久々の市川脚本。
子どもの頃は脚本家が誰かなど気にするわけもなく単に変な話、若しくはヤプールがいきなり復活して混乱する話だと思っていた。
しかし、大人になって見るとある意味市川森一の復讐的な要素もあり面白い。
しかし、ヤプールの復活は誰が決めたのか。
真船監督によりヤプールが葬られてからヤプールは全く現れなかったが、設定的には全滅ではなかったのか。
もしかしたらこの脚本を市川氏に依頼した橋本氏は、最終回もヤプール路線で書かせるためにこの話でヤプールを書かせたのかもしれない。
普通なら石堂氏にこのまま最終回まで書かせてもいいと思うが(現に80ではそうしてる)、敢えて市川氏を引っ張り出したところに橋本氏のプロデューサーとしての信念のようなものが窺える。
当の市川氏は後のインタビューで脚本が足りないからと言われて助っ人意識で書いたと証言しているが、実際のところ市川氏はエースの脚本を再び書く意志はあったのだろうか?
ウルトラマンエース最終回は市川氏の最後の子ども向けドラマ脚本でもあるが、この頃既に大人向けドラマに移行していた市川氏が今更エースに戻ってくるとも考えにくい。
ただ、市川氏の中にはエースへの思い入れというものはかなりあったはずなので、声を掛けられればやはり書きたかったというのが本音なのだろう。
あるいはその交換条件にヤプールで書かせて欲しいというのはあったのかもしれないが、結果的にヤプール路線の2本で最後を締められたことはエースという作品にとってはプラスであっただろう。
前置きが長くなってしまったが、いきなりの宇宙空間から始まる幻想的な展開。
ゴルゴダ星を思わせる暗い空間でいきなり始まるベロクロンとのバトル。
お馴染みのヤプールBGMと、いきなり初期のエースに戻ったかの雰囲気が懐かしい。
市川脚本というのもあるが、私はこういう帰ってきたウルトラマンや初期エースの雰囲気は好きだ。
宇宙パトロール中に倒した怪獣が現れる展開は、初代マンの「怪獣墓場」を思い出させる。
話の展開は大違いだが、テーマ的には通ずるものがあろう。
ところで最初の夢の中のエースとベロクロンの戦いのとき、既にエースは左ほっぺを押えている。
この時に虫歯を仕込まれたのであろうが、これは今回の再放送を見るまで気が付かなかった。
今回は北斗もそうだが、他の隊員たちの芝居もいい緊張感が漲っており、やはりメインライターの復帰というのを歓迎しているのだろう。
また、この時期の市川氏は新進気鋭の若手ライターだけに役者たちも大人向けドラマを意識しているようにも見える。
また演出も凝っており、北斗が街中で暴れて包囲されるシーンの冷たさや女ヤプールの演出など印象深い。
ただ、やはり特撮シーンの演出は理解不能。
特撮は特撮で別というのはわかるが、果たしてこの演出がどれだけ本編を意識しているのか疑問が残る。
ベロクロンはヤプールの復讐とは無関係にただ暴れてるだけというのはシュールではあるが、例えば新マンの「悪魔と天使の間に」辺りと比べると演出的に弱い。
あの話の場合は特撮シーンに話の重要な鍵があったというのもあるが、やはり本編との整合性がないと話全体としての印象は弱くなるだろう。
相変わらず超獣を最後に宇宙へ運んだり、変な所への拘りが見られる。
以前にも書いたが、本話は北斗の背負った業というべきものが直接に描かれている。
これは単に怪獣や超獣相手ではなく、ヤプールという観念的な存在との戦いを描いたエースだからこそ可能だったのであろう。
ただ、ヤプールという存在が分かりにくかったのも事実。
その点、親子や兄弟愛を描いたタロウの方がわかりやすかったのも事実であろう。
しかし昨今の特撮やアニメはどうしても友情や仲間という、言い方は悪いが他人頼み的なヒーローものが増えている気がする。
もちろんそういうものは大事だが、やはりウルトラは人知れず正体を隠して戦うという孤独な個人主義が持ち味だろう。
そういう意味ではメビウスはやや昨今の戦隊等の影響を受け過ぎた嫌いがあった。
話は逸れたが、本話は北斗単独編だからこそ北斗の孤独もより強調された。
もちろん夕子がいた頃も2人は孤独ではあったが、その孤独も2人で分け合うことができた。
しかし夕子がいない今、北斗はそれを一人で背負わないといけない。
人間の負の側面の具現化であるヤプールに一人挑む北斗。
本来なら男女の愛で立ち向かうはずだった宿敵に一人戦いを挑まねばならない北斗の孤独は想像を絶する。
子どもの頃は脚本家が誰かなど気にするわけもなく単に変な話、若しくはヤプールがいきなり復活して混乱する話だと思っていた。
しかし、大人になって見るとある意味市川森一の復讐的な要素もあり面白い。
しかし、ヤプールの復活は誰が決めたのか。
真船監督によりヤプールが葬られてからヤプールは全く現れなかったが、設定的には全滅ではなかったのか。
もしかしたらこの脚本を市川氏に依頼した橋本氏は、最終回もヤプール路線で書かせるためにこの話でヤプールを書かせたのかもしれない。
普通なら石堂氏にこのまま最終回まで書かせてもいいと思うが(現に80ではそうしてる)、敢えて市川氏を引っ張り出したところに橋本氏のプロデューサーとしての信念のようなものが窺える。
当の市川氏は後のインタビューで脚本が足りないからと言われて助っ人意識で書いたと証言しているが、実際のところ市川氏はエースの脚本を再び書く意志はあったのだろうか?
