tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

南円堂の曙光、不空羂索観音菩薩の慈悲 ー6ー

2009年01月12日 22時07分04秒 | Weblog

そこは神の山と呼ばれる北の方の山の中、あるいは都市の郊外・・・

2008年10月30日、私にとある学校法人から出頭命令が降りた。学校職員の面接である。自慢じゃないが、これまで学校職員という職種には縁がない。ことは前にも書いた。その上でとりあえず面接である。

しかし、私は気楽であった。「とりあえず員数合わせでよんでもらったこと・・・」と思って面接に向かった。それ以外にも、派遣で印刷会社の日本語の校正を紹介してもらったという事がある。

A社の学校事務エントリーに失敗してからしばらく、やはりA社から今度は京都のオムロンのフランス語電子辞書の内容チェックの仕事が入って来た。紙の家電製品のマニュアルを見続けるより遥かにマシなのだが、問題は2009年1月末までの契約である事。さすがに長期を探していたから、短期を行うのは抵抗があって、一度は断った。

だが、他に仕事がある訳ではない。それで、一週間もした頃、電話をしてみると、やはり他の人間で埋まっていた。当たり前だ。もう10月も20日くらいになっていた。さすがに焦る。そこで浮上したのが、私にとっての「禁断の派遣会社」である。

派遣会社のM社に登録したのは、2004年と古い。あの頃私はとある専門学校の制作部のバイトで、イラストレータとフォトシショップで広報ツールの制作を行っていた。それを活かして、DTPのオペレータの仕事を探していた。DTP関連の仕事を多く持っていたし、派遣でも経験になる。しかし、登録時のスキルチェックはふるわず、その後少しの間、仕事が紹介されなかった。それからしばらくして電話がかかって来たが、紹介されたのは校正と制作管理の仕事。明らかに望む物とは違った。それに対して気分を害する

大日本印刷の子会社だという事であったが、もう制作は大日本印刷自体が行うのではなく、子会社が行っていると聞く。時給は1000円。残業量は多く、客との折衝もあるという。今でも思うが、時給1000円はきつい。当時勤めていた専門学校の制作も時給1000円だったが、交通費は出た。しかし、保険の類いは全くなかった。交通費が無くて、保険をとられると月10万がせいぜいである。確かに残業代で稼ぐことは可能であるが。

何よりも問題なのは、DTPから外れてしまう事である。ただ、担当者は「貴方のDTPの能力では仕事は紹介できませんね」とまで言った。ここまで言われたら、その派遣会社にこだわる必要性も無い。そのとき私は断ったが、事態のひどさは感じていたし、まして、次紹介が受けられる保証は全くなかった。

それが尾を引いて、いままで避けて来た会社である。厳密には、先の翻訳会社にいる時も電話がかかって来て、仕事の状況ついて聞かれた事がある。でも当時は「ええ、契約社員として就業しています」と答えた事がある。若干の優越感があった。
「ざまあみろ、紹介を受けなくとも、契約で仕事を見つけてやっているぞ」

それからしばらく、その会社も辞めて、ウロウロする日が長々と続く。

そうは言っても、金はドンドン無くなっていく。時給1000円しか出ない会社でもやらないよりマシだ。そう思って、次の日、ネットで手頃な仕事を探した。目標は「日本語の文章の校正である」これは楽勝であった。1300円だったが、大阪の難波の印刷会社のカタログ校正であった。期間は12月の末まで。

あの時、私の頭では年末までの仕事と年度末までの仕事の二段階に分けていて、それで動くつもりだった。それで春は迎えられる。エントリーして次の日、電話がかかって来た。ここ数年の経歴を聞かれたあと、難波の仕事は他の人間で塞がったが、芦原橋の印刷会社の仕事が発生しつつあるという。路線図を見ると、大阪環状線の枠内。少し交通費がかかるが、行ける場所だし、紹介を受ける事にした。次の日に面接が行われた。当初12月下旬までの約束は11月いっぱいにされたのだが、それでも良いというと、では来てもらいましょうという話になった。それは10月29日。次の日から、ということもあったが、実は28日にかの学校法人からの面接の約束が取り付けられていた。

