黒澤明著「蝦蟇の油 ― 自伝のようなもの」(岩波書店)に、青二才を語った個所があります。
「私は、青二才が好きだ。
これは、私自身が何時までたっても青二才だからかもしれないが、未完成なものが完成していく道程に、私は限りない興味を感じる。だから、私の作品には、青二才がよく出て来る。姿三四郎も、この青二才の一人だ。未完成だが、秀れた素材がある。私は、青二才が好きだといっても、磨いても玉にならない奴には興味はない。」(単行本第五章「用意、スタート」p276)
前回、窪田空穂歌集から、「孫の成人式に」という歌を引用しました。
ここで、また引用を繰返します。
成人のいたく苦(にが)きを知れる祖父いかに祝はんこの男孫
責任を果たしぬべくも真向かひて体(たい)あたりせばたのしみ湧かん
責任は己がこころの生むものぞ果たしえん境(さかひ)身をもちて知れ
危険なき生存あらず二十代三十代は危険を冒せ
記憶せよいま成人の男孫四十とならば惑ひをもつな
ところで、この岩波文庫の「窪田空穂歌集」は2000年4月に第1刷。
その解説は大岡信です。その解説の中に、こうある。
「日本の文学世界の奇妙な癖のひとつは、若年の処女作とか文壇デビュー作のみを過大に重んじ、その後の個々の作家、詩歌人の成熟に対しては、不相応なくらい冷淡無関心になるところにある。与謝野晶子がどれほど『みだれ髪』をうとんじていようと、晶子といえば『みだれ髪』を特別に重んじるというような例は、こまかく見ればいくらでも見出せるだろう。日本文学全体がいつまでたっても青くささを脱け出せないところがあるのと、軌を一にした現象である。空穂のような、前進しつづけた詩歌人についての見方は、とりわけこうした日本人に多く見られる青春讃美の傾向からすると、理解がなかなか行き届かないタイプに属する。・・・・」
ところで、
窪田空穂全集の月報3(第8巻付録)に「空穂談話Ⅲ」が掲載されており、そこに与謝野鉄幹・晶子のことが語られておりました。そこから晶子について語られている箇所。
「晶子さんが、歌会で鉄幹に会って、刺激を受けて、さかんに歌を詠み出した。鉄幹に『ほんとうに思ったことを詠んだら歌になりますか』って、何度も聞いてる。実感があればなんでもいいと、わかったような、わからないような、そういうところから歩き出した人。『みだれ髪』・・・じつに、こりゃあ、おどろかした、みんなを。有名な歌だったが、『清水へ祗園をよぎるさくら月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき』。この『こよひ逢ふ人みなうつくしき』という形をね、しかるべき名流がみなまねしたものだ。魅力のある歌。上田敏が、才女は紫式部と清少納言だというけれども、晶子さんがそのとき生きていたら、もっと有名になりはしないか、なんて批評を書いてる。上田敏という人は信用されていた。この人が言うんだからほんとうかもしれない、という魅力をあの歌集がもった。時代に魅力があった。
歌の数は何万首も詠んでる。何万と口じゃいうけれども、歌を何万も詠んでいるという人は、古来ほんの二、三かぞえられるだけ。やれるもんじゃない。それが口を突いて出てきたらしい。才女に違いない。しかしね、晶子さんの偉かったのは、それでトット、トットと進歩していったことだ。とにかく、それだけ多作をしながら、その上に乗っていると同時に進歩していた。晩年の歌なんか、相当いいんではないかと思う。けれども、晩年のよくなった歌があまり評判にならないで、若いときのおどかしの歌が評判になった。
・・・・・
坂本紅蓮洞という男が、『晶子という女はなにをしても勤まる女だ』と感心していた。待合のお女将をやっても、結構やってのけられる女だというのだ。大勢の子供を育て、学校はみんな最高の学校へ入れてやった。収入は文筆だけれども、なんといっても歌が中心になっている。歌などで稼げるのはたかだか知れたものだ。が、それを結構やりおおせた。与謝野がフランスへ行っているあいだに、自分で『源氏物語』で旅費をこしらえて、一人でノコノコあとを追っていったんだからね。」
