tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

加古隆「パリは燃えているか」

2006年03月30日 23時29分11秒 | 音楽
(NHKスペシャル「映像の世紀」オリジナルサウンドトラック完全版:Sony Record 2000)

今日借りてきたのが表題のタイトルのCD。元はNHKスペシャルの中で使われていたBGMだが、そのスケールの大きさに圧倒される。「映像の世紀」は1995年から96年にかけて放送された番組だ。映像という記憶手段が成立して100年という節目で、世界中から記録映像を掘り起こし、同時代の記録映像を見せていくという企画であったが、その映像は圧倒される物が多かった。その後も時々再放送されているがこれをよくビデオに録画した・・・のだが、自宅のNHKがキレイに映らず、一回の放送の放送時間が結構長いからビデオテープばかりがかさむと言う事態に直面した。あれだけせっせと録画したにもかかわらず、その後見る機会に恵まれていない。本当は、DVDのセットの方で、こちらの価格は結構高いものとなっている。でもいつか欲しいな。

加古氏はこの放送企画に対して、100曲程度のBGMを用意した。ただし、歌詞を付けるのではないBGMは、曲のアレンジが比較的容易で、ピアノやオーケストラ。管楽器で録音する事もあれば、ジャズバージョンといった具合にかえる事も出来る。
メインとなるのはCDのタイトルにも採用されている「パリは燃えているか」。おそらく一度くらいは耳にされた事もあると思う。

「映像の世紀」という番組から加古氏の存在を知り、そのサウンドトラックも手に入れた。しかし、完全版として再編集されていたのは最近まで知らなかった。レンタルショップで見つけて借りてきたのだ。番組の放送終了から10年がたったが、いまだにi-pod miniに入れてまで聞くこのアーティスト。聞くべき曲がまた増えた。

アドビ認定エキスパート試験(序論)

2006年03月27日 23時47分20秒 | DTP/Web
いろいろ考えるところがあって、新たに資格試験を受ける事にした。結局のところ、自分の能力が足りなくて制作の仕事を外され、裏方的編集の仕事をしていても、この先長く続けそうにもないし、それで能力の査定だけが厳しい外資系に所属していても、給料は低く、常に解雇を気にしてビクビクしていなければならないからだ。実際、社内のロール(役割)は固定され、能力の評価が本当に行われているのかという不満は他の人からも出ているし、入ったときに出来なかった事が、時間を経て出来るようになったからどうするという考課もないから、何か新しいことをやるには退職するしかない。だったら、その時のために会社の仕事内容以外の方法で、実力を付けて備えようという気になってきた。結局寂しいものだが、自分でなんとかしなかければならないのである。高度成長期のような時間をかけて組織で育てるという視点が無くなった社会なのだ。

まず、以前より考えていた世界的グラフィックソフトの開発会社Adobeが主催するAdobe認定エキスパート試験(通称ACE)を受験する事にする。ソフトの種類に分かれて受験するが、私が目指すのはIllustratorの試験である。実はこの試験、情報がAdobeのホームページでも限られていて、問題も唯一出ているワークスコーポレーションのトレーニングブックに記載されているものぐらいである。普段Illustratorを使い慣れている人ほど不合格になりやすい試験とも聞く。おそらく昨年受験したDTPエキスパートと同じくらい広い知識が必要になるはずだ。

これから勉強を進めていくので、順次このブログで紹介していきたい。

書評:竹内洋 『丸山真男の時代』(後編)

2006年03月26日 23時53分33秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
ある有名人の評伝を書くという行為は、その人物に対する意見の表明である。従ってそこには筆者のその人物に対する評価が内在するが、それは肯定的か否定的かのどちらかになるのだと思われる。しかしながら、多くの社会学者が行うような、論文中に自分の存在や痕跡を残さないという行為そのものが、この本の中にも存在していて、なかなかその作者の本意がどのあたりに存在するのかが分からない。しかし、筆者の視点を通じて丸山真男という人物の著作を紹介させると、その論文の妥当性、問題性が当時の学生一般にどのように受容されていたのかを説明していない事に気づかされる。私が気になったのは「日本ファシズムの思想と運動」について言及した次の部分だ。

