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世界の覚書

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忠臣蔵とsengoku38氏の処遇

2010年12月22日 | 行政・事案・司法
『日本人はなぜいつも「申し訳ない」と思うのか』(長野晃子著)の一節に、忠臣蔵の主役は法であるという解釈が提示されている。裁く側、治める側(幕府)が法の適用を誤った場合、本来の法の趣旨(喧嘩両成敗)の通り適用して実行し(吉良を討つ)、なおかつ、赤穂浪士は自らの、法秩序に違反する行いの裁きを、当然のごとく、甘んじて受けた。彼らの行いは一貫しているという話。つまり、彼らの主張は、法は大事であり、皆で守るべきものである、という事だという話。大石は言う。「首尾よく本懐を達し、おって天下の掟が定まらば、殿のお喜びもひとしおと存ず」

sengoku38氏は、停職処分に決し、即日依願退職した。書類送検はされるが、起訴猶予となる見込み。この結末は、ある意味、一番望ましいものとなった。彼は法秩序に従って罰を受けることとなったが、退職金は守られたはずである。そこが最後の救いである。そしてこの構図は、忠臣蔵と殆ど変わらないと言ってよい。

そもそも法の適用を誤ったのは、政府である(あえて言えば仙谷政権)。見過ごしにするのは不可能である。しかし、そこで法を実効的に適用するには、ビデオを流出させなければならなかった。その行為において法秩序を乱した分については、やはり法を適用すべきである、という訳である。

今回の事件、sengoku38氏に対する、法秩序違反、公務員規律違反への、非難が結構すさまじかった。ぶつけてきた「船長」を英雄にして本国に送り返し、一海上保安官が責めを負うのは、いかにも釣り合わないし、そもそもビデオ非公開は国益に反することであったから、話はそう簡単ではなかった。sengoku38氏は紛れも無く英雄である。

しかし、「非難」の声が意外に一部に根強くあったのは、忠臣蔵の一解釈と照らし合わせてみると、合点するところがある。日本的なのかもしれない。

追記:赤穂浪士討ち入りの後、幕府には何もない。今回も、政権の中枢が責任をとってどうこう、という事は何もない。これもまた、歴史は繰返すか...

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