tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

話すならプラトニックで、見るなら昼ドラで

2005年06月04日 23時25分41秒 | Weblog
フロベール全集の中の『ボヴァリー夫人』を読んでいる。フロベールの作品では、中心に位置するものだが、今まで読む事がなかった。フロベールの別な作品で卒論を書いてから7年近く。卒論をそのときの関心に合わせて新しく構想し、飛び入りで入った私にチャンスを与えてくれた落合先生の大学院演習で発表して3年くらいが経った。『ボヴァリー夫人』を詳しく知らないにも関わらず、人前で話して、それなりに話がつながるのは、研究論文が多く出ていてその中のあらすじを読んでいると、大体のところがわかるからだった。だから、本質的には知らない。

というのも問題なので、改めて買っておいた筑摩書房の『フロベール全集』から引っ張りだしてきた。

内容をわかりやすく言うと、お昼のドラマの愛憎劇を19世紀のフランスに置き換えたもの、といっても、すべての出演者の頭が回って、感じやすく、それゆえ悩みが大きい昼ドラとは違って、ボヴァリー夫人の亭主はこれまた芸術や世間にとんと縁の薄い人だ。それ故に夫人が「ムカツク」という事態から話がややこしくなる。

時に、現代日本では、こうした愛憎劇がはやる一方で、子どもにも安心してみせられる韓国の恋愛ドラマがはやっている。あるいは「セカチュー」とか。

ほとんど「ダブルスタンダード」の状態である。そういえば、表立って話題として語られるのはプラトニックな純愛系で、昼ドラ的なまさしく「肉欲」の世界ではない。昼ドラの人気が高いのは、あくまで人間の深層心理を見事につくからなのだろう。