和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

若書きを全部。

2010-07-16 | 短文紹介
谷沢永一・渡部昇一著「組織を生かす幹部の器量 宋名臣言行録に学ぶ」(到知出版社)を読みました。たいへん面白く、次に宋名臣言行録を読んでみたいと思ったのでした(次はせめて、山本七平のその関連本を読んでみたい)。ところで、まあ、一箇所ぐらい引用しておきます。

蘇洵(そじゅん)に触れた箇所で、こうありました。

【谷沢】しかし現代人に申し上げたいのは、文章を書かないで本ばかり読んでいるというのは、これはあまりメリットはないと思います。
【渡部】そうですね。この人はたくさん書いて、それを焼いたのですからね。
【谷沢】ええ。読み、かつ書くということを平行して続けなければいけないのではないですかね。

ここに【それを焼いた】とありますエピソードが語られております。

【渡部】・・蘇洵という人は、唐宋八大家に数えられる蘇軾(蘇東坡)、蘇轍兄弟の親ですね。彼自身も唐宋八大家の一人です。ところが、蘇洵は三十になろうとする頃まで本も読まずにいたというのです。これではダメだというので大いに発奮して、遊び仲間との交際を断ち、家の戸を閉じて本を読み、文章をつくり、一生懸命勉強するわけです。
そして一年後に科挙を受験しますが失敗してしまった。そこで今までの学問のやり方ではダメだと考えて、それまでに書いた数百篇の文章をすべて焼き捨ててしまったというのですね。
【谷沢】それはありうることです。若いときは何か書かないといけないと思って無理をしてやりますから、どうしてもそこにはひずみが生じますよね。
【渡部】だから若書きを全部捨ててしまったんですね。それからは文章を書かず、ひたすら読書に励み、五、六年してから一気に文章を書き始め、数千言に及ぶ論文をたちまち書き上げたというわけです。
【谷沢】そしてこの蘇洵は名文家となり、書もできる人になりました。・・・
【渡部】それから有名になって、みんなが彼の文章を暗記したというんですね。その結果、当時の文章のスタイルが一変したというのだからすごい。(p174~175)
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一行も書いてない。

2010-07-14 | 他生の縁
外山滋比古著「エディターシップ」(みすず書房)。
その「見つけて育てる」は、こうはじまっておりました。

「平凡社『世界大百科事典』の菊池寛の項を見ると、文学者としてのことだけが書いてあり、すぐれた雑誌編集者としての仕事については一行も書いてない。これはこの項目の筆者を責めるよりは、『百科事典の編集者に責任がありそうである。ケアレスミステークというよりも、むしろ、意識して平凡社世界大百科事典編集部の見識として、日本における中間ジャーナリズム文化の始祖である菊池を黙殺したのかもしれないと思えるからである。』松浦総三氏がこういう指摘をしているのをおもしろいと思って読んだ。(「調査情報」72年11月号)

 そして、この文の最後の方を引用。

「・・・われわれは現在でもまだ文化の創造者としての菊池寛の姿をしっかりとは見ていない。外国模倣文化の中では、やむを得ないことなのであろうか。菊池寛の編集者としての仕事は『文芸春秋』にあらわれている・・・わが国にはじめて、実感をともなって読める知的表現を提供する舞台になった意義はもっと注目されてしかるべきである。
それは、編集者が知的なおもしろさを発見していたということである。読者を知っていたからである。さらに人間を知っていたからである。日本語と日本人にとって、たとえば、座談会記事というものはもっとも秀抜な発明で、これが菊池寛の創案であるといわれると、なるほど納得する。雑誌の巻頭に随筆をのせる形式も、巻頭にまるで歯のたたないような難解な論文を載せていた当時の総合雑誌への挑戦ではあろうが、ただの戦略的な編集技巧ではなく、ふかく人間の心理に触れるところがある。何十年たっても、雑誌へのこの入り方はすこしも古くならない。
いまだに、外国の雑誌をそっくり真似したような雑誌が人気を博し、それをまた編集者たちが得意になっているらしいという状況がつづいているわが国の出版界にとって・・・・」



え~と、PHP研究所の「日本を讒(ざん)する人々」渡部昇一・金美齢・八木秀次著。
この鼎談をひらいていたら、ちょいと、文芸春秋について語られておりました。


渡部昇一氏の言葉に
「池島信平さんの志の生きていた頃の『文芸春秋』であったら、まず田母神問題が起こったら、田母神氏に原稿を依頼したはずです。それが田母神批判を石破元防衛大臣に書かせている。・・・『雑誌のベクトルが変わったな』という印象を受けましたね。」(p58)

そのまえに、八木秀次氏がこう語っておりました。

「問題なのは、事態が好転した結果、対立軸を際立たせる必要が薄れてきたのではなく、戦う相手は依然として存在しているにもかかわらず、少なからぬ論壇人が、政治家や官僚、マスコミによる事実を曲げてまでの摩擦回避や先行譲歩、事なかれ主義を『現実主義』として追認していることです。」(p56)


うん。菊池寛や池島信平のような編集者がいない。
ただ。一行書くとするなら、そうですね。
それにしても、「日本を讒する人々」の鼎談は面白いなあ。
「知的なおもしろさの発見」と、指摘したくなります。
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神輿と年齢。