ファシズムの担い手を考えるときに中間階級を第一類型と第二類型に分けなければならない。第一類型は「小工場主、街高女医の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、事に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官」である。第二類型は「都市におけるサラリーマン階級、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、其他自由知識職業者(教授とか弁護士とか)及び学生層」である。第二類型は「本来のインテリゲンチャ」であり、第一類型は「疑似インテリゲンチャ乃至は亜インテリゲンチャ」である。ファシズムを煽ったものは、第二類型のような本来のインテリゲンチャではなくて、第一類型のようなインテリゲンチャであり、第二類型のような本来のインテリゲンチャは、ファシズムに消極的抵抗さえおこなった、というのである。
しかし、この論文は少し読めば、ただちに不思議におもうことがあるはずである。ファシズム運動の担い手について断定しながら、国家主義団体の構成員の職業や学歴構成などを示す実証的データの裏付けが本文中にまったくないことである。
(中略)
だからこの論文は、ファシズムに加担せず、消極的であっても抵抗するのが「(本来の)インテリ」であることを宣言し、聴衆や読者をして、「本来のインテリゲンチャ」たらんとする決意を促すエッセイとみたほうがよいのである。同時にこの丸山のインテリ論にはもう一つの仕掛けがあった。大衆を悪玉にせず、疑似インテリを悪玉にしているのである。大衆は啓蒙の対象だから、半ば仕掛けられ騙された存在とされている。


私自身この文章を読んだときにすごく違和感があった。インテリの分類についても全く知らなかった訳ではない。この文章のもつロジックが問題なのである。まず、丸山は何の確信と権利があってか知らないが、決めつけにも近い方法論でもってインテリの分類を行った。この部分が問題なのである。そして同時に竹内のロジックでもって、非常に厄介な事に問題が複雑にされているのである。それは、丸山の引用箇所にインテリの事についての説明がなされているのだが、丸山論文においては竹内が使うところの大衆という言葉が見当たらない。その上竹内は、丸山が行ったような職業的分類で「大衆」を定義していない。従って、「本来のインテリゲンチャ」と「疑似(亜)インテリゲンチャ」の外に位置する職業の人々が「大衆」なのだが、それがはっきりしないという構造を持つ。このまま竹内が使うところの「大衆」という言葉を用いるにしても、本来のインテリゲンチャと疑似インテリゲンチャの他に「大衆」というカテゴリが区分され、疑似インテリゲンチャに操作されるという「自立性」の無い存在として、描きだされているが、これも今ひとつはっきりしない現実の説明である。このように見ると、丸山論文には存在しない言葉を独自の解釈で持って、自らの論文の説明を高める行為を行っている部分も見受けられるのである。

ただし、竹内に誤解を生じせしめた丸山論文にも問題がなかった訳ではない。丸山論文は圧倒的大多数の「疑似インテリゲンチャ」と圧倒的少数の「本来のインテリゲンチャ」の存在を説明しているが、その根拠を世間一般の職業的分類に基づいて行った事による、かかる弊害を全く根拠に入れていなかった研究者としての責任が、これから大学を出て、普通のサラリーマン(偶然にもサラリーマンになる事によって「本来のインテリゲンチャ」になり、「疑似インテリゲンチャ」を批判・攻撃する側になると言う不条理)になっていく学生の反感と憎悪を買うとしても無理のない話である。しかし、丸山の戦略を見直せば、このような懐柔政策を行う事で何を達成したかったのかと言う疑問が生まれる。

実は、その答えは既に戦後すぐに出ていた。

戦後、丸山達は戦前のファシズムの推進者、とりわけ文化人の追放というヘゲモニー争いを繰り広げ、それに勝利する事で自らのポジションを得た。しかし、これらの行為も時間の変化ともに、色あせていく。同時に自分たちの存在意義もまた希薄な物になっていく事の裏返しであった。大学紛争における丸山達知識人への攻撃は、その思想背景と方法論の脆弱さを露呈した物ではなかったのではないだろうかと私は考える。

ただし、本書の最も良い部分は(同時に本書の趣旨たる丸山真男論からはずれるという皮肉な部分もあるのだが)フランスの社会学者ブルデューやその他の社会学の理論を用いて、日本の知識人を説明している部分である。社会学に興味のある向きには、一応すすめておこう。

