち。どこかで彼らの名前を見たときには「あ、クーツェの人だ」と思っていただけたら。この24人でしか到達しえない場所にいけました。
ちなみに敬称略、順不同です。
渡部豪太(ねこ)→今回の座組のリーダー。彼を中心に物語は進んでいく。物語と同時に音楽も進む。いろいろなことが彼を中心にして渦を起こしていく。渦の中心としての役割を全うしようとしているその姿勢にはいつも感服してた。渦の中心になる覚悟を持っていつも稽古場に来てた。ある種、毎回うまれて死ぬことを繰り返す、というか。最後、彼が客席に降りてくるとき、本当にそのシーンは毎回、違う顔になっている。ねこと渡部君はもはや同一人物であって、それは物語の湖の底から生まれてきた不思議な生き物だった。精神的にも肉体的にもしんどかったと思うけど、彼なくしてこの舞台は絶対にうまれなかったし、彼の血肉がほとばしっていて、もうそれはいい出会いになった。
皆本麻帆(みどり色)→最初は不思議な雰囲気の子だなあと思ってたけど、稽古を重ねるほどに、しっかりと血の通った、みどり色になっていった。そこはとかない「命の儚さ」みたいなものが感じられて、この作品の重要な色になっている。たぶんクーツェは色と命と循環についての話だったんだろう。舞台美術や衣装は彼女の世界を具現化したもの、だと思う。公演を重ねるごとに、歌声が変わっていくことに驚いた。すばらしい歌い手であり、ピアニストであり、女優だ。つまり表現者だ。何度も泣かされた。
朴璐美(新聞記者)→この役は原作にはほとんどでてこないけど、僕が舞台用に膨らませ登場してもらった。いわば「狂言回し」的なポジションでもあり、ミステリードラマの探偵役としても機能する。演じる以外にもロミちゃん(同い年なんでそう呼んでる)には新しい挑戦をたくさんしてもらっていて、最後に観客の耳に残る声と音になっていたと思う。彼女のタイプライターの音がもしかしたら原作で言うところ「父の階段で数式を書く音」に近い、ドラマの通奏低音になっていたのではないか。すべてを集約回収していくというのは「自分では何もできない」ことが多く、その分皆を信頼するしかない。そして嘘をつかない。大事なことだけど難しいことに挑戦してくれた。ロミちゃんの演技には教えられることが多かった。
植本潤(先生)→俳優のみなさんにはいろいろと甘えてしまっていたが、潤さんほど甘え甲斐のある人もいない。たぶんいくつもの修羅場を乗り越えてきたその経験が生んだ風格なんだろう。なんとなくハリウッド映画の性格俳優(ジュードロウとかジャックブラックとか)のような底の無い引き出しと才能を感じる。大人としての「嗜み」を理解しつつ、子供の「無邪気さ」を忘れてない、とでもいうか。演技というものはぐじゃぐじゃした泥遊びのようなもので、そこには「いいも悪いもない」と言われてるような気がした。いま小説の「麦ふみクーツェ」を読むと先生の顔は潤さん以外浮かばない。
木戸邑弥(生まれ変わり男)→とても不思議な役、いるのかいないのかよくわからない役を、ただ立ってるということで魅せる。ただ立つ、ってほんとに難しいんですよね。おそらくそういう挑戦を好んでしてくれた。そういう野心的なハートを持ちつつ、彼のギターの音色はとても素直だった。トクマルさんのメロディの「根源的なさみしさ」をきちんと素直に表現してくれていた。生まれ変わり男とは、もしかしたら俳優のことを指すのかもしれない。木戸君の演じる生まれ変わり男から僕はずっとそのことを考えていた。「麦ふみクーツェ」は音楽の話であったけど、実は演劇の話でもあったのだ。
小松利昌(用務員)→こまっちゃんは旧知の仲とはいえ、案外一緒にやるのはひさしぶりで、ああこまっちゃんもうまくなったなーと思うことしばし。僕が言う「うまい」というのは、見せ方とか表現力という説教臭い意味ではなく、アンサンブルの引き出し方、つまりは他人を上手に見せることができる人のことで、劇団のようにこの座組が見えてたとしたらその一翼は彼が担っていると思う。バスドラ担当として一番後ろでみんなを応援するような演奏も嘘のない素敵な演奏だった。でも縁の下の力持ちという感じでもない。ここが彼のバランスのいいアンバランスさなんだなと思う。それと個人的には松尾さんとのやりとりが面白かった。コール&レスポンスを日本語で「質疑応答」と訳したアドリブが一番好きだ。
田中利花(婦長、家政婦、鏡なし亭の女主人、酒場の嫁、など)→パワフルです。大阪の有名なCMで「豚まんがあるとき、ないとき」というのがありますが、それでいえばまさにりかさんは豚まんで、いるときはみんな幸せで、いないときはとても寂しい。この作品の祝祭感の半分くらいは彼女のエネルギッシュな体から生まれている。そして誰よりも舞台のことを愛していて、アイシテルが故になかなかうまくいかないことも知っている。そういう意味で言えばとても演出的な目線を持っている人だ。その冷静さと情熱の間でけたけた笑ってる彼女が大好きだ。