2010-07-11 | Weblog
7月17日に神輿(みこし)渡御。
晴れるといいなあ。
役員なので、当日の会計さんや接待さん交通さんへの依頼にまわりました。
これは、神輿のあとについて寄付を受け取ったり、飲み物をふるまったりする役で、
直接には神輿をかつぎません。そのかたがたに役をお願いにまわる。
もう、年だから勘弁してくださいというのが、あります。
親族が亡くなって49日前だから、一年たたないから。というのもあります。
もう30分も歩けないよ。というのもあります。
まあ、高齢化でいろいろあります。
さて、神輿の歌の最初の練習も、この10日にありました。
年齢層が幅広いのですが、そのままに高齢化の波がじわじわ。
ということで、疲れるという話題になったりします。
すると、定年をむかえてもう何年かたっておられる方が、そりゃ
年々疲れが増すのは、年のせいだよ。と教えてくれます。
まあ、そういう話をしているわけです。
そして、ビールや酒を飲んで、神輿の歌を唄って解散。

さてっと、窪田空穂全集月報の話。
月報28に角川源義氏が「完結にあたり」という文を書いておりました。
そこに井上靖氏が登場しておりました。
文壇のゴルフ大会の話からはじまっておりました。

「・・珍しく井上靖さんが見えていた。井上さんは癌の疑いで、年の暮に入院されていた。せっかく来たのだから、雨のあがるのを待ってやろうということになり、癌の疑いから解放された井上さんが晴々しい顔付きで、死を意識した心境を話されていた。・・・・その話のついでに、とつぜん井上さんは、日本経済新聞から正月元旦の原稿を頼まれて書いたのだが、元日になってみると、自分の原稿がはずされていた話をされはじめた。内心面白くなかったので、どんな原稿が自分のかわりに入っているのか読んでみる気になったというのである。窪田空穂さんの『九十歳賀すべし』が予定のページを飾っていた。読むうちにすっかり感動し、自分が編集者であったら、どんな有名人の原稿でも、はずして掲載する決意をしただろうと、爽やかに話されていた。」


そこで、全集別冊の「窪田空穂資料」をひらくと、そこにありました。
ということで、「九十歳賀すべし」を途中からすこし引用。

「・・・九十歳になって顧みると、最も切実に老を感じさせられたのは五十台であった。四十台には菲才(ひさい)の私も、今が年盛りだと思えた。私が母校の一講師にされたのは四十台にはいってで、何事も立ち遅れている、今から勉強して、取り返しをつけようと思った年台であった。私は老学生の気になって、むきに勉強した。勉強していると十年は短かった。しかし根気の衰えを感じさせられる場合が多く、事毎に若い頃と比較して嘆息させられた。六十台になると、五十台は良かったなあと思った。七十台になると、六十台は良かったなあという嘆息は出たが、同時に諦めもついて来た。人間の定命(じょうみょう)には限度がある。七十台は植物でいうと、花が咲いて散り、実となる時だ。どんな農夫でも、また植木屋でも、その時になって肥料をほどこす者は無い。無能は無能なりに、相応した収穫をすべき時だと諦めがついて来たのである。八十台はその延長であった。人間七十台までだな、としみじみ思わせられた。私などのして来たような事でも、がまんと無理をしなくては何も出来ない。何をしてもすぐ疲れる。厭になる。結局、何も出来ないのである。」

そして最後は、

「・・・寿命など、我が物に似ているが、結局わが物ではなく、手のつけられない物である。言いつづけると愚痴めくから止める。九十歳賀すべしである。(昭和41年1月1日「日本経済新聞」)」
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全集購入理由。

2010-07-10 | 他生の縁
古本の全集を買おうとしたのでした。
窪田空穂全集。
まず、自分で自分を説得することからはじまります。
まずもって、全集を買って読んだためしがない。
それでも、これは買うことがよいのだと、自分で自分に説得を重ねるわけです。
これは、持っていることに価値があるのだと、説得。
少なくとも、最低3つぐらいは理由をつける。
その時はどうだったか。

はじまりは、慶応義塾出身の山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)に登場した窪田空穂『現代文の鑑賞と批評』。
これが何とも、角川書店の『窪田空穂全集』第十一巻所収となっておりました。

つぎに、私が思ったのは、どんなことか。
買いたいとなると、何でも理由をつけてしまうのが必要です。
りっぱな理由づけがあれば、購入後の放置にも寛容でござる。
ということで、2つめの理由はこうです。

コロンビア大学でドナルド・キーンさんの日本文学の角田柳作先生がおられました。
司馬遼太郎氏は「街道をゆく」の39「ニューヨーク散歩」のなかで

「この人については他に参考文献がなく、従ってキーンさんの記憶に頼るしかない。いかにも明治人であった。たとえば、自然な謙譲さ、頑質なばかりの地味さ。また禅の説話のなかの人のように名利に恬淡としていたこと。存在そのものが古典的日本人のエキスのような人でありながら、日本に住むことなく・・・・すばらしい学殖と創造心をもちながら、著作を持つことに無頓着だったこと。理由は『私はまだ生徒ですから』というのが口癖だったこと。このため母国では無名だったこと。」