30日は学校法人の面接。11月1日スタート。

さて、学校法人の話に戻そう。その求人を新聞で見たのは11月の半ばであった。見てると分かるが、新聞における学校職員の募集は結構多い・・・が、これらの大半は女性をターゲットとしているため、本当に受かりにくい。私も何度、蹴られたことか・・・。それゆえ、今回はもう履歴書を出す事もあきらめていた・・・のだが、家族がそれをみて勧める。

「とりあえず・・・」的な感覚で、履歴書と職務経歴書を書いて送った。・・・・ら、面接の指示である。「どのみち、男性を呼んで、公正に採用試験を行ったという感じだろう」くらいに考えた。

10月30日当日、指定された教室へ入ると、男性は私一人。あとは女性ばかり。「ああ、本当に形式的なものなのか」と確信にも似たものを得た。面接は集団面接。前半は4人。後半も4人。そのあとパソコンのテスト。私は後半のメンバーに入ったが、ほとんど何も聞かれなかった。ただ、11月いっぱいはカタログ制作の仕事があるから、12月からにしてくれと。

ワガママは言うし、ほとんど何も聞かれなかったで、こりゃあ不採用だなと思って、外の風景を眺めた。山裾に校舎を持つその学校から眺める外の風景は、結構綺麗だった。そして、私は振り返り、もう来ないと思って、バスに乗り込んだその帰りは結構楽しかった。探していた鈴木広の『都市化の社会学』を古本市で見つけたりしたからだ。

不採用が決まったも当然の帰り道はこれほども楽しかったことはない。明日からの仕事は一応確保できていたからなのか。

さて、夜。その学校法人から電話がかかって来た。もう結果が出たか。まあ、不採用出すのは簡単な人間だからな・・・。と思って、電話を取った妹から受話器を受け取った。

「本日は面接にお越し頂き、ありがとうございました。つきましては、あなたにお越しいただきたい・・・・」と。

私は一瞬、目の前が真っ白になった。

南円堂の曙光、不空羂索観音菩薩の慈悲 ー5ー

2009年01月03日 21時51分33秒 | Weblog


「なぜ呼び込みたくもないものを呼び込んでしまうのだろう。」と問いかけをする。それは結局、天職だから?

「いや、そうでもない。」でも、これから選ぶ仕事の中で、大きく逸脱は出来ないのだろう。そう考えていた。だとすると、編集や校正で外国語を扱う仕事は、人の見方によっては、かなりの「花形」的な仕事になるのだろう。でも、本当に私には向かない。いろいろ整理してみると、編集や校正は本当に向かないわけではない。一番問題なのは、家電業界を相手にして仕事を行うのが無理だという事。かつて、前職で私が客相手の「コーディネータ」という場所に行けなかったのは、あまりにも上手な「客」の相手が出来ないという上司の判断であった。しかし、「コーディネータ」にならねば、正社員にはなれなかった。正社員になりたいが故に、飛び出しのが本音だったが、結局のところ、派遣やアルバイトを繰り返す日々。

繰り返し整理しよう。すべての元凶は「家電業界」である。と私は断じた。この断定は今現在、徐々に当たっていたのではないかと考える。今度のグローバルレベルの不況で一番先に店を閉じたのは、外資系資本の傘下に入った(乗っ取られた)老舗旅館だった。これはニュースで見た。その後、凄まじい勢いで不況が進み、家電メーカの工場が次々と閉鎖に追い込まれた。その結果、多くの派遣や期間工が契約を解除された。私が行った松下の子会社の制作会社も今ではどうなっているのか分からないし、
話を一昨年に戻せば、奈良にある精密機械メーカの子会社で外国マニュアルの制作部門も面接を受けたが、その高見から見るような鼻持ちならない面接官に嫌気を覚えて、延々のばされた二次面接の前日に断ったことがある。社長が出て来た1次面接で、「どうも親会社と切れていないので」と二次面接を指示された。私は「あんたの会社の従業員を選ぶんだろが、これから客になる親会社の重役とやらに、『うちの会社、こんどこんな人採るのですが、大丈夫ですかね』と聞いて、そもそもそんな子会社を信頼できるのかね」と考えた。その親会社も今では倒産の一歩手前まで行っているそうだ。工場の前では、派遣社員が連日デモを行っているとか。

ともかく、10月7日で契約が解除された私は、次の日、A社の大学職員の派遣にエントリーした。しかし、わざわざ電話をかけて来た担当者は家が遠い事を理由に難色を示す。なんか問題があったら、わざわざ電話を返す事もないじゃないかとも考えるが、それを言わずに「ええ、大丈夫ですよ」と言ってのける。

その日、10月8日。奈良豆彦古神社の翁舞が行われる日である。何故だが、学生時代に見に行ったこの伝統行事に、私は行く事にした。

神社の駐車場に自転車を止めていると、電話がかかって来た。A社である。担当者は次のように言った。

「先方の事情が変わりまして、学内の職員の異動で調達するそうです」と。聞くからに嘘くさい。だが、いよいよ派遣会社に嘘をつかれてかわされるほど、ひどい状態になってきたことに私は焦りだした。神事が終わると、そのまま自転車で飛び出し、気づけば私は興福寺の南円堂の前にいた。すでに人通りは無く、真っ暗だ。

いつものようにお参りはしたが、何を頼んだのか覚えていない。ただ、いつもよりも静かで人通りのないその場所に、私は少し長くその場にいてたと思う。そして、「もう九日後か」とも思った。それだけ落ちついたということであろう。

さて、9日後。

10月17日、この日、南円堂は一年で一日だけ開扉される。初めてこの中に入ったのが一年前。一年間生きて来たのが不思議なくらいだった。不空羂索観音菩薩に真向かい、腰をかけて、じっとその尊顔を眺める。内部は少し暗くて、はっきりと見える訳ではないが、それがかえっていい。後ろではお遍路の人々が、お経を唱えている。南円堂の観音信仰の厚さをもって、興福寺の境内ではもっとも人の集まる空間である。

数日後、私は新たにW社に登録した。というのも、R社からは仕事をもらう気になれないし、通常、派遣労働者と派遣就業先の双方の合意を聞いて、労働者を送り込むのが通常の派遣会社の方法であるが、最大手のS社はこちら側の意向など聞かず、ただ、派遣先に良い顔すべく、人を押し込むことがわかったから、よけいに任す気になれなかった。派遣会社は星の数だけある。とにかく登録しておけば、紹介も受けやすくなるからだ。

W社を選んだのは、編集と校正の仕事を持っていたからだ。

私の前職で、一時期たくさんの派遣社員を入れたことがあった。その中のヤノシゲ氏は、ヤクとシノギとチャカ以外が専門の人だった。すなわちオンナである。風俗関係の雑誌編集に長くいた彼は、こんな外国語の編集と校正よりも、日本語でやれ。といった。家電業界を退け、外国語を退けても、手元には(日本語の)編集と校正の業務が残るということに気づいた。

W社の登録時の面接は今ひとつ分からないものであった。やりたくないものを挙げろと言われたが、私の場合、家電や外国語校正以外にも、テレマーケティングも入ってくる。挙げる度に理由をいちいち聞いてくる。やりたくないものはやりたくないもので、理由を聞いて、覆すのですか?とも聞きたかった。覆しても、それで続く事はないのだが。

派遣会社の登録時の担当者の名刺に、時々「ジョブカウンセラー」とかの、いかにもそれ相当の資格を得たような肩書きが入っていることがある。それはそれで結構ですが、本質も見抜けないのに、カウンセリングを行うのも本末転倒である。

で、その時はすべて別の人間で埋まったらしく、仕事が発生したら、紹介くださいと伝えた。おそらく3,4年は電話もかかってこないはずだ。

さて、日本語の編集や校正の業務を多く持っている派遣会社はどこか? 前々から浮かんではいたが、あの会社は禁断の派遣会社であった。しかし・・・・。

南円堂の曙光、不空羂索観音菩薩の慈悲 ー4ー

2009年01月02日 13時54分35秒 | Weblog


2008年7月、私は大量の保険証書の整理業務についた。整理と言っても、紙ベースの証書をPDFにする際の整理である。これは、その状態を崩す事無く、整理された順番になるようにナンバリングを行うことであった。

そこに集められた人間の数は約140名ほど。3社ほど集められていたが、男女比、いわゆるジェンダーバランスは私が所属した派遣会社が一番均整の取れた形になっていた。そしてまた、比較的穏やかな人が多かったのも特徴的であった。あるとき、他の派遣会社の仕事をしていて、事務作業を行いながら、話が「派遣会社評」に及んだ時があった。「A社は給料が安い」と言った。だがまあ、H社の人間が集められていた、その場の殺伐とした雰囲気に比べれば、A社の方がずっと良かったし、そう言った彼女は、派遣最大手のS社でもゆうゆうと立ち会える人だったから、どれだけ職場環境や人間環境が悪くても、金だけもらえたら、それで良いという人なのであろう。

A社を通じて得た、この仕事で知り合ったメンバーとは、今でもメールのやりとりをしている。

8月で契約は終了だった。実を言えば、9月以降も継続して仕事はあったのだが、私はこれを断った。
9月に入り、私は母校の事務職員の再アプローチをかけたが、これにたいして、何の返事もなかった。さすがに、このとき仕事もそこそこで、人間関係にも恵まれた書類整理の仕事を早々と退職したことを後悔したが、やはり次を探さなければならない。

派遣最大手のS社へ登録した。人に聞くS社の評判は良くない。しかし、仕事だけは豊富であった。そしてまたなぜかすぐに決まるという評判であった。何日も家にいて、パソコンを眺めながら仕事を探していると、しんどくなってくる。9月下旬に入り、R社から電話がかかって来た。私の中ではR社は登録したものの、仕事エントリーしても全く反応のない「使えない会社」であった。そのとき紹介されたのは「印刷会社のDTP部門」と「制作会社のDTP部門」、「制作会社のマニュアル制作部門」

「印刷会社のDTP部門」に関しては、結果が目に見えていた。給料の良さを見れば、かなりの熟練者を求めている事は明白である。「制作会社のDTP部門」に関しては、かなりしんどい仕事のようだ、さんざんその仕事をした後で、社員採用になる「紹介予定派遣」。しかし、驚いたのは、どちらも少し前まで新聞やネットの求人広告で派手に出していた会社である。大方予想はついた。いま、本当に即戦力的な技術を持つ人間が少なくなっているということだ。普通の求人では望む人間が取れないのである。初心者を退け、人を投げ合って来たツケを社会が払う段階に来ているという事でもある。もっともその事に対して、ほとんどの会社は自覚的ですらない。ただ、投げられた人間にしてみれば、「もう二度とこんな世界に来るか」という気分になる。すべての人間が「何くそ!」の気持ちを持てるわけではない。

「制作会社のマニュアル制作部門」に関しては正直困った。あの外国語マニュアルの制作である。本当のところを言えば、この仕事は二度とやりたくない。何も自分にもたらさなかったからである。しかし、このまま行けば食うに困ることになる。

松下電機産業。の子会社。

雨が降りしきる中、私は派遣会社の担当者に面接に連れて行かれた。そこで実に45分ほど喋って採用が決まった。何のことはない。家電製品マニュアルを外国語で作っていましたと言えば、過去の経験が買われて採用されるものだ。やる気など・・・どうとでもなる。私でもそのくらいのペテンは行える。前職と違った点は、よりメーカーに近い位置で仕事をするということ。そしてまたずっと派遣のままで仕事をして行くという事。社員の登用などはないのだ。「5年のサイクルで見て欲しい」と言われた。すなわち、5年後にこの仕事があるかどうかわからないということ。

