worldNote

世界の覚書

道州制、易姓革命、外国人参政権には反対です。伝王仁墓に百済門を作るのは場違いであり、反対です。

感謝の場としての靖国神社

2006年08月13日 | 歴史・伝統
散歩道経由、産経新聞(8/12)3面
中国当局系の情報ポータルサイト「千龍網」の「日本・靖国神社とは」に以下の記述がある。
「靖国神社は東条英機ら第二次世界大戦のA級戦犯を含む一連の戦犯の位牌を供奉し、軍国主義の対外侵略戦争を宣揚し、支持する精神的支柱であり、象徴である。また日本の一部極右勢力が戦争犯罪人をたたえ、軍国主義の亡霊を呼び戻す祭壇なのである」
靖国神社に「位牌」がある説は、中韓儒教圏では絶対の定説だ。日本人がそれは違うと言っても話を逸らされ、無視されるだけである。

(日本の)位牌は仏教ではなく儒教に由来する(元来は、木主とか神主とか言うらしい)。この(浄土真宗の)解説等によれば、儒教の「位牌」は霊が永遠に止まる、まさに依代という感じだ。仏教では人は死ねばみな仏になっており、降霊みたいな概念はないらしい。

では(日本の)神式ではどうかというと、須賀神社の神葬祭の解説によれば(写真は須賀神社の霊璽)
神道(神式)における祖先まつりの考え方は、人が死去(帰幽といいます)しますとその御霊は霊璽(一般にいう位牌)に遷霊(うつすこと)され、各家々の御祖先の霊社(各家の御霊舎)に祀られ、一家の守護神となると考えられ、日夜子孫を見守り、子孫の繁栄と幸福をもたらすとされています。

出棺の際霊璽は火葬場に持参しない。

神葬祭における特徴の一つに遷霊祭があります。厳粛をきわめる儀式で、位牌に相当する霊璽(れいじ)に故人の御霊をお遷しするものです。この遷霊の儀によって神霊の宿った霊璽を故人の御霊代として祀ります。
明らかに儒教の影響が色濃く残る様式になっている。霊璽に「みたま」が遷り、一家の守護神となる。

豊國神社のページによれば、
忌明けの五十日祭の後、霊璽を祖先の御霊舎に遷す合祀祭(ごうしさい)をおこない祖先と共におまつりします。
とある。当然、地域によって様式や慣習に異同はあろうが、大筋は一緒だ。

靖国神社では仏式の位牌と酷似した霊璽ではなく、霊璽簿という名簿しかないが、儀礼の様式は、大筋では一緒だ。最後は合祀されて一体化するようだ。

靖国神社では個人毎に「木主」を作るわけではない。その点では位牌は無いといえるが、名簿をもって何と見るかだ。神式では、霊璽は「御霊代」というところで、儒教と殆ど変わらない。そして「合祀」により、一家の集合的祖先神となり、守護神となるとも考えられているらしい。

靖国神社は、故人(戦死者)が個人の「家」で祀られている部分には全く関わりが無い。それとは全く関わりのないところで、いわば「国家祭祀」(それを言うなら軍祭祀か)として執り行っている(いた)。ここに、祭祀の二重性を見ることは構わないだろう。家の祭祀の宗教は問わない(というか関係ない)。キリスト教だけでなく、仏式も神式もあるのだ。ただ、一般に「慰霊」とは社会的、つまりパブリックなものであり、プライベートな家に関わるものではない。

#追記:日本の多数派は仏式だから、観念としては死ねば仏に成るというのが多数派。ただ同時に、鎮守の杜が、集落の守護神的な捉え方もされている。神事と仏事は別であるが、習俗としては両立しているし、普通は気にもされない。また、地鎮祭には神主を呼び、何らかの大事故・大災害で行われる慰霊祭には坊主を呼ぶ(のが多い)。何でもあり、みたいなのが日本だ。

以下に述べるのは、私の解釈である。

靖国神社は、国民国家として、戦死者(国のための軍事行動で落命したる者)に対して、(いわば)感謝する装置としてあるのだといえないだろうか(命と引き換えであるから、感謝という文言では足りない気はするが)。「鎮魂」や「慰霊」が靖国の本質ではないのではないか。そんな気がするのだ。戦死者は、基本的に不慮の事故で死んだというより、任務において殉職したのだから、死は取り返しはつかないものの、任務を与えた「国民国家」がそれを忘れないという、ある種の契約の場というわけだ。
#国家の守護神というような意味は、戦前のものであり、終わった話だ。

#ある種の感謝の場であるならば、死や生の事情は問われないのではないか。戦術や戦略には異論があるものだ。戦争指導のミスがあるなら、戦闘指揮のミスもある。だいたい、突撃など、死亡確実みたいな命令だってあるのだ。その命令の妥当性や不当性を問う事は、意味がないわけではないが、靖国神社のような場で問題にされるような事柄ではない。そうした責任者を追及したり、死者を差別したりという事は、靖国神社のような場では不問であるしかないのだ。そうした議論があるとしても、それは靖国の外で行われるべきものだ。

##政治や歴史は、一に謀略、二に圧力、三と四が無くて五に宣伝、六に欺瞞、七に忘却だ。歴史論争に終わりは無い。

[人気blogランキングに投票]


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。