僕の感性

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保科正之

2011-08-02 14:55:25 | 歴史



昨晩、BSで「ナンバー2保科正之」という番組を観た。

保科正之というと、秀忠の息子であるということと、白岩一揆の首謀者をだまし討ちで処刑した人物という悪いイメージを持っていた。

けれど、領民のことを真っ先に考える慈悲に溢れた人物だということがわかった。

彼は本来、生まれてくる人物ではなかった。二代将軍秀忠の正室お江は、乳母の侍女である静(しず)の子を面白く思わなかった。
お江は気性が荒く、大奥の秩序のため幸松(正之の幼名)を堕胎せよと命じた。

けれど秀忠の老中職の土井利勝(家康のご落胤と言われる)の進言により、幸松は武田信玄の次女の穴山梅雪に匿われることになる。
(静の手紙)

その後、旧武田氏家臣、信濃高遠藩主保科正光に預けられ養子となった。

徳川家の本流を為すことも叶わず、幼くして波乱万丈の道を余儀なくされる運命(さだめ)を背負っていた。


彼、保科正之が名君だという数々のエピソードがある。

会津藩主とともに幕政にも身を置いていた正之に1657年江戸で明暦の大火が起こる。
当時イロハ火消しもまだなかった頃で、江戸の町はことごとく灰燼に帰した。
約10万人もの民が亡くなったといわれている。

このとき、正之はまず何をしたか。

浅草にあった米蔵の火を消すために
「米蔵の火を消し止めた者に、米の持ち出しを許す」という御触れをだした。
正之のすばやい機転で、火が消し止められ、領民を救うといった一石二鳥を成し遂げた。

そのほか、焼き出された人たちに7000両かけて、粥の炊き出しを行った。

最初は腹をくださないよう、柔らかい粥を作り、そのあと固めのお粥を食べさせた。
細かいところまで行き届いた気配りである。

火災で逃げ場を失った人は隅田川に逃げてきたが、川を渡れず多くの者が亡くなった。
そのことをきっかけに正之は武蔵国と下総をまたがる大橋を架設した。
武蔵と下総の両国を結んだので「両国橋」と言う。

また上野に広小路を設置。煙や火の拡張を防止した。

驚いたことに焼けてなくなった江戸城の天守閣を新たに復興するのを止めたのも保科正之の政策である。
ただ遠方を眺めるだけの天守閣を必要としなかったのである。


3代将軍家光は亡くなる床で、正之に家綱の後見人になってくれと託して死ぬ。
彼は家光の遺言通り、幼い家綱の補佐役に徹する。
正之が行った三大美事(三大善政)も家綱の政策になっている。

①殉死の廃止
②大名証人制度の廃止(人質の廃止)
③末期養子の禁の緩和

そして、絶対的水不足を解消するために玉川上水の掘削を行った。
敵の侵入を容易にすると言う理由で多くの幕僚に反対されたが、正光はいつものごとく断行した。
それが350年の今日の都民の水も供給しているのである。



会津藩主としてもたくさんの善政を敷いた。

それまで耕地不能の土地にも年貢をかける悪政がまかり通っていたが、この負わせ高の廃止を行って農民を助けた。
また武断政治を行わず文治政治に取り組み米を蓄える社倉をたくさん設置し、不作の年には安い値段で米を放出した。

今でも会津の人たちに愛される所以である。


保科正之は正室「菊」を19の若さで失う。また長男幸松も4歳で夭逝する。
次男保科正頼も明暦の大火で失ってしまう。
彼の胸中はいかばかりだったろうか、その悲しさは計り知れない。

けれど徳のある文治政治を全うしたのは、これらの境遇があったからであろうと推測する。
また彼は行った政治の証となる文書を悉く燃やし尽くした。
彼の滅びの美学といったものもそこはかとなく感じ入る。