松尾貴史(郵便局長)→昔からその独特な立ち居振る舞いには感心してたけど、ほんとに今回の作品の肝である「観客とのつなぎ」役を、また全体の指揮者として全うしてくれた。松尾さんのスタンスの演技が僕にとっては「麦ふみクーツェ・スタイル」と呼んでもいいと思っている。あらゆる場所に回路が開かれている。どこからでも風が吹いてこれるように。オープン。観客にとってこのお芝居が他と大きく違ったと感じたとすれば松尾さんの功績が大きい。それと僕は松尾さんの前世はミュージシャンで、その一個前はマジシャンだったと思っている。
尾藤イサオ(おじいちゃん)→もしかしたら誰よりも稽古をして、誰よりも台本を読み込んでいたかもしれない。できることは全部やっておく、というタイプで、その上で、作り上げたことは作り上げたことで、現場では現場の風が吹くことを誰よりも許容する。ほんとにあっぱれだ。ドラム缶ティンパニーを演奏してくれた。ティンパニーなんて触ったことなかった。年齢だけで言えば誰よりも先輩だけど、誰よりも後輩になろうとした。尾藤さんがいてくれたおかげで、この海千山千の座組がまとまったといえるかもしれない。尾藤さんにはどこまでもついていきたくなるのだ。
佐嶋宣美(医者、港の水夫、国立オーケストラの主任、麦畑の農夫など)→体型はマッチョなのに、目を輝かせて遊んでる姿を見ると、夏休みの少年のようだ。ほんとにこの仕事が好きなんだなーと思う。歌ったり、演奏したり、演じたり、その垣根がない。それってほんとにすばらしいことだと思う。公演ごとにちょっとづつ変えてくる主任の芝居が個人的にはつぼだった。遊んでるよね、まあ、みんなだけど。
ダンドイ舞莉花(鏡なし亭の白いワンピースの女、パン屋、看護婦、麦畑の農夫の妻など)→作品の中で、ほんとにいろんな顔を見せてくれた。衣装が変われば別のなにかにすっと変化するさまはカメレオンのようだ。でもカメレオンもそうなように、目の色だけは変えることはできなくて、その目の部分にこそ、どの役をやっているときもしっかりとある「まっすぐさ」がとても気持ちよかった。
(→続く)
で、今更ですが出演者を紹介します。へんてこな登場人物たちを、演じてるのか演じてないのかよくわからない感じで演じてた24人のへんてこな人たち。どこかで彼らの名前を見たときには「あ、クーツェの人だ」と思っていただけたら。この24人でしか到達しえない場所にいけました。
ちなみに敬称略、順不同です。
渡部豪太(ねこ)→今回の座組のリーダー。彼を中心に物語は進んでいく。物語と同時に音楽も進む。いろいろなことが彼を中心にして渦を起こしていく。渦の中心としての役割を全うしようとしているその姿勢にはいつも感服してた。渦の中心になる覚悟を持っていつも稽古場に来てた。ある種、毎回うまれて死ぬことを繰り返す、というか。最後、彼が客席に降りてくるとき、本当にそのシーンは毎回、違う顔になっている。ねこと渡部君はもはや同一人物であって、それは物語の湖の底から生まれてきた不思議な生き物だった。精神的にも肉体的にもしんどかったと思うけど、彼なくしてこの舞台は絶対にうまれなかったし、彼の血肉がほとばしっていて、もうそれはいい出会いになった。
皆本麻帆(みどり色)→最初は不思議な雰囲気の子だなあと思ってたけど、稽古を重ねるほどに、しっかりと血の通った、みどり色になっていった。そこはとかない「命の儚さ」みたいなものが感じられて、この作品の重要な色になっている。たぶんクーツェは色と命と循環についての話だったんだろう。舞台美術や衣装は彼女の世界を具現化したもの、だと思う。公演を重ねるごとに、歌声が変わっていくことに驚いた。すばらしい歌い手であり、ピアニストであり、女優だ。つまり表現者だ。何度も泣かされた。
朴璐美(新聞記者)→この役は原作にはほとんどでてこないけど、僕が舞台用に膨らませ登場してもらった。いわば「狂言回し」的なポジションでもあり、ミステリードラマの探偵役としても機能する。演じる以外にもロミちゃん(同い年なんでそう呼んでる)には新しい挑戦をたくさんしてもらっていて、最後に観客の耳に残る声と音になっていたと思う。彼女のタイプライターの音がもしかしたら原作で言うところ「父の階段で数式を書く音」に近い、ドラマの通奏低音になっていたのではないか。すべてを集約回収していくというのは「自分では何もできない」ことが多く、その分皆を信頼するしかない。そして嘘をつかない。大事なことだけど難しいことに挑戦してくれた。ロミちゃんの演技には教えられることが多かった。