まあ、不況が進み、家電業界に「パーフェクトストーム」が襲いかかった今となっては、今年仕事があるかどうかもわからない状況になったのだが。「大丈夫ですよ、3年もたったらマニュアルのチェックどころか、ライティングも出来るようになっていますから、何処へいってもその経験は買われますよ」と言ったのは派遣会社の担当者であった。

たしかにそうだ。前職はクライアントからもらった「完成原稿」を他の言語へコンバートし、整えるというだけの作業であった。何かを作り上げているという手応えはなく、「コンバート」が主体だから、多くの金も取れない。その割に作業量は多く、
気苦労だけがつきまとう仕事・・・・。だから、入っては辞めて行く、多くの人間を見送るだけであった。

10月1日に入って暇が続いた後で、行った仕事は、繁体中国語のチェック作業であった。しかし、この仕事をもらうのもすごく時間がかかった。ちょうど会社が休閑期に入っていたからである。少しパニックが起こって来た。

前職のことである。大阪のキタにあった外国語マニュアル制作会社に入社したとき、私はDTPのオペレータとしての雇用であった。しかし、入って一週間でその仕事を外された。必死でやったが、どうやら「熟練の技術」からみて、相応しくなかったらしい。そしてしばらく、会社に出て行って、一日何もしない日々が続いた。会社にしてみれば、そのうち根をあげて自分から辞めるというのを待っていたのだろう。だが、私は図々しくも居残った。だが、周りが忙しく働くのを見ながら、居続けるのはすごく精神的にまいった。地下鉄の梅田の駅のベンチに朝から座って、「今日も一日何もする事はないのだな」と考えながら、始業時刻までの時間を過ごしたこともあった。卑屈にも社内で頭を下げまくった私は、どうにか編集と校正の仕事を得た。しかし、その後を見ていると、DTPで使えなくなった人間が編集と校正に回されるパターンは実に多かったし、そこで反論した人間は、容赦なく「切られて」いった。私の場合は社内で「営業」したのが幸いした。この「営業」すらせず、居残った人間もまた切られていった。

この極端に仕事が少なく、回ってこない状況にさらされた私は、あの梅田の駅でベンチに座り、朝からため息をついていたあの頃を思い出したのである。

それでも社内では何人かの人が良くしてくれた。昼休みには、社内食堂へ行く。メニューには若干偏りがあって、味は本当に良くなかった。夏の書類整理で行った会社の社食は本当に気合いが入っていておいしかった。

門真の駅からコンビニもない不況の街を10分ほど歩いて、工場のゲートで認証を取り、工場の敷地内にある建物で午前中仕事して、お昼12時に部屋の電気が消されて、社食へ仲間と行って、食べて、45分しかない昼休みを過ごす。工場内にあるATMはいつも人が並んでいて、平日に金を下ろすのをあきらめて、郵便局に行く時間もとれず、取れたとしてもあのゲートで認証を取らなきゃならず、12時45分には集まって、ミーティングを行い、夕方17時には「かつて」松下幸之助をたたえたとおぼしき曲がスピーカーから流れても、仕事を続行し、19時くらいに仕事が引けて、家路を急ぐ。

会社とは工場であり、工場とはお城であり、その中に入ったら、一日何所へも出られない。それ故に、工場内には何でも完備されていて、ある意味で会社の「温情主義」とも言われる。その不自由さがこれから何ヶ月、何年と続くのかと思うとたまらなく不愉快であった。

様々な派遣会社から人が来ていたが、ここ門真の隣の守口にあった三洋から来た人がいた。今、三洋では技術系でも人減らしが進んでいて、三洋の派遣は、みんなこっちへ来ているとのこと。私はそこで将来像を描いた。そのうちこっちも景気が悪くなって、堺に出来るシャープの液晶工場へ移動するのか・・・。

しかし、今となっては、シャープの堺の工場も出来るのかどうかが怪しい。

一週間ほどで、私は仕事を辞した。