加藤秀俊著「メディアの発生」(中央公論新社)を、とりあえず、そそくさと読了。文中に、参考本が散りばめられているので、そちらへも興味がいきます。その参考文献が、きれいに関連付けられているものですから、読みごたえがありました。
そういえば、梅棹忠夫著「知的生産の技術」に、
「整理と整頓」(p80~)という箇所がありました。
そこには、先に出た加藤秀俊著「整理学」(中公新書)に言及した箇所があります。
「整理学」にふれて
「現代社会における整理の問題を要領よくおしえてくれる。」と指摘して、そのあとに
「整理というのは、ちらばっているものを目ざわりにならないように、きれいにかたづけることではない。それはむしろ整頓というべきであろう。ものごとがよく整理されているというのは、みた目にはともかく、必要なものが必要なときにすぐとりだせるようになっている、ということだとおもう。」(p81)
それでですね。加藤秀俊著「メディアの発生」を読みながら、
私は「知的生産の技術」のこんな箇所を思い浮かべたのでした。
「わたし自身の書類の整理法の歴史をふりかえってみると、まったくばかげたことをくりかえしてきたものだとおもう。・・はじめのころは、たまった書類を、ひもでくくるか、いくらか分類して糸でとじるか、していた。しかし、これでは全然整理したことにならない。このやりかたは、文書を保存しているというだけで、実際問題としては、必要なときに過去のデータをよびだすことはできないのである。過去は、おしいれのくらやみのなかで、永遠にねむりこんでしまう。必要に応じて、過去を現在によびおこすということこそ、整理ということなのである。」(p83)
この「必要に応じて、過去を現在によびおこすということこそ、整理ということなのである。」という言葉が、「メディアの発生」の読後感としてピッタリとします。
それほどに、現在と過去とが、加藤秀俊氏の整理の妙で味わい深い読後感として浮かびあがってきます。何いってんだか。
あとがきで加藤氏は「これはわたしの八十代へむけての卒業論文のようなものだ、とじぶんではおもっている。」とあります。整理学の、実際の卒業論文なら、こうなるんじゃないかという、すばらしい見本のようにわたしは読みました。錯綜した卒業論文を分かりやすいエッセイの趣で踏破してゆくのです。すばらしかった。時間を置いて、もう一度、線を引いたところを読み返すことにします。
そういえば、梅棹忠夫著「知的生産の技術」に、
「整理と整頓」(p80~)という箇所がありました。
そこには、先に出た加藤秀俊著「整理学」(中公新書)に言及した箇所があります。
「整理学」にふれて
「現代社会における整理の問題を要領よくおしえてくれる。」と指摘して、そのあとに
「整理というのは、ちらばっているものを目ざわりにならないように、きれいにかたづけることではない。それはむしろ整頓というべきであろう。ものごとがよく整理されているというのは、みた目にはともかく、必要なものが必要なときにすぐとりだせるようになっている、ということだとおもう。」(p81)
それでですね。加藤秀俊著「メディアの発生」を読みながら、
私は「知的生産の技術」のこんな箇所を思い浮かべたのでした。
「わたし自身の書類の整理法の歴史をふりかえってみると、まったくばかげたことをくりかえしてきたものだとおもう。・・はじめのころは、たまった書類を、ひもでくくるか、いくらか分類して糸でとじるか、していた。しかし、これでは全然整理したことにならない。このやりかたは、文書を保存しているというだけで、実際問題としては、必要なときに過去のデータをよびだすことはできないのである。過去は、おしいれのくらやみのなかで、永遠にねむりこんでしまう。必要に応じて、過去を現在によびおこすということこそ、整理ということなのである。」(p83)
この「必要に応じて、過去を現在によびおこすということこそ、整理ということなのである。」という言葉が、「メディアの発生」の読後感としてピッタリとします。
それほどに、現在と過去とが、加藤秀俊氏の整理の妙で味わい深い読後感として浮かびあがってきます。何いってんだか。
あとがきで加藤氏は「これはわたしの八十代へむけての卒業論文のようなものだ、とじぶんではおもっている。」とあります。整理学の、実際の卒業論文なら、こうなるんじゃないかという、すばらしい見本のようにわたしは読みました。錯綜した卒業論文を分かりやすいエッセイの趣で踏破してゆくのです。すばらしかった。時間を置いて、もう一度、線を引いたところを読み返すことにします。