tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

2005年とは

2005年12月31日 23時53分22秒 | Weblog
2004年夏に受けたDTPエキスパートに9点足りなくて来期受験で始まった2005年だった。この試験にには最終的に合格する事が出来た。自分の中ではもう後二つくらい受験する予定があったけど、結局その機会を逃してしまった。来年はどうにかしなければならないと思う。

あと、このブログを始めたことが大きかったと思う。
第一にブログ自体もある人物(全く見ず知らずの人間で、現在では全くつながりのない人物だが)から勧められて始まったが、意外にはまる事となった。とはいえ、読んでくれる人がいて始めて成り立つこの空間、長く読み続けていただいている人々にお礼申し上げたい。

自分自身のイベントで今年一番大きかったことと言えば、今の会社に落ち着いた事かなと思う。毎日バタバタと忙しくしながらもそれなりに楽しくすごしている。

このブログを書き始めてわかった事だけど、意外に自分自身の「書く」力が落ちていない事に気づかされた。それ以前はブログ開始の一年前までさかのぼる。当時はある調査会社で研究報告書を書いていたが、それから一年以上が経って、なおかつ大学を出て何年も経っていたが、それでも書く事に対しては、何ら落ちていなかったことだ。これは夏場にある組織の懸賞論文に50枚くらいのものを投稿するきっかけとなった。これには落選したが、また別なところで、もっと自分にあった内容で投稿する気でいる。

ブログ開始とともに、ネタを探すために本を今まで以上に読み出す事になったこともある。それはこのブログの読み手の関心に必ずしも一致したものではないかも知れないけど、それでもこまめに報告が出来てよかったと思う。

ただし今年後半は、「学術系」の本の紹介が多く、それは結局そっちの方へ関心が傾いた事でもあった。別段悪くはないが、WebやDTPを仕事にしているのならば、もう少し、こちらの方の紹介ができたても良かったのではなかったのではないかと思う。来年、もう少し仕事方面で「仕掛ける」のならば、考えなければならないであろう。

あともう少し体を動かす方面で考えなければならない。

とにかく、来年もよろしくお願いいたします。

牛を置いてください

2005年12月31日 01時11分24秒 | Weblog
大丸梅田店で古書市をしているとかで、大阪へ。本当は火曜日にも昼休みに職場を抜けて、お昼を食べにいったついでに、立ち寄ったのだけど、本当に見ている時間がない。ゆっくり見る事が出来なかったことと、明治期の教科書が置かれているのが目に入ったので、もう一度行く事にした。というのも、明治期後半から、大正にかけての女学校のテキスト入手を伯母から依頼されているのだが、これがなかなか見かけないもの。こまめに時間をかけて探すより無いのだが、いかんせん、イメージ程度の情報しか持ち合わせず、雲をつかむような状態で探す事になる。

結果・・・見つからなかった。

同時並行で、自分の買い物もする。こないだ書いたブログ「飲み込まれるということ」で浅羽氏の『ナショナリズム』を取り上げたのをご記憶だろうか。実はあの本には根拠となると言うか、種本となるものがあって、それが筑摩書房から出ていた「現代日本思想体系(全35巻)」というシリーズに入った『ナショナリズム』という本。浅羽氏はこの全集を早稲田大学の近くの古本屋で均一本として入手し、こまめに揃えていって、その解説の部分を読んでいったと書いてあった。

この部分を読んでから、この「現代日本思想体系」も古本屋で探す対象となったが、良く似たタイトルで出ている岩波書店の全集だけは、腐るほど古本屋で入っている割には、見かけない。一度全く欲しくない主題で書かれたこの全集の一冊を、かつて書いた「靴を脱いで入る古本屋」で見かけた事があるが、結構な値段がついていた。もう均一本どころか、希少な価値を持つ本になったのかも知れないと思っていたが、今日、発見した。それもズバリ『ナショナリズム』で。

本の奥付を見ると1964年初版とある。結構古いが、次の行では1968年の時点で第7刷となっている。たった4年で七回も刷ったのである。結構売れていたのかもしれないが、私が入手した本には、書店で売れたときに抜く「ボウズ」(しおりのようなもの)が挟んであった。売れずに残り、古本屋に回されたのかもしれない。ちなみに定価が650円の本だが、古書市のでの売価は500円だった。まあ、こんなものかも知れない。解説部分は吉本隆明だ。