とあります。その角田柳作先生を知ろうとしても、私にはしょせん無理だとあきらめておりました。ちなみに角田先生は明治十年(1877)群馬県生まれで、明治の東京専門学校(早稲田大学の前身)の出身だった。在学中、坪内逍遥の講義をきいた。とも司馬さんは記しております。

角田柳作先生を知る事ができなくとも、同年の人なら。
と私の思いが動きました。というのも、
窪田空穂氏は明治10年(1877)長野県生まれ。
そして明治28年に東京専門学校文学科入学。
という経歴の持ち主。
窪田空穂は歌人・国文学者で早大教授でありました。
角田柳作先生と同時代人なのであります。
こりゃ、全集を買う動機としては説得力があります。

つぎ3つめ。あとひと押し。
岩波文庫に入っている窪田空穂の解説を大岡信氏が書いているのが、
まことに印象的だったのであります。


かくして、古本全集を購入。
そして、慶応義塾出身の黒岩比佐子著「編集者国木田独歩の時代」を読むまでは、この全集が家で埃をかぶっていたというわけです。

さらには、なぜこんなことを書いているかといえば、慶応出身の松井高志さんの最新コメントが入っていたからにほかなりません(笑)。
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空穂全集月報。

2010-07-10 | 前書・後書。
黒岩比佐子著「編集者国木田独歩の時代」(角川選書)を読んでいたら、
p232に窪田空穂全集の月報17からの引用がありました。
それで。
じつは、以前私は、窪田空穂全集を古本で購入してあった。
でもね、全集を購入して、一冊しか読んでいなかった。
という、経緯がありまして、
それで、おもむろに全集をひろげて、函からだして
やおら、月報をひろげていったわけです。
それが、全集の巻と月報の番号とが別で、
結局は、全部の月報を取り出してみました。
なんと、月報17だけが、私が買った古本全集には欠けていた(笑)。
ほかの、月報は全部揃っていたというのに。
こりゃ、困ったなあと思いながらも、昨夜はとりあえず、月報を拾い読み。
楽しみ。それはこの月報が充実していたということ。
それは、月報という裾野から窪田空穂全集の稜線を望み見ているような
そんな、昂揚感が味わえる歓び。とでもいったらよいのでしょうか。
余りに、月報が幅広いので、
ここは、ちょいと細部のみを
まずは、引用してみましょう。


窪田空穂は1967年(昭和42年)に91歳で亡くなっております。
全集の第一巻付録の月報1に、こんな箇所がありました。
それは吉田精一氏の文
「窪田さんの詩境に、ひたひたと心のよるようになったのは、私の場合五十歳を越えてからである。じみで、何気ないようでいて、神経は細かく、精神は柔軟で、しかも歌いぶりがまことに自由である。息張らずに、嘱目の自然や、身辺雑事に材をとって、感傷や詠嘆をこえた境地に、人生を味わい、生活を見きわめようとする。深く滋味を蔵した歌風というべきもので、あるいは窪田さんの、三十歳代における・・現役の文人でもあった経験が、冥々の中に歌人としての窪田さんのどくとくな詩境をやしない、確立したのではなかろうか。」

また同じ月報1の河竹繁俊氏の文には
空穂氏の言葉が引用してありました。
「ある時、私が学校へ行きはじめて間もなくのこと。例の物やわらな、しかし怖い伯父さんのようなお話ぶりで、『君はいくつになるか知らないが、まァ人間も四十にならなければ本は読めないものだよ』と言われた。これが今もって頭にのこっている。・・あるいは先生ご自身のことでもあるかもしれないが、私にはまったくピタリで、大いに反省させられた。・・いわば中年からの眼到心頭だったわけだが、自分の行く道を教えられたような気がしたのは、まったく空穂先生の学恩? といってもよい。・・・」

また、第11巻付録の月報2。そこに浅見淵氏の文がありました。
そこから、

「万葉、古今、新古今と、専門の短歌の他に、空穂先生には注釈書も多いが、ほとんど四十代で早稲田の教師になってからの勉強であること、当時は国文科は学生が少なく、私塾のような趣があって・・そんなふうなことを楽しげに喋られた。・・・そうかと思うと、国木田独歩の民友社から出た『武蔵野』がわずか二十五円の買い切りであったこと、その独歩の生前の総収入はいまの流行作家の一作の稿料にも及ばなかったことを挙げ、昔の文士の貧しさを傷まれた。・・・」


ここまで引用したら、窪田空穂全集第11巻「近代文学論」のなかの国木田独歩の関連文を引用したくなってきました。
そこの『独歩の文章』(p70~72)にある、こんな箇所


「独歩の談片で、今なお私の記憶に残っている言葉がある程度ある。・・・吉江喬松と一しょだったと思う。編集室とはいっても普通の住宅の二階で、畳の上へあぐらをかき合ってのことである。独歩は言う。
『文芸ってものは、人生の上からいうと、限界のある小さなものだよ。人生の真を表現するなんていうが、あれは人生ってものを知らない時にいうことで、実行すると失望するに決まっている。失望したらとっとと棄てて、むきになって人生と取っ組むんだね。それをしている中に、文芸ってものもまんざらな物じゃないと思い出して、もう一度拾いあげた時に、初めて文芸になってくるよ。大体そうしたものだね』
これが独歩の文芸に対する評価であった。言葉はちがっていようが、主旨はこのとおりであった。」

独歩は若くして作家としての名声を博するまぎわに亡くなっておりますが、
空穂は91歳まで生きたのでした。空穂の歌集に、独歩の言葉がこだましているような気分で、こんど読みはじめてみようと思う。うん。ということで、岩波文庫の「窪田空穂歌集」をまずはひらいてみよう。
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四十五十。

2010-07-09 | 詩歌
杉山平一の詩集「青をめざして」(編集工房ノア)に
こんな詩がありました。

    かもしれない

  無い
  いや あるかもしれない

  来ない
  いや 来るかもしれない

  居ない
  いや 居るかもしれない

  当らない
  いや 当るかもしれない

  かもしれない
  かもしれないの五十年

  だった


そういえば、論語に四十五十について語られた言葉がありました。

子日く、後生畏るべし。いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや。
四十五十にして聞ゆる無くんば、これ亦畏るるに足らざるのみ

この現代語訳は

「先生がいわれた。『若い者は恐ろしいぞ。将来、年少の人たちが今日の自分の学徳に及ばないなどとどうしていえようか。しかし、四十歳や五十歳になっても評判が聞えてこないようなら、これは恐れるに足らないな』。」

それじゃ、もうひとつ詩を引用してみたくなります。
黒田三郎の詩。

    あす

 うかうかしているうちに
 一年たち二年たち
 部屋中にうずたかい書物を
 片づけようと思っているうちに
 一年たった

 昔大学生だったころ
 ダンテをよもうと思った
 それから三十年
 ついきのうのことのように
 今でもまだそれをあす
 よむ気でいる

 自分にいまできることが
 ほんの少しばかりだとわかっていても
 でも そのほんの少しばかりが
 少年の夢のように大きく
 五十歳をすぎた僕のなかにある


論語には、「・・四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。・・」とあるそうですが、これを渡部昇一氏は「五十になれば天命を知るというのは、『自分の仕事はこれだったか』とはっきり気づくことである。」と語っておりました。

論語と現代詩と、四十五十。
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なにげなく。

2010-07-08 | 詩歌
ちょくちょく、なのでいまさら言上げするまでもないのですが、
本は読まない方です。すぐに嫌になってしまう。
昨日もそうでした。それでも、嫌になった時には、詩集をひらく。
というのが、なんとなく自分で身につけたしぐさのようになっております。
というので、本棚から、詩集を取り出す。
そういえば、最近詩集をひらいてなかったなあ。
などという、思いも浮かんだりします。
さてっと、身近にあったのが、杉山平一著「青をめざして」(編集工房ノア)。
短い詩が並びます。
そそくさと読んだ覚えがあるのですが、何の気なしにひらく詩集というのもいいものです。
以前ひらいたときに、気になった詩がありました。

     辞書

   辞書の中に迷いこんで
   行きつけないで
   よその家へ上りこんで
   紅茶をのんで帰ってきた

そういえば、この頃は、本を読んでも、辞書で調べているような気分になることがしばしば。今回詩集をひらいて最初の方にある詩が気になりました。


      繰り返し

   カチカチカチカチ
   時はきざんでいるが
   進んでいるのではない
   繰り返しているのだ
   父は私であり
   私の子は私だ


 その次の詩は、というと、

    思想

   いくら眼鏡をぬぐっても
   よく見えない

   くもっているのは
   目の方だった

う~ん。メガネをかけているせいか。何か気になります。
こういう短い詩をひらいていると、こちらの頭の中のページがめくられているような、何とも気分がめくれるような気がいたします。

そうそう、こんな詩がありましたっけ。

    郵便受

  引越しをしました。新しい住所です。
  郵便受けも新しくしました。よいお便りを待っています。


うちの郵便受けは、といいますと、大工にこしらえてもらった木製で二本の柱が足がわり、それが土に触れるところから腐ってきておりました。ぐらぐらします。でもそのままにつかってる。ペンキがはげているのに、それもそのまま。住所は番地の番号のみ。アロエが植えてあったのが伸び放題で、梅雨時は、雑草とアロエの勢力争い。そのわりには、葉書や手紙は来ません。まわりをきれいにしなければ、手紙も来ませんよ。といわれそうな玄関脇です。
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言葉を探す740円。

2010-07-07 | 短文紹介
新聞の雑誌広告で気になって、
「正論」2010年8月号を買いました。740円。
読みたかったのは、金美齢(きんびれい)氏の
「自助精神なき『民意』に寄り添う政治家を疑え」
という9ページの文。これだけで私は十分でした。

