和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

全集購入理由。

2010-07-10 | 他生の縁
古本の全集を買おうとしたのでした。
窪田空穂全集。
まず、自分で自分を説得することからはじまります。
まずもって、全集を買って読んだためしがない。
それでも、これは買うことがよいのだと、自分で自分に説得を重ねるわけです。
これは、持っていることに価値があるのだと、説得。
少なくとも、最低3つぐらいは理由をつける。
その時はどうだったか。

はじまりは、慶応義塾出身の山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)に登場した窪田空穂『現代文の鑑賞と批評』。
これが何とも、角川書店の『窪田空穂全集』第十一巻所収となっておりました。

つぎに、私が思ったのは、どんなことか。
買いたいとなると、何でも理由をつけてしまうのが必要です。
りっぱな理由づけがあれば、購入後の放置にも寛容でござる。
ということで、2つめの理由はこうです。

コロンビア大学でドナルド・キーンさんの日本文学の角田柳作先生がおられました。
司馬遼太郎氏は「街道をゆく」の39「ニューヨーク散歩」のなかで

「この人については他に参考文献がなく、従ってキーンさんの記憶に頼るしかない。いかにも明治人であった。たとえば、自然な謙譲さ、頑質なばかりの地味さ。また禅の説話のなかの人のように名利に恬淡としていたこと。存在そのものが古典的日本人のエキスのような人でありながら、日本に住むことなく・・・・すばらしい学殖と創造心をもちながら、著作を持つことに無頓着だったこと。理由は『私はまだ生徒ですから』というのが口癖だったこと。このため母国では無名だったこと。」

とあります。その角田柳作先生を知ろうとしても、私にはしょせん無理だとあきらめておりました。ちなみに角田先生は明治十年(1877)群馬県生まれで、明治の東京専門学校(早稲田大学の前身)の出身だった。在学中、坪内逍遥の講義をきいた。とも司馬さんは記しております。

角田柳作先生を知る事ができなくとも、同年の人なら。
と私の思いが動きました。というのも、
窪田空穂氏は明治10年(1877)長野県生まれ。
そして明治28年に東京専門学校文学科入学。
という経歴の持ち主。
窪田空穂は歌人・国文学者で早大教授でありました。
角田柳作先生と同時代人なのであります。
こりゃ、全集を買う動機としては説得力があります。

つぎ3つめ。あとひと押し。
岩波文庫に入っている窪田空穂の解説を大岡信氏が書いているのが、
まことに印象的だったのであります。


かくして、古本全集を購入。
そして、慶応義塾出身の黒岩比佐子著「編集者国木田独歩の時代」を読むまでは、この全集が家で埃をかぶっていたというわけです。

さらには、なぜこんなことを書いているかといえば、慶応出身の松井高志さんの最新コメントが入っていたからにほかなりません(笑)。
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空穂全集月報。

2010-07-10 | 前書・後書。
黒岩比佐子著「編集者国木田独歩の時代」(角川選書)を読んでいたら、
p232に窪田空穂全集の月報17からの引用がありました。
それで。
じつは、以前私は、窪田空穂全集を古本で購入してあった。
でもね、全集を購入して、一冊しか読んでいなかった。
という、経緯がありまして、
それで、おもむろに全集をひろげて、函からだして
やおら、月報をひろげていったわけです。
それが、全集の巻と月報の番号とが別で、
結局は、全部の月報を取り出してみました。
なんと、月報17だけが、私が買った古本全集には欠けていた(笑)。
ほかの、月報は全部揃っていたというのに。
こりゃ、困ったなあと思いながらも、昨夜はとりあえず、月報を拾い読み。
楽しみ。それはこの月報が充実していたということ。
それは、月報という裾野から窪田空穂全集の稜線を望み見ているような
そんな、昂揚感が味わえる歓び。とでもいったらよいのでしょうか。
余りに、月報が幅広いので、
ここは、ちょいと細部のみを
まずは、引用してみましょう。


窪田空穂は1967年(昭和42年)に91歳で亡くなっております。
全集の第一巻付録の月報1に、こんな箇所がありました。
それは吉田精一氏の文
「窪田さんの詩境に、ひたひたと心のよるようになったのは、私の場合五十歳を越えてからである。じみで、何気ないようでいて、神経は細かく、精神は柔軟で、しかも歌いぶりがまことに自由である。息張らずに、嘱目の自然や、身辺雑事に材をとって、感傷や詠嘆をこえた境地に、人生を味わい、生活を見きわめようとする。深く滋味を蔵した歌風というべきもので、あるいは窪田さんの、三十歳代における・・現役の文人でもあった経験が、冥々の中に歌人としての窪田さんのどくとくな詩境をやしない、確立したのではなかろうか。」

また同じ月報1の河竹繁俊氏の文には
空穂氏の言葉が引用してありました。
「ある時、私が学校へ行きはじめて間もなくのこと。例の物やわらな、しかし怖い伯父さんのようなお話ぶりで、『君はいくつになるか知らないが、まァ人間も四十にならなければ本は読めないものだよ』と言われた。これが今もって頭にのこっている。・・あるいは先生ご自身のことでもあるかもしれないが、私にはまったくピタリで、大いに反省させられた。・・いわば中年からの眼到心頭だったわけだが、自分の行く道を教えられたような気がしたのは、まったく空穂先生の学恩? といってもよい。・・・」

また、第11巻付録の月報2。そこに浅見淵氏の文がありました。
そこから、

「万葉、古今、新古今と、専門の短歌の他に、空穂先生には注釈書も多いが、ほとんど四十代で早稲田の教師になってからの勉強であること、当時は国文科は学生が少なく、私塾のような趣があって・・そんなふうなことを楽しげに喋られた。・・・そうかと思うと、国木田独歩の民友社から出た『武蔵野』がわずか二十五円の買い切りであったこと、その独歩の生前の総収入はいまの流行作家の一作の稿料にも及ばなかったことを挙げ、昔の文士の貧しさを傷まれた。・・・」


ここまで引用したら、窪田空穂全集第11巻「近代文学論」のなかの国木田独歩の関連文を引用したくなってきました。
そこの『独歩の文章』(p70~72)にある、こんな箇所


「独歩の談片で、今なお私の記憶に残っている言葉がある程度ある。・・・吉江喬松と一しょだったと思う。編集室とはいっても普通の住宅の二階で、畳の上へあぐらをかき合ってのことである。独歩は言う。
『文芸ってものは、人生の上からいうと、限界のある小さなものだよ。人生の真を表現するなんていうが、あれは人生ってものを知らない時にいうことで、実行すると失望するに決まっている。失望したらとっとと棄てて、むきになって人生と取っ組むんだね。それをしている中に、文芸ってものもまんざらな物じゃないと思い出して、もう一度拾いあげた時に、初めて文芸になってくるよ。大体そうしたものだね』
これが独歩の文芸に対する評価であった。言葉はちがっていようが、主旨はこのとおりであった。」

独歩は若くして作家としての名声を博するまぎわに亡くなっておりますが、
空穂は91歳まで生きたのでした。空穂の歌集に、独歩の言葉がこだましているような気分で、こんど読みはじめてみようと思う。うん。ということで、岩波文庫の「窪田空穂歌集」をまずはひらいてみよう。
コメント (3)
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