和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

あじわう前に。

2009-10-02 | 幸田文

徳岡孝夫著「舌づくし」を開きなが思うのでした。
こりゃ、簡単に読んじゃもったいない。

以下は、その経緯説明。
徳岡孝夫氏が「ぼんやりしか原稿用紙が見えなくなって」どう思ったか。

「このさき何をして・・・あるいは何を書いて生きるか。
世間には随筆を書いて知られる人がいる。評論、小説を書いて暮している人もいる。だが私は、随筆を書いて生計を立てるほど文章が上手ではない。そもそも味で読ませる文章など、ジャーナリストにとっては邪道であり、私はそういうものを書くような訓練を受けていない。・・・・文章がない、教養がない、語るべき自己がない。ただし書くことだけは、三十余年ずっと馴れてきた作業だから、・・・」(p46~47・「薄明の淵に落ちて」)


その徳岡氏が味で読ませる「舌づくし」を書いたわけなのです。
その味わいは、ゆっくりと。すぐに感想を述べるのは申しわけない。
さてっと、徳岡孝夫著「薄明の淵に落ちて」の本の最後には「遺された言葉」という
K氏の亡くなる最晩年の様子が描かれておりました。
こりゃ「舌づくし」の伏線になる文章でもありますから、
どうぞお付き合いください。

「K氏の最後のバンコク旅行・・彼は東京都内の専門病院で放射線治療や化学療法や、あらゆる手を打ったあと見放された患者だった。あとは体力維持のため自宅に近いF市の病院で点滴を受けるだけで、それもまもなく自宅からの通院になり、『好きなものは何でも食べさせてあげなさい』という段階だった。・・・バンコクに旅行中から、料理はすでにK氏の喉を通らなくなっていた。それでも、行く先々のタイ料理でテーブルに載り切らないほどの料理を注文し、夫人や息子にさあ食べろ、もっと食べろと強請したという。・・・K氏が盗んで帰ったメニュは、タイ語の知識なしには読めないものだった。そして、それを読解する能力は、彼が生涯を賭けて得たものである。さあ思う存分に駆使して働こうと期していた矢先の発病だった。・・・・」

ここで徳岡氏はイエスの最後の晩餐を語っております。

「過越の食事をするために、イエスは十二人の弟子を連れてエルサレムに行き、一軒の家に入った。そして食卓について、言った。
『私は苦しみを受ける前に、お前たちと一緒にこの食事をすることを切に望んでいた』
それに続く言葉は、全世界のカトリック教徒が今日もなお毎日のミサの中で唱えている。イエスはパンを取り、賛美を捧げてからこれを手で分け、弟子たちに与えて言った。
『取って食べなさい。これは私の体である』
また杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて言った。
『この杯から飲みなさい。これは私の血である』
これが最後の晩餐である。このあと、彼はゲッセマネに行き、ひとり地に伏して祈り『神の思し召しのままに』と死を受けいれた。・・・・」

さらに、徳岡氏は2頁ほどあとには、日本の例をひいておりました。

「日航ジャンボ機が操縦不能に陥ってからダッチロールして御巣鷹山に墜落するまでの間、乗客の何人かは激しく揺れる機内で遺書をしたためた。その中で最も深い感銘を与えたのは神奈川県藤沢市に住む船舶会社の支店長の走り書きだった。手帳七ページに一男二女の名を列記し『どうか仲良くがんばってママをたすけてくれ』、また妻には『子供達のことをよろしくたのむ』と書いたメッセージには『きのうみんなと食事したのは(が)最后とは』という一節があった。」
もう一つは東京オリンピックのマラソンで銅メダルを取り、メキシコでの活躍をきたいされていた円谷幸吉選手の書置きを引用しております。



さて、徳岡孝夫氏の「舌づくし」を、ゆっくりと味わいたいと思います。
コメント
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