740円で何を買ったのかというと、
言葉でした。こうはじまります。

「鳩山由紀夫氏が八ヵ月半で政権を投げ出した。『政治とカネ』の問題や米軍普天間飛行場移設をめぐる混乱の責任をとった形だが、これを『政権投げ出し』ときちんと報道した新聞、テレビはなかった。思い起こせば安倍晋三元首相の退陣のとき、無責任な政権投げ出しとあれほど安倍氏をバッシングした同じマスコミとは思えない二重基準である。・・・・わが国の政治の混迷はこうしたマスコミの恣意に国民が流されてきたことを抜きには語れない。マスコミは常に社会に被害者、弱者を過剰につくり出し、存在を際立たせ、その味方であることをもって自らのヒューマニズムの現れとしてきた。国民の権利の擁護は高らかに謳い上げても、国民に義務を求める忠言は少ない。マスコミは読者、視聴者たる国民に嫌われたくないゆえに迎合し、政治家もまたそんなマスコミと通じて伝えられる『民意』に阿ることで、実は『国家』と『国民』の根幹を損なってきた。彼らにとって大事なのはわが国ではなく、わが党であり、わが議席なのだ。・・・」

こう9ページの文ははじまっておりました。
長田弘の詩に「新聞を読む人」があります。そこに

「 新聞を読んでいる人が、すっと、目を上げた。
  ことばを探してしるのだ。目が語っていた。
  ことばを探しているのだ。手が語っていた。
  ことばを、誰もが探しているのだ。 
  ことばが、読みたいのだ。
   ・・・・・・・・・・・・・・・
  人生といえるものをじぶんから愛せるだけの。」


さて、また「自助精神なき『民意』に寄り添う政治家を疑え」から引用してゆきましょう。

「国民の『生活が第一。』というスローガンを掲げた民主党が昨夏の総選挙で大勝したのも、国民の多くが『国家』を意識することを忌避し、『手当』『保護』『救済』といった自らの権利の充足を求めた結果である。受益と負担の公平を考えれば、バラ撒き政策に対するNOという声が上がって然るべきものがそうならなかったのは、ひとえに国民に『自助』の精神が薄れ、『公助』の大盤振る舞いを喧伝した民主党のポピュリズムを歓迎したからだ。しかし民主党が約束した『公助』も、日本という国がしっかり立っていてこそ為し得るものである。・・・・自助の精神もなく、共助の気持ちもない者に人間としての信頼関係や絆は生まれない。」


あとには、またマスコミが登場しております。

「ここで私は、戦前、国家への献身を煽ったのも、戦後の過剰な自由を煽ったのもマスコミ、とくに朝日新聞であったことを指摘しておきたい。時計の振子のように大きく振れるマスコミ議論が日本人に及ぼしてきた影響は大きい。民主主義を病膏肓に入らせる元凶の一つである。・・・・民主主義が衆愚政治に陥るときの大きな引き金がマスコミであることを国民は認識しなければならない。国民が本当に自分の頭で考え、自覚的に判断しないかぎり、民主主義は衆愚に陥る。その恐れを持つことが難病を重症化させない唯一の方策である。」

 また分かりやすい具体的なこんな指摘もあります。

「国会議員一人に一年間でどれほどの税金が投入されているか。諸経費を含め約一億円だという。参院議員の任期は六年である。したがって参院選で確かに一票を投じることは、その候補者に六億円の税金をかけることなのである。・・自分の投票行為が一番の無駄遣いになるかもしれないのである。」


さて、最後の方では、民主党について、こう語られておりました。

「しかし、すべての人に対して機会は平等であるべきだが、結果の平等は保証すべくもない。個人がいかに生き、いかに努力するかによって結果は用意されているからだ。平等を強いるとすれば、結果的に低位のほうにすべて人間を無理やり合わせることになる。それで人々は生き甲斐や働き甲斐を感じられるか。菅首相が語った『最小不幸の社会』とは、実は人間の幸福追求の意欲を殺ぐものではないか。政治に携わろうとする者が何を語るか。国民がそれを見極め、緊張感と責任感をもって『国と個人のあるべき関係』に思いを致しながら一票を投じること」


ああ、そうそう、ちなみに長田弘の詩「新聞を読む人」というのは、
朝日新聞97年10月15日に掲載されたものでした。

「ことばを探す」。740円の9ページ。
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切り詰める。

2010-07-06 | 手紙
竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)に「手紙と名文」という箇所があります。
そこにパスカルの有名な言葉がちゃんと引用してありました(p142~)。

「この手紙がいつもより長くなってしまったのは、もっと短く書き直す余裕がなかったからにほかなりません。(パスカル「プロヴァンシアル」第十六の手紙)」

それなら、清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)も引用しておきましょう。

「文章のイロハを学びたいという方は、いろいろなチャンスを利用して、精々、手紙を書いた方がよいと思います。電話で用が足りる場合でも、手紙を書くべきでしょう。
面倒だ、というのですか。いや本当に面倒なもので、私にしても、毎月の原稿が一通り済んでから、まるまる一日を使って、何通かの手紙を書くことにしています。原稿料とは関係ありませんが、実際、手紙を書くのは一仕事です。しかし、それも面倒だ、というようでは、文章の修業など出来たものではありません。」(p68)

