和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

四十五十。

2010-07-09 | 詩歌
杉山平一の詩集「青をめざして」(編集工房ノア)に
こんな詩がありました。

    かもしれない

  無い
  いや あるかもしれない

  来ない
  いや 来るかもしれない

  居ない
  いや 居るかもしれない

  当らない
  いや 当るかもしれない

  かもしれない
  かもしれないの五十年

  だった


そういえば、論語に四十五十について語られた言葉がありました。

子日く、後生畏るべし。いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや。
四十五十にして聞ゆる無くんば、これ亦畏るるに足らざるのみ

この現代語訳は

「先生がいわれた。『若い者は恐ろしいぞ。将来、年少の人たちが今日の自分の学徳に及ばないなどとどうしていえようか。しかし、四十歳や五十歳になっても評判が聞えてこないようなら、これは恐れるに足らないな』。」

それじゃ、もうひとつ詩を引用してみたくなります。
黒田三郎の詩。

    あす

 うかうかしているうちに
 一年たち二年たち
 部屋中にうずたかい書物を
 片づけようと思っているうちに
 一年たった

 昔大学生だったころ
 ダンテをよもうと思った
 それから三十年
 ついきのうのことのように
 今でもまだそれをあす
 よむ気でいる

 自分にいまできることが
 ほんの少しばかりだとわかっていても
 でも そのほんの少しばかりが
 少年の夢のように大きく
 五十歳をすぎた僕のなかにある


論語には、「・・四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。・・」とあるそうですが、これを渡部昇一氏は「五十になれば天命を知るというのは、『自分の仕事はこれだったか』とはっきり気づくことである。」と語っておりました。

論語と現代詩と、四十五十。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする