出典:(ピエール・ノラ編『記憶の場 3』岩波書店 2003)
靖国の問題があって、合祀されている戦犯をたたえるとか、それがけしからんとか、サンフランシスコ条約で示した立場に違反しているとか、いろいろ言われている。しかし、靖国にまつられている人の中には、戦犯以外の人もいるし、ごく普通の人の方が多い。
つまり60年以上前、近所から送り出したおじさんの中には、「国家のために」死んでいった人々がいた。しかし、そうして死んでいった人々を説明する方法として、この「国家のために」という表現を使うことは、間違いではないにせよ、正確に現した言葉でないことは確かだ。あの戦争で死んでいった人々は、「国のため」であった人もいれば、「家族のため」であった人もいる。研究者はこうした思考の枠組み(言説という表現を用いる)を分類したがるが、いまの私たちが、彼らを「わかりやすい表現」に当てはめて説明することは、少しばかり、研究を行ってきた人間としては、偏見に満ちた行為になるように思う。
本書はフランスにおける概念の歴史に関する報告である。
「祖国の防衛」という概念そのものは、既に11世紀からあった。それよりも大きな概念、すなわち、十字軍に代表されるキリスト教の危機という命題から、わざわざ外国にまで命をかけて戦争に行く人間もいたが、それは他国の領土や財産があわよくば取れるという欲目が付いて回った
人の欲目は国外へ出かけていく戦争のみに見られた心理ではない。本書では、「祖国の防衛」という語の「祖国」が自分の土地という狭い認識の上に成り立つものであったとし、その自分の土地が守れるかどうかの単なる欲目から出た概念であったと断じている。この概念は、本論の趣旨とは少し離れるようだが、「祖国の防衛『以前』」の概念を説明するものしては妥当である。
その「祖国」の概念が出てくるのはいつか。フランスにおいては、百年戦争というフランス対イングランドの紛争の時代であったとしている。本書では、いくつかの「祖国の防衛とそのために死ぬこと」の意義を説く教会や法学者、思想家の言説を分析しているが、その部分が面白いのではなく、その行為によって、死んだ人々をいかに記憶し、まつるのかという制度が確立していく状況と、その死を評価していく心性の成立について書いてある部分である。
いわく、もともと戦争で何らかの大義を背負って死んでいった人々を評価するような制度どころか、心性もなく、ただ死んでいった不幸な人という評価だけが下されていたと。シャルル7世は、このように王や国家のために死んでいった人々に対する関心が薄く、態度を改めるよう進言する匿名の文書によって、ようやく改めた。
「宗教」を守ることが「国家」あるいは「祖国」を守ることという概念図式からスタートするが、「国家」「祖国」イコール「宗教」だった時代が終わると、宗教の部分が強化されていく王権にすげ変わった。しかし、それまでの祖国という概念が、身近で実体を持ったものだとすれば、抽象的な形を持った概念に変化していくのは1789年のフランス大革命である。この革命以降、王政復古によって王位に就いたときの王ですらも、自らの名前のもとに命令を出すことが出来なくなり、ルイ18世はレジオン・ド・ヌール勲章の認可の際も「名誉と祖国」のもとに出していた。
しかし、真の意味での愛国心、すなわち「祖国のために死ぬ」ということの概念は、1871年の普仏戦争によってフランスがプロイセンに負けたことに対する国民的な復讐心から生成していったと書いている。
本書の解説にもあるように、「祖国の為に死ぬ」という概念を追いかけているが、それをいかにして記憶していく装置を作り出すかというところまでは踏み込めてない。この装置に関する部分の研究としては、工藤庸子氏『フランス文明批判序説』(東京大学出版会 2003の中で、文学史・文学教育・ナショナルヒストリーの観点から書かれている。「資料」をもって定義を語らすというフランスの歴史家がよく行う記述形式が取られているが、「資料」で状況を語る以前に明確な「祖国」の定義が欲しかった。ナショナリズムの流行が19世紀後半であるから、祖国という概念定義は今日と全く異なっているはずで、そこから埋めていくのが、普通の方法と思うからである。
靖国の問題があって、合祀されている戦犯をたたえるとか、それがけしからんとか、サンフランシスコ条約で示した立場に違反しているとか、いろいろ言われている。しかし、靖国にまつられている人の中には、戦犯以外の人もいるし、ごく普通の人の方が多い。
つまり60年以上前、近所から送り出したおじさんの中には、「国家のために」死んでいった人々がいた。しかし、そうして死んでいった人々を説明する方法として、この「国家のために」という表現を使うことは、間違いではないにせよ、正確に現した言葉でないことは確かだ。あの戦争で死んでいった人々は、「国のため」であった人もいれば、「家族のため」であった人もいる。研究者はこうした思考の枠組み(言説という表現を用いる)を分類したがるが、いまの私たちが、彼らを「わかりやすい表現」に当てはめて説明することは、少しばかり、研究を行ってきた人間としては、偏見に満ちた行為になるように思う。
本書はフランスにおける概念の歴史に関する報告である。
「祖国の防衛」という概念そのものは、既に11世紀からあった。それよりも大きな概念、すなわち、十字軍に代表されるキリスト教の危機という命題から、わざわざ外国にまで命をかけて戦争に行く人間もいたが、それは他国の領土や財産があわよくば取れるという欲目が付いて回った
人の欲目は国外へ出かけていく戦争のみに見られた心理ではない。本書では、「祖国の防衛」という語の「祖国」が自分の土地という狭い認識の上に成り立つものであったとし、その自分の土地が守れるかどうかの単なる欲目から出た概念であったと断じている。この概念は、本論の趣旨とは少し離れるようだが、「祖国の防衛『以前』」の概念を説明するものしては妥当である。
その「祖国」の概念が出てくるのはいつか。フランスにおいては、百年戦争というフランス対イングランドの紛争の時代であったとしている。本書では、いくつかの「祖国の防衛とそのために死ぬこと」の意義を説く教会や法学者、思想家の言説を分析しているが、その部分が面白いのではなく、その行為によって、死んだ人々をいかに記憶し、まつるのかという制度が確立していく状況と、その死を評価していく心性の成立について書いてある部分である。
いわく、もともと戦争で何らかの大義を背負って死んでいった人々を評価するような制度どころか、心性もなく、ただ死んでいった不幸な人という評価だけが下されていたと。シャルル7世は、このように王や国家のために死んでいった人々に対する関心が薄く、態度を改めるよう進言する匿名の文書によって、ようやく改めた。
「宗教」を守ることが「国家」あるいは「祖国」を守ることという概念図式からスタートするが、「国家」「祖国」イコール「宗教」だった時代が終わると、宗教の部分が強化されていく王権にすげ変わった。しかし、それまでの祖国という概念が、身近で実体を持ったものだとすれば、抽象的な形を持った概念に変化していくのは1789年のフランス大革命である。この革命以降、王政復古によって王位に就いたときの王ですらも、自らの名前のもとに命令を出すことが出来なくなり、ルイ18世はレジオン・ド・ヌール勲章の認可の際も「名誉と祖国」のもとに出していた。
しかし、真の意味での愛国心、すなわち「祖国のために死ぬ」ということの概念は、1871年の普仏戦争によってフランスがプロイセンに負けたことに対する国民的な復讐心から生成していったと書いている。
本書の解説にもあるように、「祖国の為に死ぬ」という概念を追いかけているが、それをいかにして記憶していく装置を作り出すかというところまでは踏み込めてない。この装置に関する部分の研究としては、工藤庸子氏『フランス文明批判序説』(東京大学出版会 2003の中で、文学史・文学教育・ナショナルヒストリーの観点から書かれている。「資料」をもって定義を語らすというフランスの歴史家がよく行う記述形式が取られているが、「資料」で状況を語る以前に明確な「祖国」の定義が欲しかった。ナショナリズムの流行が19世紀後半であるから、祖国という概念定義は今日と全く異なっているはずで、そこから埋めていくのが、普通の方法と思うからである。