で、バタバタとしていて、正月早々東京へ行かなければならないので、行きの新幹線や帰りの夜行バスの手配をする。そのついでにJR大阪駅の構内になる新刊書の本屋へ寄ったが、この店は結構商売熱心で、サイン会や「意見をください」の箱を置いている。その質問内容と、回答を書いて貼ってあったが、この中に「?」と思うものがあった。

「牛を置いてください」

という希望である。とんでもない質問だ。これに対して書店側は、

「先日、営業会議があって、議案に載せましたが、残念ながら、議決の際に牛を置く事に今一歩及びませんでした」

という内容のもの。

なかなかユーモアがある。


苦手なパーティー

2005年12月30日 01時20分15秒 | Weblog
おとついは御用納め。今日から年末年始の休暇が始まった。ちなみに私の会社の休暇は、来年の1月4日まで。5日からスタートだが、その5日納品というのがある。それで年内は非常に忙しくなった。

おとついの予定では、13時から大掃除で、17時半から乾杯の予定だったが、うちのチームはもちろんのこと、他のチームもそんな時間からスタートできない。校正した原稿をDTPに回して、DTPから帰ってきた原稿をドンドンチェックしての繰り返しだった。仕事に切れ目が見えないくらいだった。結局、とにかく乾杯だけでもという事になって、乾杯するが、こちらはコーラーだけですました。形式は立食パーティーだけど、最終的に頼んだピザやらなんやらがたくさん残っていたようだ。私は乾杯もそこそこに抜け出した。仕事もあるのだが、実は、パーティーの類いが苦手なのだ。

「出版屋の仕事」主催のタミオさんは、自社出版物の出版記念パーティーをどういうものにするのかで悩まれていたみたいだが、その悩みの中核は、ほとんど面識の無い人々とどのように「和やかに」過ごさせるかという事。

会社が狭くても、ほとんど話をしない人なんてたくさんいるし、それで別段損をしているようにも思えないから、こういう場で改めて話をするとなると、本当にやりにくい。それで、仕事を口実にそこそこに抜け出した。おかげで、8時くらいに帰る事が出来ました。

思えば、大学院の頃から、あの手のパーティーが苦手だったのだと思う。理由は前にも話した通り、大学院生の存在とは、指導教官のネームバリューだから、相手が知らなければ、話はそこまで。その上、あんまり勉強しなかったから、相手から関心を聞かれても、中途半端な答えしか出せなかった。これで大恥をかいたのは一度や二度ではない。それで自分の対話能力に自信が持てなくなった。それで、「研究発表会を行って、その後懇親会を行います」と言われても、「いや、ちょっと予定があって・・・」みたいな形で断ってきた。あれはもうトラウマのようになっている。

パーティーではきちんとした所属を持っていることと、話術な巧みな人が成功するものだと思うし、実際、これははずれていないだろう。あと楽しめるとすれば、開きなおれるくらいの人かも知れない。そういえば、よく食べているだけの人を見る事があったし。

思うように書けません

2005年12月28日 09時34分07秒 | Weblog
おはようございます。tyokutakaです。

本日は御用収めで、午前中で業務が終了し、午後から大掃除の予定ですが、
みんな、「どこの会社の話?」と言わんばかりに、忙しいです。
昨日も、帰ったのは、終電の一本手前の電車でした。

その上、家のパソコンの管理者から、ウィルスバスターの入れ替えで、
いま外しているため、ネットにつなげません。管理者は、ものすごく重要な
ファイルを使っているらしく、うかつにウィルスを入れたくないみたいです。

更新が滞る可能性が高まりました。
皆様に、お詫び申し上げます。

書評:松田素二 「呪医の末裔』(講談社 2004)

2005年12月26日 14時42分51秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(副題:東アフリカ オデニョ一族の二十世紀)

恩師、松田素二先生の最近作である。先生は中学か高校生のころ、友人との会話から、次のような疑問にぶつかった。「フランスやイギリスの歴史が盛んに研究されている半面で、なぜアフリカの歴史がほとんど紹介されていないのか」と言う内容である。この若き日の先生の疑問に対して、友人は次のように喝破した。「アフリカ人は固有の文字を持たないから、歴史を記述できない。したがってアフリカには歴史が存在しない」と。