沖縄へのまなざし/偏見

2006年03月25日 23時35分44秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
3月の上旬、母と妹が新垣勉氏のコンサートに行ってきた。新垣氏は沖縄県出身。米兵の父と日本人の母を持つが、生まれてまもなく事故により失明。母親も彼を捨てるように立ち去り、施設で孤児のような不遇の生活を送った。しかし、その後幾多の困難を乗り越えて、現在は沖縄の歌を中心とする、テノール歌手として活躍している。今日、家族と車で出かけて、新垣氏のCDをかけていた。そこで不思議な事実に気づく。

「我々は今だに沖縄に対して、ある種の外国という差別的視点を有している」

のではないかと。かつて、沖縄の人々や北海道のアイヌ民族は内地の「日本人」に比べて劣る民族として扱われてきた。その結果として彼らの固有の文化を根こそぎ収奪し、破壊してきた。今頃になって反省しても遅い。
しかし、いまだ、この沖縄に対して我々とは異なる何らかの区別という差別的なまなざしを向けているのである。それは一体何か。

まず沖縄民謡や、特定のテーマを沖縄を中心にして発しているという事実なのである。独特のリズムを持つ沖縄民謡や、ブームがかつてヒットさせ、現在は遠く南米でも歌われている「島唄」。ここに我々は「沖縄」の民謡を通じて、エキゾチックな印象を与えられる/感じるという構造が現出するのだが、先に私が沖縄をかぎ括弧でくくったのは、改めて沖縄という固有名詞をつけることでの異質性を現出させる問題のことなのである。言い直せば、ここまで「沖縄民謡」と差別させている半面で、大阪民謡や奈良民謡や埼玉民謡といった固有名詞を改めて使うことがないのである。またその地方特有の歌、たとえば「東京音頭」に特別性を認めることなどないのである。

あともう一点、沖縄の唄には戦場の記憶を想起させるものが多いことである。例えば「さとうきび畑」などがその代表格である。勿論、国内唯一(当時の大日本帝国の版図を見れば国内と呼称できる場所は、今の地図と同じことでないことは明確であるが)の戦場であった沖縄では悲惨な激戦が行われた。その悲惨さを受け継ぐために、唄の形として流すことへは何の依存もない。しかし、それゆえに沖縄に戦場の記憶という立ち回りを押し付けているのではないかという疑問も生じるのである。

新垣氏の歌の中には、東京大空襲に関する歌も入っていたが、正直なところ彼の声楽の能力を批判するのではなく、あえてそれを主題として歌うことへの一つの違和感を感じ取ったのだ。言い直せば沖縄戦の対置構造としての東京大空襲という主題の設定に違和感を感じたのだ。

ある役割を押し付けられた人々から帰ってくるそのことへの疑問。それは結局のところその「役割」の「内容」を媒介にした狭い土俵の中の議論に過ぎないことが多いのである。

まだまだ我々と沖縄の人々の互いの理解が足りないのかもしれない。

ドラマの評価

2006年03月23日 00時55分34秒 | ニュース
年度末であったことと、夜帰るのが遅いのか、会社ではドラマの話を行うことがほとんどない。あっても深夜の非常にマニアックな番組とかである。ウエヤマさんは、「やっぱり猫が好き」が非常に好きだったとか。またビデオにとっても、たまるばかりで見ないから、取らないという人も多い。そういうメンバーでガンダムの話が盛り上がる。

「ザクとは違うのだよ、ザクとは」
「右舷弾幕薄いぞ」

とか。このあいだは、ガンダムの中の名セリフばかり印刷したコップをもらってきて自慢している人もいたくらいだ。

私はどちらかというと、ビデオにとってでもドラマを見るほうだ。まあ、最初の回を見てこれは面白いかどうかを判断する。びっくりしたのは「西遊記」の視聴率が結構高いことだ。人々はやはりコミカルなのが好きなのか。

コンスタントに見ていたのは「アンフェア」である。犯人がわからないのは普通としても、本当に事件自体がつながっているのかどうかもわからないような展開を見せた。数年前、国際的スケールで描いた「眠れぬ夜を抱いて」のような深みがあった。「白夜行」は本当は見るべき作品だったかもしれない。実は見送っていたが、先週少し見たとき、話が重いのは事実だが、悪くない雰囲気だった。