「私は、青二才が好きだ。
これは、私自身が何時までたっても青二才だからかもしれないが、未完成なものが完成していく道程に、私は限りない興味を感じる。だから、私の作品には、青二才がよく出て来る。姿三四郎も、この青二才の一人だ。未完成だが、秀れた素材がある。私は、青二才が好きだといっても、磨いても玉にならない奴には興味はない。」(単行本第五章「用意、スタート」p276)
前回、窪田空穂歌集から、「孫の成人式に」という歌を引用しました。
ここで、また引用を繰返します。
成人のいたく苦(にが)きを知れる祖父いかに祝はんこの男孫
責任を果たしぬべくも真向かひて体(たい)あたりせばたのしみ湧かん
責任は己がこころの生むものぞ果たしえん境(さかひ)身をもちて知れ
危険なき生存あらず二十代三十代は危険を冒せ
記憶せよいま成人の男孫四十とならば惑ひをもつな
ところで、この岩波文庫の「窪田空穂歌集」は2000年4月に第1刷。
その解説は大岡信です。その解説の中に、こうある。
「日本の文学世界の奇妙な癖のひとつは、若年の処女作とか文壇デビュー作のみを過大に重んじ、その後の個々の作家、詩歌人の成熟に対しては、不相応なくらい冷淡無関心になるところにある。与謝野晶子がどれほど『みだれ髪』をうとんじていようと、晶子といえば『みだれ髪』を特別に重んじるというような例は、こまかく見ればいくらでも見出せるだろう。日本文学全体がいつまでたっても青くささを脱け出せないところがあるのと、軌を一にした現象である。空穂のような、前進しつづけた詩歌人についての見方は、とりわけこうした日本人に多く見られる青春讃美の傾向からすると、理解がなかなか行き届かないタイプに属する。・・・・」
ところで、
窪田空穂全集の月報3(第8巻付録)に「空穂談話Ⅲ」が掲載されており、そこに与謝野鉄幹・晶子のことが語られておりました。そこから晶子について語られている箇所。
「晶子さんが、歌会で鉄幹に会って、刺激を受けて、さかんに歌を詠み出した。鉄幹に『ほんとうに思ったことを詠んだら歌になりますか』って、何度も聞いてる。実感があればなんでもいいと、わかったような、わからないような、そういうところから歩き出した人。『みだれ髪』・・・じつに、こりゃあ、おどろかした、みんなを。有名な歌だったが、『清水へ祗園をよぎるさくら月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき』。この『こよひ逢ふ人みなうつくしき』という形をね、しかるべき名流がみなまねしたものだ。魅力のある歌。上田敏が、才女は紫式部と清少納言だというけれども、晶子さんがそのとき生きていたら、もっと有名になりはしないか、なんて批評を書いてる。上田敏という人は信用されていた。この人が言うんだからほんとうかもしれない、という魅力をあの歌集がもった。時代に魅力があった。
歌の数は何万首も詠んでる。何万と口じゃいうけれども、歌を何万も詠んでいるという人は、古来ほんの二、三かぞえられるだけ。やれるもんじゃない。それが口を突いて出てきたらしい。才女に違いない。しかしね、晶子さんの偉かったのは、それでトット、トットと進歩していったことだ。とにかく、それだけ多作をしながら、その上に乗っていると同時に進歩していた。晩年の歌なんか、相当いいんではないかと思う。けれども、晩年のよくなった歌があまり評判にならないで、若いときのおどかしの歌が評判になった。
・・・・・
坂本紅蓮洞という男が、『晶子という女はなにをしても勤まる女だ』と感心していた。待合のお女将をやっても、結構やってのけられる女だというのだ。大勢の子供を育て、学校はみんな最高の学校へ入れてやった。収入は文筆だけれども、なんといっても歌が中心になっている。歌などで稼げるのはたかだか知れたものだ。が、それを結構やりおおせた。与謝野がフランスへ行っているあいだに、自分で『源氏物語』で旅費をこしらえて、一人でノコノコあとを追っていったんだからね。」