しかし、実際にはアフリカにも歴史があって、それは欧米重視の学者の偏見にも近い意図から取捨選択されていたのである。また欧米の歴史観を通じてもたらされる、アフリカ人像は「野蛮な人々」のイメージであった。先生はこのイメージを打破し、本来の姿を伝えるべくアフリカの歴史を伝える本を編んだ。『新書アフリカ史』という本である。新書にして596ページというボリュームは、「アフリカに歴史が存在する」ということを伝えるのに十分な量であった。

しかし、この本はマクロな視点で歴史を捉えることを目的とした結果、先生が本当に考えている、というよりも研究の中で実践している方法を追及するには不満の残る部分があった。彼は研究者的マクロな視点よりも、地元の人々と会話をするような、ミクロな視点を重視するのである。しかし、ミクロな視点を重視するから、研究のスケールにダイナミックさを書くという意味ではない。むしろ、個人の小さなひとつひとつの行動が、マクロな「歴史」へつながることもあるのだ。

本書は、アフリカ・ケニアに在住するひとつの家族の歴史について追った内容となっている。その始まりは、実に百年前にまでさかのぼる。しかし、その始祖ともいえる人物に彼はインタビュー調査を行ったわけではない。その子供たちや、孫たちを中心にインタビューを重ね、構成していった。

確かにケニアはイギリスに支配された土地であった。そこには植民地的収奪も確かにあったが、彼らがただ、力を前に屈服していたのではない。むしろ支配を受けることによる困難を、その支配の力を逆に利用することで、乗り切った部分もあることを明らかにしている。たとえば、白人の強制労役に対して、これを逃れるべくキリスト教の宣教師の修行を行ったとか、兵役に対して、自ら志願して、軍隊の中でもより安全な技術者的ポジションに付くとか、そうした白人の技術を習得することで、のちのち工業化していくケニアで非常に役に立ったとか。白人のサーバントという白人でもないが、黒人のエリートである意識を根付かせられる過程などが描かれている。

その半面で、この一族の開祖が持っていた原始宗教を土台とした呪術に拠る医術(誰かに呪いをかけられている故に、病気や怪我をしたりするから、取り除くと言った)という、いかにも「アフリカの神秘性」の部分にも深く言及しているが、それは彼がこの部分に関心を持つのではなく、むしろオデニョ一族をはじめとする、ケニア人の日常的な生活の一光景であることを伝えている。それを非文明的な文化だと断じれる人間がどこにいようか。

植民地支配は、村の中という非常に狭い共同体の中で一生を送るというライフコースを崩壊させ、都市や白人農園に出稼ぎに行くという新たな習慣を根付かせた。しかし、今日首都ナイロビという都会へ出て行っても、仕事がなく、農村へ帰っても暮らしが難しいという非常に困難な状況に多くのケニア人が直面していることも書いてある。アフリカだから、広大な土地を耕せば誰でも暮らせると言うのは、日本人の無理解からくる浅はかな知恵であることに気づくだろう。実際のところ、日本人の無理解と偏見はここまで進んでいるのだ。それを欧米のせいだと責任を転嫁するのは、もう間違いであり、ただ自己責任を全うしていない人間であることを自ら証明することにもなる。

今日、こうしたエスノグラフィーがどのような方法で書いても、欧米的な学問に依拠した「偏見」であると批判され、それが文化人類学への逆風となっているが、本書は、そこにとらわれることなく、同じ人間の異なる生き方を追いかけると言う視点で書かれた一級のエスノグラフィーであることは間違いないであろう。

賞与が出た

2005年12月25日 01時37分20秒 | Weblog
極端に正社員が少なく大部分が契約社員で、仕事が忙しくなるこの時期、派遣社員が多くなるtyokutakaの勤める弱小外資系(笑)おとつい金曜日も休日出勤だった。

こないだ、やはり内部の人間と話していると、
「うちは外資系じゃないよ」と言われた。表看板は外資系だけど、
社長と、数人の人々がカナダ国籍を持っているだけで、大部分は日本人。
それもコテコテの日本人ばかりだ。