本屋で原作を見たが、文庫本にしてはすごい厚みである。しばし考えて、買ってしまった。しばらくはこの本を読むことになるはずだ。
原作者東野圭吾の作品はこれが初めてだが、映像化されたものは、映画の「秘密」を見に行ったことがある。必ずしも完全な幸福で終わるという印象の映画ではなかった。今回も同様である。東野作品における人々は決して幸福にならないというメッセージがこめられているのだが、それもまた普通の人間の描き方なのである。

アノミーの渦中

2006年03月22日 00時41分15秒 | Weblog
明日も仕事だが、正直言うとどうも気が重い。いや、リストラするぞと脅しをかけられたから仕事が減ったのではなく、うちの部署の仕事が全体的に減ったからだ。どうもイライラ来た上司が癇癪を爆発させたのが40%ほど原因にある。(後の60%ほどは私にも問題があるが・・・)

こないだも別の同僚から「話をしたい」と言われて、階段で話をした。どうもみんなに問題が振りまかれているみたい。実は昨年の9月や10月にも経験したことだが、いったん仕事がなくなったら、眼も当てられないことになる。本当にロクな仕事がないのだ。実際、頭下げて別の部署の人間から仕事をもらう羽目になるが、それも上司は気に食わないらしい。これは同僚から聞いたことだが。

全体的にアノミーの渦中にあるといえる。アノミーとはフランスの社会学者デュルケムが使い出した用語だ。まったくのオリジナルではなく。元からあった語を利用しただけ。ちなみにウィキペディアには以下のようにある。

アノミー(anomie)は、社会秩序が乱れ、混乱した状態にあることを指し、デュルケームがつくった概念。デュルケームはこれを近代社会の病理とみなした。社会の規制や規則が緩んだ状態においては、個人が必ずしも自由になるとは限らず、かえって不安定な状況に陥ることを指す。規制や規則が緩むことは、必ずしも社会にとってよいことではないと言える。

ちょうどこんな様子。おまけにクライアントの要望で部署を増設するらしいが、その正式な発表もない。ウチラがいくら稼いで、いくら損しているのかも明らかにしないし、問題意識も建てられない。正直、不安だ。

駸々堂テストの想い出

2006年03月19日 23時20分11秒 | Weblog
先々週、神戸の市立博物館へ行ってきた事を書いたが、三宮にあるジュンク堂で、五ツ木・駸々堂が主催する中学進学学力テストのチラシが置いてあった。倒産した駸々堂は書店事業が中核であったが、京阪神を中心とする私立中学受験者対象の業者テストを行う事でも有名だった。実は私自身、このテストを小六の一年にわたり受けていた事がある。その割に私立に合格する事無く、地元の公立中学校に通う事になる。志願校は京都にあった。しかし、今でも思うのだが、もし仮に合格していたとしても、あんなに遠い場所まで毎日通えたかどうか分からない。だとすると、これはこれで良かったのかもしれないが、その受験準備をしていたころ、塾に通い、日曜日には二ヶ月に一回、こうしたテストを受けていた。それまでの学習が効いたのか、あるとき非常にいい点数を取った事があった。その結果、特別コースに入る権利が与えられ、結構喜んでいた事がある。しかしこの特別コースの選抜基準とはどのようなものかというと基本的に偏差値60以上を対象にしたかったらしいが、それで切ると、ほとんど対象者がいないというから、下がりに下がって、50まで落としたらしい。その結果門が広がり、私にもチャンスが訪れたという訳だ。たしかあのテストで55くらいは取っていたはず。

会場も、奈良の学園前という駅の降りてすぐという場所にあって通いやすく、建物のデザインも結構凝っていた。今ではほとんどの学校で見かける事が出来なくなった、「円形校舎」である。建物は丸形。真ん中に螺旋階段があって、だいたいワンフロアを90度から120度で仕切って、3から4個の教室を設置していた。窓際はバルコニーみたいになっていて、容易に隣の教室に行く事が出来る。これが結構面白く、休み時間に校舎の周りをグルグル回っては遊んでいた。少年時代の一風景。

