和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

落ち込んだり。

2010-07-28 | 短文紹介
梯久美子さんの「昭和20年夏、僕は兵士だった」を、前に印象深く読んだのでした。
それが今年になって「昭和20年夏、女たちの戦争」(角川書店)が7月に出ておりました。

近藤富枝・吉沢久子・赤木春恵・緒方貞子・吉武輝子の五人が登場しております。
ここでは、私は吉武輝子(昭和6年生まれ)さんについて引用してみたいと思います。
こんな箇所がありました。

「・・・学徒出陣だって、最初は理系の学生は行かなくてすんだでしょう。まっ先に戦地へやられたのは、音大や芸大の学生でした。長野県の上田市に、無言館っていう美術館がありますよね。戦死した画学生たちの作品を展示してあるところ。私ね、気持ちが落ち込んだり、疲れてしまったときはあそこに行くんです。
彼らが残していったのは、ほとんどが家族や恋人の肖像なのね。未完成の絵も多い。眉毛が半分とか、唇にまだ色がないとか。みんな、生きて帰って仕上げたかったのよ。でも、絵の才能なんか、戦争をやっている国にとって有用じゃないから、早々に戦場へ追いやられてしまった。
そりゃあ若いから、みんな未熟な絵よ。でも彼らが生きて描き続けることができたら、そう、五十代や六十代になったら、素晴らしい作品を描いたかもしれない。そう考えると、何ともいえない気持ちになります。そして、どんなに疲れていても、生きている限り、私は私にできることをやろうっていう気になるの。」(p212)

思い浮かぶのは、足立倫行著「妖怪と歩く 評伝水木しげる」(文藝春秋)の第四章「戦争体験の夏」。そこに、ラバウルの野戦病院で水木しげるを診察した陸軍軍医砂原勝巳氏との対談が載っております。砂原氏は食道ガンを宣告されておりました。闘病生活3年目にはいって、「もう一度水木に会っておきたい」ということで実現した週刊誌の対談だったそうです。そこに


水木「やっぱり戦死した人ですよ。私は戦後二十年くらい、人にあまり同情しなかったんです。戦争で死んだ人間が一番かわいそうだと思ってたからです」
砂原「生き残ってるのがうしろめたいと言うか、戦後お互いに連絡取らないのはそれです」
水木「生き残った者が一度集まった時、小隊長が『我々はほんのちょっと長く生きただけだ』って言うんですよ」
砂原「その感覚、共通にありますね」
水木「戦死した人間は、ものすごく生きたかったんです!死にたくなかったんです!」
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コメント
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