私:「でもウチの親に外資系といってしまった」
同僚A:「悪いこといわねえ。謝ってしまえ。」
同僚B:「そもそも外資系の定義そのものがないんだろうな」
と言って、インターネットで調べる。
なんか良くわからない会社だ。でも、いままで、わかる会社に入った事などないのだが。

契約社員は、基本的に賞与が出ない。毎月の稼ぎがすべてだ。まあ、やせ我慢を言えば、労働力の対価としての月給とは違い、「仕事のご褒美です」という性格の強い賞与は、もらって気分のいいものじゃないが、やると言われれば、病気と不幸以外何でももらっておくのがいいかもしれない。いや、もらっとくべきだ。

偶然にも、寸志程度だが、出ることになった。ここへ年末調整が重なって、これまでにない金額をもらえることになった。母と妹に明細を見せると「ここまでもらえるの?」と言う額面だった。

正直言うと、結構うれしい。
私も小市民です。

凍える日本

2005年12月22日 14時35分28秒 | ニュース
かなり強い寒波が日本を襲っている。
京都の丹後地方はずっと大雪警報が出ているみたいだ。

こちら大阪で積もるほどの雪が12月に降ったなんて、ここ15年くらいの記憶でもない。朝からふぶいてすごかった。

まず交通機関が遅れるのは普通のことだが、雪のせいでもなく、どこかの駅でポイント故障が起きたとか、落雷により地下鉄が止まっているとかで、まったく関係のないことでアナウンスがかかっている。妹は地下鉄に20分以上カンヅメになり、ドンドン、ケータイのメールを送ってきた。

もちろん、遅刻してくる人が多かった。
あれだけ吹雪いていた割には、今は晴れていて、道も乾いている。
でも寒い。

カレンダー不況

2005年12月21日 14時20分16秒 | Weblog
毎年この時期になると、父の勤める会社に年末の挨拶や、普通の打ち合わせなどで来た客が、カレンダーをおいていくそうだ。中には改めて郵便物として送ってくるところもあるようだ。私が子供のころ、その数は膨大だった。他には手帳などもあった。持って帰ってきたカレンダーは、家族が物色したあと、必ず残り、捨てられることが多かった。

うちの家では一枚ですべてが事足りるような、ポスター型のカレンダーは貼ることがなくて、必ず月めくりのものだ。ただ、若干、卓上用のカレンダーがあるくらいか。

こないだビックカメラでその一枚もののカレンダーをみんな持って帰っていた。使わないから、私はもらわなかったが。確かにブック型のカレンダーよりもポスター型のほうが、生産コスト的に安くつく。

ただ、今年は趣が少し異なるようで、会社にくるカレンダーが少ないそうだ、毎年出ているカレンダーばかりを集めた段ボール箱が今年はないと聞く。もう企業の配布物としてカレンダーを作ることは少ないのかもしれない。

ところで、客間にあるカレンダーは毎年お金を出して買うもので、芹沢圭介氏の作品だとか、和紙に多色刷り版画というかなり手の込んだものになっていて、セットで1万円を超える非常に高価なものだ。もちろん、月が変わったら変わったら、上の方をびりびり破いてほかすという類のものではない。額に入れて見せるという類のものである。ただし・・・・毎月きちんと変えることができれば、いいのだが、変更担当の母がサボることが多く、さらに次の月に変わる直前に変えたりすることがある。こうなると、カレンダーの機能よりも、絵をかけとくいう感じになってくる。

ちなみに芹沢氏はもう十年以上前に鬼籍に入り、今は芹沢氏の作風を残しながら、同氏の名前を借りて、お弟子さんたちが作っているとか。

ここ数年、私の部屋にかかっているのは、サントリーのカレンダーである。過去の商業用ポスターを題材とした内容になっており、そのデザインセンスのよさは、私のお気に入りである。ただしこのカレンダーを入手するにはサントリーのサプリメントを通信販売で買わなければならず、肝心のサプリメントは父や母が飲んでいる。

完全不規則化!