駸々堂は中学生対象のテストを行っていなかったから、縁は切れるはずだったが、問題集で今度はお世話になる。これが結構難しかったのを覚えている。中学生対象の業者テストは五ツ木なのだが、これを受けた事は一回だけだったと思う。我々の中三のころは、業者テストが学校にかなり食い込んでいたから、授業をつぶしてまで行っていた。この業者テストは偏差値と並んで文部省内部でその後問題視されるが、それは少し後の話。

ここで駸々堂や五ツ木は切れるはずだった・・・が、大学に入ると復活する。試験監督というバイトである。我々が受験生だった頃、監督官はかなり大人のように思えたが、立場が変わって、自分がやってみると周囲の監督官にしてみても、それほど変わらない普通の「アルバイト」だった。これを取っていた場所は学生相談所だったが、試験の一ヶ月前になると、電話で主催者に直接頼む事が出来た。試験監督は割のいいバイトで、試験の最初と最後が忙しいだけ。その間は適当に見回ったりするだけだから。本当に楽で給料も良かった。おまけに昼食付きだ。いろいろ試験監督をやったが、小学生相手が一番面白かったと思う。何度もやっていたから、最後にはバイトの管理もやっていた。

大学院に入ってしばらく、あのテスト主催者である駸々堂が倒産したとニュースで流れた。新聞にも結構大きく出たくらいだ。本屋の店舗はすべて閉鎖され、別の本屋が後を継いだりしたが、奈良にあった店(当時では奈良で最大級の店だった)はすべて別の業種(無印や薬局など)に変わった。あれは結構なショックであった。ただ、このテストは有名で必要だと言う声もかなりあって、その後を五ツ木が引き継ぐことになった。

ところで、あのテストの試験監督を今ではどういう方法で集めているのかな?

Macに忍び寄るWindowsの影

2006年03月18日 22時36分56秒 | Weblog
コンピュータ全般 Intel MacでWindows XPのブートに成功 - 賞金は約162万円也 - goo ニュース

確か、2003年の暮れだったと思うが、MacをWindowsに挿げ替えることに成功した内容のホームページと情報が流れた。その背景が面白い。その中に出てくる架空の人物氏はMac・G5をもらったが、自分はこれといってMacのOSを必要としない、もといMacなど必要としない。むしろ欲しかったのは、ビジネスユーズに優れたWindowsマシンのほうだと。そのため、Macの内部をすべて取り出し、既存のWindowsのマシンに入れ替えた。入れ替える方のWindowsマシンが、IBMならまだしもよかったが、この架空の人物氏は、DELLの安いマシン内部をそっくり入れ替えたのである。ご丁寧なことに、この人物はその方法(MacをばらしてWindowsにするというもの)を写真入りで公開したが、最初は冗談のつもりだった。

しかし・・・、

その行為について、世界中のMacユーザから不幸の手紙を受け取る結果になった、そのために、回線はパンク状態になり、サイトそのものは閉鎖したと聞く。この情報もまた、当時勤めていた会社のお昼休みにみたネットの記事をうろ覚えで今書いたが、実際にそんなことは可能なのかと言うと、不可能と言うのが本当のところらしい。

さて、インテル搭載のMacについては、これまでも何回も書いたが、最近発売されているMac関係の雑誌の特集などを見ると、グラフィックソフトの運等に関しては、それほどの速度を期待できるものではないらしい。言い直せば、既存のMacとそれほど変わらないものだとか。

これまで、Macそのものの中にWindowsのOSを入れて、選択すると言うことは出来なかった。むしろソフトを動かすために、切り替えるというのが支配的だった。従って一般的なマイクロソフト・オフィスのソフトはMac版が作られているし、Appleにしても直営のストアで販売する商品として、前衛ともいえる位置において宣伝を欠けている。正直言うと、私自身の持っているMacにオフィスを入れたいとは思わないけど・・・。

ここに来て、そのインテルのMacでWindowsXPのブートに成功したらしい。可能性として存在するのは結構だけど、結局Macで何がやりたいのかわからない。

書評:竹内洋『丸山真男の時代』(前編)

2006年03月17日 22時51分50秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(書誌データ:中公新書 2005年11月)