植本潤(先生)→俳優のみなさんにはいろいろと甘えてしまっていたが、潤さんほど甘え甲斐のある人もいない。たぶんいくつもの修羅場を乗り越えてきたその経験が生んだ風格なんだろう。なんとなくハリウッド映画の性格俳優(ジュードロウとかジャックブラックとか)のような底の無い引き出しと才能を感じる。大人としての「嗜み」を理解しつつ、子供の「無邪気さ」を忘れてない、とでもいうか。演技というものはぐじゃぐじゃした泥遊びのようなもので、そこには「いいも悪いもない」と言われてるような気がした。いま小説の「麦ふみクーツェ」を読むと先生の顔は潤さん以外浮かばない。
木戸邑弥(生まれ変わり男)→とても不思議な役、いるのかいないのかよくわからない役を、ただ立ってるということで魅せる。ただ立つ、ってほんとに難しいんですよね。おそらくそういう挑戦を好んでしてくれた。そういう野心的なハートを持ちつつ、彼のギターの音色はとても素直だった。トクマルさんのメロディの「根源的なさみしさ」をきちんと素直に表現してくれていた。生まれ変わり男とは、もしかしたら俳優のことを指すのかもしれない。木戸君の演じる生まれ変わり男から僕はずっとそのことを考えていた。「麦ふみクーツェ」は音楽の話であったけど、実は演劇の話でもあったのだ。
小松利昌(用務員)→こまっちゃんは旧知の仲とはいえ、案外一緒にやるのはひさしぶりで、ああこまっちゃんもうまくなったなーと思うことしばし。僕が言う「うまい」というのは、見せ方とか表現力という説教臭い意味ではなく、アンサンブルの引き出し方、つまりは他人を上手に見せることができる人のことで、劇団のようにこの座組が見えてたとしたらその一翼は彼が担っていると思う。バスドラ担当として一番後ろでみんなを応援するような演奏も嘘のない素敵な演奏だった。でも縁の下の力持ちという感じでもない。ここが彼のバランスのいいアンバランスさなんだなと思う。それと個人的には松尾さんとのやりとりが面白かった。コール&レスポンスを日本語で「質疑応答」と訳したアドリブが一番好きだ。
田中利花(婦長、家政婦、鏡なし亭の女主人、酒場の嫁、など)→パワフルです。大阪の有名なCMで「豚まんがあるとき、ないとき」というのがありますが、それでいえばまさにりかさんは豚まんで、いるときはみんな幸せで、いないときはとても寂しい。この作品の祝祭感の半分くらいは彼女のエネルギッシュな体から生まれている。そして誰よりも舞台のことを愛していて、アイシテルが故になかなかうまくいかないことも知っている。そういう意味で言えばとても演出的な目線を持っている人だ。その冷静さと情熱の間でけたけた笑ってる彼女が大好きだ。
松尾貴史(郵便局長)→昔からその独特な立ち居振る舞いには感心してたけど、ほんとに今回の作品の肝である「観客とのつなぎ」役を、また全体の指揮者として全うしてくれた。松尾さんのスタンスの演技が僕にとっては「麦ふみクーツェ・スタイル」と呼んでもいいと思っている。あらゆる場所に回路が開かれている。どこからでも風が吹いてこれるように。オープン。観客にとってこのお芝居が他と大きく違ったと感じたとすれば松尾さんの功績が大きい。それと僕は松尾さんの前世はミュージシャンで、その一個前はマジシャンだったと思っている。
尾藤イサオ(おじいちゃん)→もしかしたら誰よりも稽古をして、誰よりも台本を読み込んでいたかもしれない。できることは全部やっておく、というタイプで、その上で、作り上げたことは作り上げたことで、現場では現場の風が吹くことを誰よりも許容する。ほんとにあっぱれだ。ドラム缶ティンパニーを演奏してくれた。ティンパニーなんて触ったことなかった。年齢だけで言えば誰よりも先輩だけど、誰よりも後輩になろうとした。尾藤さんがいてくれたおかげで、この海千山千の座組がまとまったといえるかもしれない。尾藤さんにはどこまでもついていきたくなるのだ。
佐嶋宣美(医者、港の水夫、国立オーケストラの主任、麦畑の農夫など)→体型はマッチョなのに、目を輝かせて遊んでる姿を見ると、夏休みの少年のようだ。ほんとにこの仕事が好きなんだなーと思う。歌ったり、演奏したり、演じたり、その垣根がない。それってほんとにすばらしいことだと思う。公演ごとにちょっとづつ変えてくる主任の芝居が個人的にはつぼだった。遊んでるよね、まあ、みんなだけど。
ダンドイ舞莉花(鏡なし亭の白いワンピースの女、パン屋、看護婦、麦畑の農夫の妻など)→作品の中で、ほんとにいろんな顔を見せてくれた。衣装が変われば別のなにかにすっと変化するさまはカメレオンのようだ。でもカメレオンもそうなように、目の色だけは変えることはできなくて、その目の部分にこそ、どの役をやっているときもしっかりとある「まっすぐさ」がとても気持ちよかった。
(→続く)