2005年12月20日 00時52分52秒 | Weblog
毎日更新のはずが、すっかり不規則化したこのブログ。
仕事の関係で、金曜日は夜の11時半になり、今日は11時近くになった。
しかも今日は、社内納期の関係で仕事を朝からずーっと続けて、
お昼を食べたのが、16時半くらいだった。
仕事の生活もすっかり不規則だ。

口の中に口内炎が出来ているはずだけど、それも意識できないくらい
プレッシャーやストレスでもないけど、充実しているわけでもない。
だから、痛さも苦しみもなんもない。ただ、体がそれほど疲労を感じているわけでもないから、不思議だ。何も感じなくなっているのかもしれない。
本だけは読み続けているけど。

ある漫画家の現在 ーすがやみつる氏の今ー

2005年12月18日 23時43分49秒 | ニュース
今でこそ、文字ばかりの本を読む事が多くなったが、小学生の頃は、『ドラえもん』や藤子不二雄作品を中心としたマンガが大好きだった。歴史好きになったのも、小学館から出ていた『まんが日本の歴史』をずっと講読していたからだ。今の子どもは、既に生まれた時から、こうしたマンガの全集が完結した状態であったが、私が小学生の頃は、月イチのペースで刊行されていたから、ペースメーカーとしては非常に良かった。毎月楽しみにしていたからだ。そのうち、学年も上がり、本格的な冒険小説(小学校高学年から中学生を相手にしたような要約版ではない本物のハードカバー本として)を読んだのが、ポプラ社から出ていた、『十五少年漂流記』であった。あとは同じポプラ社の『名探偵ホームズ』や『アルセーヌ・ルパン全集』などを読んだ。

こうした活字本に移行する以前に読んでいたのが、実は『コロコロコミック』であり、『てんとう虫コミックス』の『ドラえもん』であったわけだ。
両親の教育方針によっては、こうしたマンガの購入を禁止したりするパターンもあるが、うちの両親は寛大であった。

時折、古いマンガなどを取り扱う「まんだらけ」などの店に入って、ガラス越しに昔のマンガ本を見ると、すごい値段に驚くと同時に、「あれ、あの漫画家どうしたんだろう」と思う事がある。

現実的な話として、漫画家ほど浮き沈みの早い職業もない。一世を風靡しても、10年もすれば人々の話題から消えていく人は多い。一作だけ良かったけど、その後が鳴かず飛ばずだというパターンも非常に多く。芸能人ならば、長くやっているともう一度這い上がるようなシステムも存在するのだが、漫画家は、一度沈むともう浮かばないというのも多い。
特にギャグ漫画だけで身を立てている人は消えやすい。藤子不二雄や赤塚不二夫といったいわば、手塚治虫の弟分に当たるような人々は、歳を重ねるごとに、よく勉強していると思わせる内容になっていった。もはや感性のみを頼りにはしていないのだ。

私がコロコロを読んでいた1980年代初頭、ゲームを題材とした『ゲームセンターあらし』という作品があった。私はあまり注目していなかったが、私の当時の友人に熱狂的なファンがいた。二人で雑文集みたいなものを作っていたが、今で言うところの「同人誌」のはしりだ。同作品はアニメ化が望まれたが、最初に登場したのは朝の小学館のCMの中で、20秒ほど動いていただけだ。これでも当時は感動ものだった。そのうちにアニメ化されたが、これをずっと見ていた記憶が無い。大分と時間が経ってからのことであろう。コロコロもそのうち読まなくなったから、一体いつまで連載が続いたのかわからない。

ところで作者、すがやみつる氏はその後どうしたのか?

たいていの場合、わからない事が多いが、今日新聞の書評を見ていると[作者にインタビュー]の記事で登場していた。なんと、最近は漫画よりも小説家として活躍しているとか。ただ今回出した本は、『マンガでわかる小説入門』という本。あの一世を風靡した『ゲームセンターあらし』の後は、株や金融の入門マンガを書いていたそうだ。もう年齢が55歳。若かった当時の写真を何となく私も記憶しているが、あの頃とは打って変わって、落ち着いた雰囲気になっている。氏は最近、専門学校や大学といった教育機関からの講師要請も多く、人に教える技術を勉強したいと、早稲田大学に入学し、心理学や教育工学を勉強しているとか。元気そうで何よりだ。

結局、ギャグだけでマンガを書くには、長く続かないという意味での限界というのが存在する。内容に深みを持たせるためには、デザインとか、効果以上に教養的な部分を勉強する事が必要なのだろう。