戦前の自由主義者や戦争に反感の姿勢をもった研究者の大部分は、その社会のあり方そのものに強い反感を持った。戦後、まさしく錦の御旗を持った勢いで、そうした学者の大部分は、ファッショ化したつい昨日までの日本を批判し、かつて自分たちを排除しようとした右翼的勢力を逆に排除すると行為にでる。その結果、「あいつは戦争遂行の発言をおこなった」とか「軍に積極的に参加した知識人」というラベリングを行い、アメリカの資本主義の傘下に過ぎない自由の旗の下で、様々な自由主義の研究会や共産党の集会が行われたが、そうした「民主主義」(?)的な潮流のなかで、あるものは断罪され、あるものはひっそりと時代の中核をなした思想の中心から退くのである。

しかし、そうした人々を賛美した周囲の人間はせこくも、「ああ、熱病のごとくあんな思想にもかぶれたね」と言うように回顧しては、自分には何の責任もなかったような顔をして、日々を送っていったのである。わずかな人々、特に私個人が記憶する橋川文三というひとを除いては。

誰かが退けば、誰かかそのポジションに着く。思想家の世界も同様である。そのように考えると、こうした思想界のヘゲモニー争いにおいて、丸山真男という日本政治思想史研究家は、戦争が終結すると同時に、あの戦争を遂行した多くの人間が、無責任の総体であることを指摘し(「超国家主義の論理と心理」)、注目されるのだが、見直せば、ただそれだけの、いわば時流に乗って発言し、学問という「界」の非常に高いポジションについただけの人ではなかったのかという疑問がわいてくる。そんな疑問を持っていると、去年の11月に出された本書を読まないわけにも行かなくなった。

「ためらった」と言うのは事実である。特に筆者の授業を京都大学で受けたことのある身としては。よどみなく流れてくる歴史的な話は、聞くものをひきつける。私自身は、作者のこれまでの研究を繰り返して読んでは自分のものとしているが、それ自体が非常に危険と思うことがある。歴史を論ずると言うのは、具体例として提示することが可能であり、物事を疑うことなくして信じさせることのできる一種の麻薬でさえあるからだ。その点に留意しながら読んでいこう。

本書の始点は、戦中丸山が目撃した東京帝国大学に対する言論的暴力が行われたところから始まる。その過激さは、蓑田胸喜という帝大卒の民間学者によって推進されるのだが、最終的に帝国大学の右傾化が完成すると主に、言論の表舞台から排除される。戦後は勿論先に書いたとおりだ。

戦後の「リベラルな」思想の順風を受けた丸山たちは、「知識人による大衆啓蒙」という行動に出る。しかし、時代の流れともに、大学紛争というかつてのファシズムにもにた運動の発生に伴い、挫折することになる。しかし、彼らに何の非も無かったのか。実は、ここが神格化された丸山個人を批判する突破口となるのだが、それは次回に送りたい。

時計が壊れた

2006年03月16日 14時21分17秒 | Weblog
持ち物にこだわる人が多いが、その中でも腕時計ほどカジュアルと高級性の開きが大きいものはないのではなかろうか。人によってはいくつも腕時計を持っていて、毎日のように変えてくる人がいる。うちの父もたくさん持っている人間の一人だ。腕だけでなく、足にもつけそうなくらいだ。

冷戦末期、ロシアの軍用時計がよく売れていた。もちろん電池式ではなくて、ねじ巻き式だ。そのいかにもミリタリーともいえるスタイルは、斬新で、私もほしかった人間の一人だ。この軍用時計を輸入していたのは、たしか東京や大阪でエアーガンショップを出している「むげん」というショップだ。あのころは確か日本もバブルの真っ最中で、アメリカ軍の紋章の入ったレターセットなんかを取り扱っていたくらいだ。あれもほしかったな。

私は腕時計に対してはそれほどの興味もなく、実用的なものをひとつ持っているだけ。日本製の腕時計は本当に壊れない。

「えっ?」という声が聞こえてきそうだ。実は時計本体が壊れたのではなく、時計のベルト部分が千切れたのだ。このベルトも確か3代目だったと思う。ぼちぼちガタが来だしたここ2.3ヶ月が使いにくかった。左手の手首の甲側がいつものポジションだが、いつの間にか180度回転している。本当に使いにくい。そしてとうとう千切れたわけだ。

今は代用品として、携帯電話の時計を使っているが、わざわざポケットから出さなければならないから面倒だ。しかも電話自体かなり古いから、開かなきゃ見ることができない。

早く修理してこよう。