山野博史編「われらの獲物は、一滴の光り」(kkロングセラーズ)のまえがきは谷沢永一。そして、あとがきは山野博史。そのあとがきのはじまりは
「開高健(1930~89)は、夏目漱石の文学に少なからぬ感心を寄せ、『喜劇のなかの悲劇』、『漱石の明暗の全域を』、『読むための漱石』と律義につきあいながら、『吾輩は猫である』と『坊っちゃん』を漱石文学のどまんなかに位置づけ、評価するという独自の漱石理解を示したことで知られる・・・」
う~ん。ここで、私が思い浮かべるのは、
朝日新聞学芸部編「一冊の本 全」(雪華社)にある、大岡昇平氏の一冊。その一冊は『坊っちゃん』。最初からすこし引用を重ねます。
「本のよしあしをきめるには色々基準があろうが、まず再読出来るかどうかというのが、よい本の条件であろう。」こう明治42年東京生まれの大岡昇平氏ははじめております。
「三読四読ということになれば、『愛読書』ということになる。
私は若いころからスタンダールをやっていて、『パルムの僧院』を二十遍以上読んでいる。ところで漱石の『坊っちゃん』の方は、多分その倍ぐらい読み返しているのである。」
こうはじまている大岡氏の短文をさらに短く引用するのは気がひけます。けれども、真中を端折って、最後の方は、丁寧に引用しておきましょう。
「・・漱石の後期の作品は、近ごろはあまり読み返さない。作為が目立って、文章をたどるのが、面倒になるのである。処女作『吾輩は猫である』も十遍ぐらい読んでいるので、もし『猫』と『坊っちゃん』を漱石の代表作とする意見があれば、私はそれに賛成である。しかし『猫』は少し人を面白がらせようとして無理をしている。学をひけらかしてキザになっているところがあるが、『坊っちゃん』にはそれがない。これは明治38年の春、『猫』を連載中の間奏曲のように、書かれた。
今日の四百字詰原稿紙に直すと、二百五十枚ぐらいの分量だが、二十日足らずの間に、一気呵成(かせい)に書かれた。漱石は『猫』の好評に気をよくして希望にみちあふれていたのであろう。感興にまかせて書いていて、のびのびとしたいい文章で、ある。といって決して一本調子ではなく、漱石という複雑な人格を反映して、屈折にみちているのだが、作者の即興の潮に乗って、渋滞のかげはない。こういう多彩で流動的な文章を、その後漱石は書かなかった。また後にも先にも、日本人はだれも書かなかった。
読み返すごとに、なにかこれまで気がつかなかった面白さを見つけて、私は笑い直す。この文章の波間にただようのは、なんど繰返してもあきない快楽である。傑作なのである。さきごろ、どこかの読書調査で、たしか『坊っちゃん』が、文芸作品として最高点だったと記憶する。同好の士が多いのはうれしいことである。」
さて、この「一冊の本 全」が単行本として出たのが、昭和42年とあります。この本の中で、開高健はサルトルの「嘔吐」をとりあげておりました。むろん前後するでしょうが、開高氏は大岡氏のこの文を読んでいたにちがいないと私は思うのです。山野博史氏が、独自の漱石理解とする「漱石のどまんなか」と、そう開高氏が書いたのは、大岡昇平氏よりあとだったのかどうか?それはいつ頃の文に掲載されていたのか。その文ははたしてどのようなものだったのか。別に調べようともしないのですが、ちょっと気になったりします。
「開高健(1930~89)は、夏目漱石の文学に少なからぬ感心を寄せ、『喜劇のなかの悲劇』、『漱石の明暗の全域を』、『読むための漱石』と律義につきあいながら、『吾輩は猫である』と『坊っちゃん』を漱石文学のどまんなかに位置づけ、評価するという独自の漱石理解を示したことで知られる・・・」
う~ん。ここで、私が思い浮かべるのは、
朝日新聞学芸部編「一冊の本 全」(雪華社)にある、大岡昇平氏の一冊。その一冊は『坊っちゃん』。最初からすこし引用を重ねます。
「本のよしあしをきめるには色々基準があろうが、まず再読出来るかどうかというのが、よい本の条件であろう。」こう明治42年東京生まれの大岡昇平氏ははじめております。
「三読四読ということになれば、『愛読書』ということになる。
私は若いころからスタンダールをやっていて、『パルムの僧院』を二十遍以上読んでいる。ところで漱石の『坊っちゃん』の方は、多分その倍ぐらい読み返しているのである。」
こうはじまている大岡氏の短文をさらに短く引用するのは気がひけます。けれども、真中を端折って、最後の方は、丁寧に引用しておきましょう。
「・・漱石の後期の作品は、近ごろはあまり読み返さない。作為が目立って、文章をたどるのが、面倒になるのである。処女作『吾輩は猫である』も十遍ぐらい読んでいるので、もし『猫』と『坊っちゃん』を漱石の代表作とする意見があれば、私はそれに賛成である。しかし『猫』は少し人を面白がらせようとして無理をしている。学をひけらかしてキザになっているところがあるが、『坊っちゃん』にはそれがない。これは明治38年の春、『猫』を連載中の間奏曲のように、書かれた。
今日の四百字詰原稿紙に直すと、二百五十枚ぐらいの分量だが、二十日足らずの間に、一気呵成(かせい)に書かれた。漱石は『猫』の好評に気をよくして希望にみちあふれていたのであろう。感興にまかせて書いていて、のびのびとしたいい文章で、ある。といって決して一本調子ではなく、漱石という複雑な人格を反映して、屈折にみちているのだが、作者の即興の潮に乗って、渋滞のかげはない。こういう多彩で流動的な文章を、その後漱石は書かなかった。また後にも先にも、日本人はだれも書かなかった。
読み返すごとに、なにかこれまで気がつかなかった面白さを見つけて、私は笑い直す。この文章の波間にただようのは、なんど繰返してもあきない快楽である。傑作なのである。さきごろ、どこかの読書調査で、たしか『坊っちゃん』が、文芸作品として最高点だったと記憶する。同好の士が多いのはうれしいことである。」
さて、この「一冊の本 全」が単行本として出たのが、昭和42年とあります。この本の中で、開高健はサルトルの「嘔吐」をとりあげておりました。むろん前後するでしょうが、開高氏は大岡氏のこの文を読んでいたにちがいないと私は思うのです。山野博史氏が、独自の漱石理解とする「漱石のどまんなか」と、そう開高氏が書いたのは、大岡昇平氏よりあとだったのかどうか?それはいつ頃の文に掲載されていたのか。その文ははたしてどのようなものだったのか。別に調べようともしないのですが、ちょっと気になったりします。