和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

素顔の独歩。

2010-07-02 | 短文紹介
黒岩比佐子著「編集者国木田独歩の時代」(角川選書)に、
独歩の性格が、この本の細部に点在しているので、ひろってみました。

「独歩の晩年および没後に刊行された本の装幀は、ほとんど(小杉)未醒が手がけていて、逆に未醒の本には独歩が序文を寄せている。未醒が結婚する際、媒酌人を務めた独歩が徹夜で一篇の小説を執筆して、その原稿料を未醒の結婚祝に贈ったという話は、友人たちの間では有名だった。未醒に初めての子供が生まれたとき、名付け親になったのも独歩である。」(p103)

次は、坂本紅蓮洞の回想

「その頃は、近事画報社の編集所は全くその営業部と離れて、故人(国木田独歩)の住家即ちその編集所であった。これらのことからでもあろう、われわれ編集所へ行って事をするのは、朋友の処へ遊びに行って何かをするような気持であって、あえて儀式張るの、形式がどうのということもなく、行って自分だけの仕事をすればよいので、出勤、退出の定まった時刻もなければ、一定の休日も無い、行きたい時に行って、帰りたい時に帰り、休みたい時に休むというぐあいで、一見不取締で無茶の観があるが、それで少しも編纂事務が遅滞するということもなかった。(中略)要するに編集長としての故人は威張るでもなければ、そうかといってお世辞をいって社員を働かせようとするのでもなく、いわゆる天真爛漫で、いうべき批評は必ずする、腹の中で、こうしそうなものだ、と含んでることはない、思えば必ず言うという有様であった。」(p175~176)

「未醒によれば、独歩はいつも社員を誰彼となく怒鳴ったり、皮肉を言ったりしていた。けれども、実は気が弱くて優しい人間だということを、社員はみなよくわかっていたので、独歩から何を言われても悪感情は抱かなかったそうだ。ときには、問題を起こした社員を解雇せざるをえないこともあったが、独歩はそれを本人に言い出せず、七日も十日も気をもんで、ずるずる延びるということもあったらしい。そのあげくに、いよいよ困ると自分は逃げ出してしまい、他の人に頼んで、代わりに話してもらったという。独歩のそうした人情家の面が、会社の経営が悪化した際には裏目に出た、ともいえるだろう。」(p180)

「当時、鎌倉に住んでいた独歩は、最初の何回かは参加していない。しかし、1902年12月に東京に引っ越してからは、会の常連メンバーになった。蒲原有明は『我々の会合は独歩君を迎えることになって、急に賑わしくなった。独歩君は柳田君と共に談話の名人であった』と述べている。龍土会の主役は独歩であり、中心メンバーは蒲原有明、田山花袋、柳田國男、武林無想庵、小山内薫、小島洒風らで、中沢臨川は独歩が連れてきた。さらに、岩野泡鳴、小栗風葉、生田葵山、島崎藤村らも参加した。それから・・・」(p202)

「独歩が座談の名手で人々を魅了したということは、龍土会のところでも触れた。窪田空穂は、『調子づいてくると、警句が口を衝いて出てきて、そのまま消えゆかせるのはもったいない感のするものが多かった』と回想している。独歩は大勢を前にしての演説も得意だった。」(p285)

「南湖院での独歩は、書かねばならない原稿もなく、ただ病気を治すことに専念していればよかった。だが、病院側から見た彼は、まったく困った患者だったようである。内緒で煙草を吸うかと思えば、こっそり病室から抜け出して、釣りを楽しんでいることもあった。院長の高田によれば、独歩はわがままで、医者の言葉も看護婦の言葉も一切退け、病気によくても悪くても、すべて自分の思い通りのことをしたという(「新潮」1908年7月15日号)。高田はほとんど頼むようにして、安静が大事なことを説いたが、独歩は聞く耳をもたなかった。
もう一つ、看護婦たちを驚かせたのは、独歩がすぐに癇癪を爆発させて治子を殴ることだった。前にも書いたように、独歩が治子に暴力をふるうのは、それが初めてではなかった。現在ではドメスティック・バイオレンスといわれて問題になるところだが、明治期に夫が妻を殴るのは、それほど珍しいことではない。・・・夏目漱石も妻の鏡子を殴っている。独歩の性格をよく知っている治子は、殴られるままになっていたという。」(p298)


編集者の国木田独歩を追いかけながらも、その細部に独歩の輪郭を鮮やかにしのびこませ、読む者に独歩像を組み立てさせてゆきます。独歩が編集した雑誌をひらいて見てゆく場面は、それこそ黒岩比佐子氏の独壇場であり、各雑誌紹介の際は、たのしくページをめくりました。ですから、たとえば「『近事画報』第百六号を見たとき、一瞬目を疑った。それまで美しい色刷りの表紙画が忽然と消え失せ、無地の上に題号、発行年月日、号数の文字だけが印刷されていたからだ。印刷用語で言えば、『初校ゲラ』の段階と同じ状態だったのである。」(p246)と語られる場面など、はたして黒岩比佐子さんは古書店で、この本を購入してご覧になったのか、それともどこかの図書館でご確認になったのか、などという、別な連想をついついしてしまうのでした。ちなみに「古書の森逍遥」では第百六号は手にしていないようでした。
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