新聞の雑誌広告で気になって、
「正論」2010年8月号を買いました。740円。
読みたかったのは、金美齢(きんびれい)氏の
「自助精神なき『民意』に寄り添う政治家を疑え」
という9ページの文。これだけで私は十分でした。
740円で何を買ったのかというと、
言葉でした。こうはじまります。
「鳩山由紀夫氏が八ヵ月半で政権を投げ出した。『政治とカネ』の問題や米軍普天間飛行場移設をめぐる混乱の責任をとった形だが、これを『政権投げ出し』ときちんと報道した新聞、テレビはなかった。思い起こせば安倍晋三元首相の退陣のとき、無責任な政権投げ出しとあれほど安倍氏をバッシングした同じマスコミとは思えない二重基準である。・・・・わが国の政治の混迷はこうしたマスコミの恣意に国民が流されてきたことを抜きには語れない。マスコミは常に社会に被害者、弱者を過剰につくり出し、存在を際立たせ、その味方であることをもって自らのヒューマニズムの現れとしてきた。国民の権利の擁護は高らかに謳い上げても、国民に義務を求める忠言は少ない。マスコミは読者、視聴者たる国民に嫌われたくないゆえに迎合し、政治家もまたそんなマスコミと通じて伝えられる『民意』に阿ることで、実は『国家』と『国民』の根幹を損なってきた。彼らにとって大事なのはわが国ではなく、わが党であり、わが議席なのだ。・・・」
こう9ページの文ははじまっておりました。
長田弘の詩に「新聞を読む人」があります。そこに
「 新聞を読んでいる人が、すっと、目を上げた。
ことばを探してしるのだ。目が語っていた。
ことばを探しているのだ。手が語っていた。
ことばを、誰もが探しているのだ。
ことばが、読みたいのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
人生といえるものをじぶんから愛せるだけの。」
さて、また「自助精神なき『民意』に寄り添う政治家を疑え」から引用してゆきましょう。
「国民の『生活が第一。』というスローガンを掲げた民主党が昨夏の総選挙で大勝したのも、国民の多くが『国家』を意識することを忌避し、『手当』『保護』『救済』といった自らの権利の充足を求めた結果である。受益と負担の公平を考えれば、バラ撒き政策に対するNOという声が上がって然るべきものがそうならなかったのは、ひとえに国民に『自助』の精神が薄れ、『公助』の大盤振る舞いを喧伝した民主党のポピュリズムを歓迎したからだ。しかし民主党が約束した『公助』も、日本という国がしっかり立っていてこそ為し得るものである。・・・・自助の精神もなく、共助の気持ちもない者に人間としての信頼関係や絆は生まれない。」
あとには、またマスコミが登場しております。
「ここで私は、戦前、国家への献身を煽ったのも、戦後の過剰な自由を煽ったのもマスコミ、とくに朝日新聞であったことを指摘しておきたい。時計の振子のように大きく振れるマスコミ議論が日本人に及ぼしてきた影響は大きい。民主主義を病膏肓に入らせる元凶の一つである。・・・・民主主義が衆愚政治に陥るときの大きな引き金がマスコミであることを国民は認識しなければならない。国民が本当に自分の頭で考え、自覚的に判断しないかぎり、民主主義は衆愚に陥る。その恐れを持つことが難病を重症化させない唯一の方策である。」
また分かりやすい具体的なこんな指摘もあります。
「国会議員一人に一年間でどれほどの税金が投入されているか。諸経費を含め約一億円だという。参院議員の任期は六年である。したがって参院選で確かに一票を投じることは、その候補者に六億円の税金をかけることなのである。・・自分の投票行為が一番の無駄遣いになるかもしれないのである。」
さて、最後の方では、民主党について、こう語られておりました。
「しかし、すべての人に対して機会は平等であるべきだが、結果の平等は保証すべくもない。個人がいかに生き、いかに努力するかによって結果は用意されているからだ。平等を強いるとすれば、結果的に低位のほうにすべて人間を無理やり合わせることになる。それで人々は生き甲斐や働き甲斐を感じられるか。菅首相が語った『最小不幸の社会』とは、実は人間の幸福追求の意欲を殺ぐものではないか。政治に携わろうとする者が何を語るか。国民がそれを見極め、緊張感と責任感をもって『国と個人のあるべき関係』に思いを致しながら一票を投じること」
ああ、そうそう、ちなみに長田弘の詩「新聞を読む人」というのは、
朝日新聞97年10月15日に掲載されたものでした。
「ことばを探す」。740円の9ページ。