今度、黒岩比佐子氏が「堺利彦」の評伝を出版されるとブログで書かれておりました。
うん、そうすると堺利彦著「文章速達法」(講談社学術文庫)を思い浮かべます。

そこに「省略」について書かれている箇所があります。

「元来、文章はすべて事実の略記だということもできる。事実そのままは無限無究のものである。大にも際限がなく、小にも際限がない。そこでその無際限のうちから、要点の部分部分を抜き取って、それを排列し、接続し、組み合わせたのが人の思想で、その思想を外に現したのが文章である。故に文章の根本生命は省略にあるということもできる。例えば写真を撮る。写真は実物をそのままに写すというけれど、実はわずかにその一部分を写すのである。・・・ところで要点の選び方が最も大切なことになる。要点とは必ずしも重大な事物ばかりではない。場合によっては、極めて些細な事物を要点として挙げることができる。例えば、大火事の記事を作るに、渦巻き上がる黒煙の間に、悪魔の舌のごとき深紅の炎が閃き出るというようなことも必要であろうし、蒸気ポンプのけたたましいベルの音が群集を押し分けて響きわたるというようなことも必要であろうが、その他の大事件、中事件、小事件をいちいち細かに書き立ててみても、ただ文章がごたごたするばかりであるから、それらの雑件はほんの二三句に概括して略記しおき、ただ一つ、裏長屋の路次口から寝巻に細帯という姿で飛び出した一人のカミさんが、左の手には空の炭取を一つ提げて、右の手には生れたばかりの赤ん坊を逆様に抱いていたというようなことでも、少し委しく描きだしたら、このとるにも足らぬ些細な事件が、あるいはかえって火事場の混雑を読者に感じさせる、最も有効な材料になるかも知れぬ。・・・」(~p59)

じつは、この箇所を〈狐〉さんが清水幾太郎著「私の文章作法」の文庫「解説」で見事に引用しておられるのでした。

最後はどうしましょう。

薄田泣菫「完本 茶話」(冨山房百科文庫・下)には向井敏の「解説」が掲載されておりました。その解説文の最後は、どうしめくくっておられたか。

「『演説の用意』と題するコラムのなかに、『長い文章なら、どんな下手でも書く事が出来る。文章を短かく切り詰める事が出来るやうになつたら、その人は一ぱしの書き手である』という一節が見える・・・・」
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簡潔な。

2010-07-05 | 他生の縁
黒岩比佐子著「編集者国木田独歩の時代」(角川選書)を読んで、そこから国木田独歩へと読書をひろげられればよいのでしょうが、そこまではいかずに、とりあえず、黒岩比佐子さんの簡潔な心地よい文からの連想を書きこんでおきたいと思います。

窪田空穂全集第十一巻に、「独歩の文章」(p70~72)がありました。
こうはじまります。

「国木田独歩という人は、好んで物を言う肌あいの人ではなかった。饒舌というのとは明らかに反対な人で、人なかにいる場合でも、独り書斎にいる時のように、沈痛な面持ちをして、何か考えているような様子をしている人であった。しかし何らかの刺激で口を開くと、すぐむきになって、いわゆる赤心を披瀝して物を言い出すのであった。熱をこめた簡潔な言葉は甚だ魅力的で、聞いた者には忘れられない印象を与えるところから、時とすると、『独歩の例の毒舌で』などと、さも饒舌家ででもあるかのように評されることもあった。そうした独歩の談片で、今なお私の記憶に残っている言葉が、ある程度ある。・・・・
独歩は言う。
『文芸ってものは、人生って上からいうと、限界がある小さなものだよ。人生の真を表現するなんていうが、あれは人生ってものを知らない時にいうことで、実行すると失望するに決まっている。失望したらとっとと棄てて、むきになって人生と取っ組むんだね。それをしている中に、文芸ってものもまんざらな物じゃないと思い出して、もう一度拾いあげた時に、初めて文芸になってくるよ。大体そうしたものだね』これが独歩の文芸に対する評価であった。言葉はちがっていようが、主旨はこのとおりであった。」

 そして島崎藤村の『破戒』について語る箇所があります。

「島崎藤村の『破戒』が刊行された時、そのころとしては珍しい祝賀会があった。場所は麻布の竜土軒(りゅうどけん)というフランス料理店で、文士の好んで小会合をする店であった。私は出席しなかったが、出席した前田晃君から、その日独歩が『破戒』の文体に対してした批評を聞いた。独歩の言うところは、『破戒』の文章は冗漫だ。あれだけの内容を自分が書くとしたら、あの三分の二で十分だ。三分の一は切り捨てたほうが効果的だというのである。さらに具体的にいうと、藤村はよく『・・・・なので』という言い方をする。あんな歯切れの悪い、思わせぶりな言い方は、明らかに悪癖だ。何だって『・・・である』とはっりき言い切らないのか。その心持が文章を冗漫にしてしまうのだ。というのであったという。」


ここで、あらためて思い浮かべるのは清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)のこの箇所

「日本文では、簡潔な書き方というのが、或る特別な重要性を持っているように考えられます。簡潔という美徳を大切にしないと、私たち日本人は、情報の伝達という点で外国人に大きく負けてしまうような気がするのです。」(p125)


