函南駅の西側には「北条宗時の墓」なるものがある。民家の間に登り口があって、ちょっと小高いところにあり、見た目は古墳みたい(笑)この上にお堂が建っていたのかなぁ・・と疑問に感じるものだけど、地元には時政が作ったという伝説があるそうな。
三郎宗時は頼朝旗揚げの時点では北条の嫡子で、その後執権となる義時の兄。義時は「江間小四郎義時」と呼ばれており、すでに庶子として分家していたらしい。残念ながら石橋山の戦いの際に戦死してしまい、その後の北条氏は弟の義時が背負って行くことになる。嫡子の死に時政はかなり衝撃を受けたらしく、立派な墓をと考えてもおかしくはないのだけど、なぜ函南に?と思う。普通は自分たちの支配する北条まで持って来るはずだけどなぁ・・と思う。亡くなったのは夏の終りだから、石橋山から遺体を運んで来る途中で腐って埋めざるを得なかったのか。それにしても他の武士の所領に墓を作るってどうよ?・・今と感覚が違うからそれでOKなのかなぁ・・とも思う。
墳墓の前には宝篋印塔があるけど、平安末のものではなく、もう少し後のものかもって感じがする。横に建てられていた「北条宗時の墓」と書いた石碑は、昭和19年に大東亜戦争の戦勝祈願のために建てられたものと刻まれていた。かなりこの頃はもう日本も負け続けて、若い人たちが次々と招集されて行くというキツい時代なのに、地元の人たちはよく石碑を建てる気になったものだと驚いた。
三郎宗時は頼朝旗揚げの時点では北条の嫡子で、その後執権となる義時の兄。義時は「江間小四郎義時」と呼ばれており、すでに庶子として分家していたらしい。残念ながら石橋山の戦いの際に戦死してしまい、その後の北条氏は弟の義時が背負って行くことになる。嫡子の死に時政はかなり衝撃を受けたらしく、立派な墓をと考えてもおかしくはないのだけど、なぜ函南に?と思う。普通は自分たちの支配する北条まで持って来るはずだけどなぁ・・と思う。亡くなったのは夏の終りだから、石橋山から遺体を運んで来る途中で腐って埋めざるを得なかったのか。それにしても他の武士の所領に墓を作るってどうよ?・・今と感覚が違うからそれでOKなのかなぁ・・とも思う。
墳墓の前には宝篋印塔があるけど、平安末のものではなく、もう少し後のものかもって感じがする。横に建てられていた「北条宗時の墓」と書いた石碑は、昭和19年に大東亜戦争の戦勝祈願のために建てられたものと刻まれていた。かなりこの頃はもう日本も負け続けて、若い人たちが次々と招集されて行くというキツい時代なのに、地元の人たちはよく石碑を建てる気になったものだと驚いた。
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