ウルトラマンエース最終回は市川氏の最後の子ども向けドラマ脚本でもあるが、この頃既に大人向けドラマに移行していた市川氏が今更エースに戻ってくるとも考えにくい。
ただ、市川氏の中にはエースへの思い入れというものはかなりあったはずなので、声を掛けられればやはり書きたかったというのが本音なのだろう。
あるいはその交換条件にヤプールで書かせて欲しいというのはあったのかもしれないが、結果的にヤプール路線の2本で最後を締められたことはエースという作品にとってはプラスであっただろう。
前置きが長くなってしまったが、いきなりの宇宙空間から始まる幻想的な展開。
ゴルゴダ星を思わせる暗い空間でいきなり始まるベロクロンとのバトル。
お馴染みのヤプールBGMと、いきなり初期のエースに戻ったかの雰囲気が懐かしい。
市川脚本というのもあるが、私はこういう帰ってきたウルトラマンや初期エースの雰囲気は好きだ。
宇宙パトロール中に倒した怪獣が現れる展開は、初代マンの「怪獣墓場」を思い出させる。
話の展開は大違いだが、テーマ的には通ずるものがあろう。
ところで最初の夢の中のエースとベロクロンの戦いのとき、既にエースは左ほっぺを押えている。
この時に虫歯を仕込まれたのであろうが、これは今回の再放送を見るまで気が付かなかった。
今回は北斗もそうだが、他の隊員たちの芝居もいい緊張感が漲っており、やはりメインライターの復帰というのを歓迎しているのだろう。
また、この時期の市川氏は新進気鋭の若手ライターだけに役者たちも大人向けドラマを意識しているようにも見える。
また演出も凝っており、北斗が街中で暴れて包囲されるシーンの冷たさや女ヤプールの演出など印象深い。
ただ、やはり特撮シーンの演出は理解不能。
特撮は特撮で別というのはわかるが、果たしてこの演出がどれだけ本編を意識しているのか疑問が残る。
ベロクロンはヤプールの復讐とは無関係にただ暴れてるだけというのはシュールではあるが、例えば新マンの「悪魔と天使の間に」辺りと比べると演出的に弱い。
あの話の場合は特撮シーンに話の重要な鍵があったというのもあるが、やはり本編との整合性がないと話全体としての印象は弱くなるだろう。
相変わらず超獣を最後に宇宙へ運んだり、変な所への拘りが見られる。
以前にも書いたが、本話は北斗の背負った業というべきものが直接に描かれている。
これは単に怪獣や超獣相手ではなく、ヤプールという観念的な存在との戦いを描いたエースだからこそ可能だったのであろう。
ただ、ヤプールという存在が分かりにくかったのも事実。
その点、親子や兄弟愛を描いたタロウの方がわかりやすかったのも事実であろう。
しかし昨今の特撮やアニメはどうしても友情や仲間という、言い方は悪いが他人頼み的なヒーローものが増えている気がする。
もちろんそういうものは大事だが、やはりウルトラは人知れず正体を隠して戦うという孤独な個人主義が持ち味だろう。
そういう意味ではメビウスはやや昨今の戦隊等の影響を受け過ぎた嫌いがあった。
話は逸れたが、本話は北斗単独編だからこそ北斗の孤独もより強調された。
もちろん夕子がいた頃も2人は孤独ではあったが、その孤独も2人で分け合うことができた。
しかし夕子がいない今、北斗はそれを一人で背負わないといけない。
人間の負の側面の具現化であるヤプールに一人挑む北斗。
本来なら男女の愛で立ち向かうはずだった宿敵に一人戦いを挑まねばならない北斗の孤独は想像を絶する。
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