黒岩比佐子さんは、編集者国木田独歩を語りながら、独歩が愛した簡潔さを、ご自身の本に反映させていらしたのじゃないか。私はそれを黒岩さんの文章を読みながら、味読していた気がいたします。
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空穂と『独歩集』。

2010-07-04 | 他生の縁
窪田空穂著「わが文学体験」(岩波文庫)に
独歩の本を読んだ感想が書かれております。

「電報新聞社にいた頃のことである。私は一社務として、時々新刊書の紹介を書かされたことがある。そのうちに『独歩集』があった。国木田独歩は『武蔵野』によって知っていた。水野が推称措かない書で、私は水野の持っていたので読み、その清新さに感心していた。その人の短編小説集で、初めて見る小説の方が多かった。
私は眼を見張って読み終り、驚嘆を久しゅうした。すべて清新な小説である。短編ながら捉えられている人間はすべてくっきり浮かびあがっている。理想を失って哀感をもちつつ現実に生きようとする人、準動物的な人、孤独に安んじて自由に生きようとする人、大自然の中に生きる人間の哀感、それらさまざまな人間が、事件を少なくし、歯切れのいい文章で浮んでくるのである。わが小説界に初めて見る絶好の短編集だと感じた。新刊紹介であるから簡単を期して書いたが、やや長いものとなった。・・・」(p110)


その書評は、窪田空穂全集第十一巻「近代文学論」に、そのまま掲載されておりました(p65)。ちなみに、ここで、なぜこの全集が登場するかといいますと、じつは山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)で、この窪田空穂全集第十一巻にある「現代文の鑑賞と批評」が紹介されており、どうしても読んでみたくなって、この巻だけ読んだというわけで、私の本棚にあったというわけです。その「現代文の鑑賞と批評」でも国木田独歩の文章が紹介されておりました。ですが、同じ巻の「近代作家論」がこれまた面白く読めるのでした。

さてっと、黒岩比佐子著「編集者国木田独歩の時代」(角川選書)には
独歩から空穂への手紙が引用してあり、それはそれは一読感銘深い箇所でありました。
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つげ。ゲゲゲ。

2010-07-03 | 短文紹介
つい、古本で「マンガ名作講義」(情報センター出版局)があったので、買っておきました。
さて、そこに曽野綾子さんが、つげ義春の「ねじ式」を取り上げておりました。もっとも、3頁ほどです。その最後は、ここに引用しておいてもよいと思います。

「すべてがごっこの時代だった。大学紛争では警官だけが命をかけ、学生側は安全圏で闘争ごっこをして、『時代を闘った』などと思ったのである。主人公はそれ以来ネジで止めた腕で生きる。きつく閉めるとしびれるのはそのせいである。
つげ義春氏は、実に多くのものを活写し、予見していた。
生臭い言い方をすれば、日米関係も、憲法解釈も、民主主義も、大学紛争も、社会主義も、個人の自由も、日本人の哲学と勇気のなさも、病んだ心も、すべてこの作品の中ですくい取っていた。
私が優れた短編小説と同様に漫画に深い尊敬を抱いたのは、つげ氏のこの作品と、水木しげる氏の諸作品を通してであった。」(p66)

さてっと、「マンガ名作講義」で
「ゲゲゲの鬼太郎」を取り上げていた多田道太郎氏の文も引用しておきたくなります。

「ものに驚いたとき、『ゲッ』と叫ぶ若い人を知っています。もとは反吐(へど)を吐くときの嫌な擬音だったのに。『鬼太郎』ではご承知のように、幼きヒーローをたたえる草木虫魚の叫び声です。そういえば年配の俳人栗林千津さんにこんな句があります。

   ビアガーデンのガ行さきざき孤独なり

光栄にもぼくと同年生まれの水木しげるさんは、不幸にも戦場で片腕を失いました。初めて鬼太郎が『週刊少年マガジン』に登場した『手』(65年)は、切り落とされた手首がよみがえり、吸血鬼のホテルに放火して妖怪をやっつけるはなしです。
目玉も手と同じように孤独だったのではないでしょうか。ラバウルの海岸の崖っぷちでぶらさがっていた水木さんの手の物語は戦慄的です。『水木しげるのラバウル戦記』(94年、筑摩書房)のコピー『地獄と天国を見た水木上等兵』に深くうなずいてしまったぼくでした。孤独な彼の目玉は、双眼鏡で海から来る敵を見張りながら、ふと気づくと、逆に陸の方、まるで天国のような景色に見とれていたのです。・・・・・・時間的には太古から敗戦後の昭和の現代まで、空間的にはちゃぶ台から南方の島まで、自由自在に駆けめぐっているのが仮想現実顔負けの仮想マンガ『ゲゲゲの鬼太郎』です。」(p197~198)

ちなみに、多田道太郎氏は1924年生まれ。
そうして、曽野綾子氏は、1931年生まれ。
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素顔の独歩。

2010-07-02 | 短文紹介
黒岩比佐子著「編集者国木田独歩の時代」(角川選書)に、
独歩の性格が、この本の細部に点在しているので、ひろってみました。

「独歩の晩年および没後に刊行された本の装幀は、ほとんど(小杉)未醒が手がけていて、逆に未醒の本には独歩が序文を寄せている。未醒が結婚する際、媒酌人を務めた独歩が徹夜で一篇の小説を執筆して、その原稿料を未醒の結婚祝に贈ったという話は、友人たちの間では有名だった。未醒に初めての子供が生まれたとき、名付け親になったのも独歩である。」(p103)