「正論」2010年8月号を買いました。740円。
読みたかったのは、金美齢(きんびれい)氏の
「自助精神なき『民意』に寄り添う政治家を疑え」
という9ページの文。これだけで私は十分でした。
740円で何を買ったのかというと、
言葉でした。こうはじまります。
「鳩山由紀夫氏が八ヵ月半で政権を投げ出した。『政治とカネ』の問題や米軍普天間飛行場移設をめぐる混乱の責任をとった形だが、これを『政権投げ出し』ときちんと報道した新聞、テレビはなかった。思い起こせば安倍晋三元首相の退陣のとき、無責任な政権投げ出しとあれほど安倍氏をバッシングした同じマスコミとは思えない二重基準である。・・・・わが国の政治の混迷はこうしたマスコミの恣意に国民が流されてきたことを抜きには語れない。マスコミは常に社会に被害者、弱者を過剰につくり出し、存在を際立たせ、その味方であることをもって自らのヒューマニズムの現れとしてきた。国民の権利の擁護は高らかに謳い上げても、国民に義務を求める忠言は少ない。マスコミは読者、視聴者たる国民に嫌われたくないゆえに迎合し、政治家もまたそんなマスコミと通じて伝えられる『民意』に阿ることで、実は『国家』と『国民』の根幹を損なってきた。彼らにとって大事なのはわが国ではなく、わが党であり、わが議席なのだ。・・・」
こう9ページの文ははじまっておりました。
長田弘の詩に「新聞を読む人」があります。そこに
「 新聞を読んでいる人が、すっと、目を上げた。
ことばを探してしるのだ。目が語っていた。
ことばを探しているのだ。手が語っていた。
ことばを、誰もが探しているのだ。
ことばが、読みたいのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
人生といえるものをじぶんから愛せるだけの。」
さて、また「自助精神なき『民意』に寄り添う政治家を疑え」から引用してゆきましょう。
「国民の『生活が第一。』というスローガンを掲げた民主党が昨夏の総選挙で大勝したのも、国民の多くが『国家』を意識することを忌避し、『手当』『保護』『救済』といった自らの権利の充足を求めた結果である。受益と負担の公平を考えれば、バラ撒き政策に対するNOという声が上がって然るべきものがそうならなかったのは、ひとえに国民に『自助』の精神が薄れ、『公助』の大盤振る舞いを喧伝した民主党のポピュリズムを歓迎したからだ。しかし民主党が約束した『公助』も、日本という国がしっかり立っていてこそ為し得るものである。・・・・自助の精神もなく、共助の気持ちもない者に人間としての信頼関係や絆は生まれない。」
あとには、またマスコミが登場しております。
「ここで私は、戦前、国家への献身を煽ったのも、戦後の過剰な自由を煽ったのもマスコミ、とくに朝日新聞であったことを指摘しておきたい。時計の振子のように大きく振れるマスコミ議論が日本人に及ぼしてきた影響は大きい。民主主義を病膏肓に入らせる元凶の一つである。・・・・民主主義が衆愚政治に陥るときの大きな引き金がマスコミであることを国民は認識しなければならない。国民が本当に自分の頭で考え、自覚的に判断しないかぎり、民主主義は衆愚に陥る。その恐れを持つことが難病を重症化させない唯一の方策である。」
また分かりやすい具体的なこんな指摘もあります。
「国会議員一人に一年間でどれほどの税金が投入されているか。諸経費を含め約一億円だという。参院議員の任期は六年である。したがって参院選で確かに一票を投じることは、その候補者に六億円の税金をかけることなのである。・・自分の投票行為が一番の無駄遣いになるかもしれないのである。」
さて、最後の方では、民主党について、こう語られておりました。
「しかし、すべての人に対して機会は平等であるべきだが、結果の平等は保証すべくもない。個人がいかに生き、いかに努力するかによって結果は用意されているからだ。平等を強いるとすれば、結果的に低位のほうにすべて人間を無理やり合わせることになる。それで人々は生き甲斐や働き甲斐を感じられるか。菅首相が語った『最小不幸の社会』とは、実は人間の幸福追求の意欲を殺ぐものではないか。政治に携わろうとする者が何を語るか。国民がそれを見極め、緊張感と責任感をもって『国と個人のあるべき関係』に思いを致しながら一票を投じること」
ああ、そうそう、ちなみに長田弘の詩「新聞を読む人」というのは、
朝日新聞97年10月15日に掲載されたものでした。
「ことばを探す」。740円の9ページ。