次は、坂本紅蓮洞の回想

「その頃は、近事画報社の編集所は全くその営業部と離れて、故人(国木田独歩)の住家即ちその編集所であった。これらのことからでもあろう、われわれ編集所へ行って事をするのは、朋友の処へ遊びに行って何かをするような気持であって、あえて儀式張るの、形式がどうのということもなく、行って自分だけの仕事をすればよいので、出勤、退出の定まった時刻もなければ、一定の休日も無い、行きたい時に行って、帰りたい時に帰り、休みたい時に休むというぐあいで、一見不取締で無茶の観があるが、それで少しも編纂事務が遅滞するということもなかった。(中略)要するに編集長としての故人は威張るでもなければ、そうかといってお世辞をいって社員を働かせようとするのでもなく、いわゆる天真爛漫で、いうべき批評は必ずする、腹の中で、こうしそうなものだ、と含んでることはない、思えば必ず言うという有様であった。」(p175~176)

「未醒によれば、独歩はいつも社員を誰彼となく怒鳴ったり、皮肉を言ったりしていた。けれども、実は気が弱くて優しい人間だということを、社員はみなよくわかっていたので、独歩から何を言われても悪感情は抱かなかったそうだ。ときには、問題を起こした社員を解雇せざるをえないこともあったが、独歩はそれを本人に言い出せず、七日も十日も気をもんで、ずるずる延びるということもあったらしい。そのあげくに、いよいよ困ると自分は逃げ出してしまい、他の人に頼んで、代わりに話してもらったという。独歩のそうした人情家の面が、会社の経営が悪化した際には裏目に出た、ともいえるだろう。」(p180)

「当時、鎌倉に住んでいた独歩は、最初の何回かは参加していない。しかし、1902年12月に東京に引っ越してからは、会の常連メンバーになった。蒲原有明は『我々の会合は独歩君を迎えることになって、急に賑わしくなった。独歩君は柳田君と共に談話の名人であった』と述べている。龍土会の主役は独歩であり、中心メンバーは蒲原有明、田山花袋、柳田國男、武林無想庵、小山内薫、小島洒風らで、中沢臨川は独歩が連れてきた。さらに、岩野泡鳴、小栗風葉、生田葵山、島崎藤村らも参加した。それから・・・」(p202)

「独歩が座談の名手で人々を魅了したということは、龍土会のところでも触れた。窪田空穂は、『調子づいてくると、警句が口を衝いて出てきて、そのまま消えゆかせるのはもったいない感のするものが多かった』と回想している。独歩は大勢を前にしての演説も得意だった。」(p285)

「南湖院での独歩は、書かねばならない原稿もなく、ただ病気を治すことに専念していればよかった。だが、病院側から見た彼は、まったく困った患者だったようである。内緒で煙草を吸うかと思えば、こっそり病室から抜け出して、釣りを楽しんでいることもあった。院長の高田によれば、独歩はわがままで、医者の言葉も看護婦の言葉も一切退け、病気によくても悪くても、すべて自分の思い通りのことをしたという(「新潮」1908年7月15日号)。高田はほとんど頼むようにして、安静が大事なことを説いたが、独歩は聞く耳をもたなかった。
もう一つ、看護婦たちを驚かせたのは、独歩がすぐに癇癪を爆発させて治子を殴ることだった。前にも書いたように、独歩が治子に暴力をふるうのは、それが初めてではなかった。現在ではドメスティック・バイオレンスといわれて問題になるところだが、明治期に夫が妻を殴るのは、それほど珍しいことではない。・・・夏目漱石も妻の鏡子を殴っている。独歩の性格をよく知っている治子は、殴られるままになっていたという。」(p298)


編集者の国木田独歩を追いかけながらも、その細部に独歩の輪郭を鮮やかにしのびこませ、読む者に独歩像を組み立てさせてゆきます。独歩が編集した雑誌をひらいて見てゆく場面は、それこそ黒岩比佐子氏の独壇場であり、各雑誌紹介の際は、たのしくページをめくりました。ですから、たとえば「『近事画報』第百六号を見たとき、一瞬目を疑った。それまで美しい色刷りの表紙画が忽然と消え失せ、無地の上に題号、発行年月日、号数の文字だけが印刷されていたからだ。印刷用語で言えば、『初校ゲラ』の段階と同じ状態だったのである。」(p246)と語られる場面など、はたして黒岩比佐子さんは古書店で、この本を購入してご覧になったのか、それともどこかの図書館でご確認になったのか、などという、別な連想をついついしてしまうのでした。ちなみに「古書の森逍遥」では第百六号は手にしていないようでした。
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読了。

2010-07-01 | Weblog
黒岩比佐子著「編集者 国木田独歩の時代」(角川選書)を読了。
ゆっくりと一章づつ読もうとしていたのですが、ついつい最後までいってしまいました。そして、黒岩比佐子さんの最新ブログを読みかえす。
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