tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

新しいパソコンです

2005年11月29日 14時53分20秒 | Weblog
会社で席替えのドサクサに紛れ込んで、新しいパソコンをもらった。
いま、そのパソコンでこのブログを書いている。
DELLのパソコンなのだが、新しいキーボードは、かなりシンプルなデザインをしている。使っているOSはウィンドウズXPである。
メモリーは512MB、ハードディスクは80GBくらいだと思われる。

付属のモニターがかなり大きい。見やすいが、マックに見慣れた目ではかなりコントラストがきつめだ。初期設定ではDELLのロゴマークが入った画面だったが。今は付属の別画面に設定しなおした。IllustratorもInDesignも入っていないが、これらのソフトを使うならば、マッキントッシュで使うのが本筋だと思う。もう少し使ってみないと、このパソコンがいいのか、悪いのかについて発言するのは不可能だろう。

そのうち報告したい。

ウェーバー1000円

2005年11月28日 14時32分53秒 | Weblog
こないだも引用したマックス・ウェーバー。ドイツの社会学者である。さまざまな著作を書いていて、この種の研究者にありがちな「全集」などというものは、日本では発刊されていないが、各出版社から出ている翻訳を集めていくだけでも、結構そろうものだ。一番手に入れやすい本は岩波文庫が出している「職業としての学問」や「職業としての政治」など。しかし、読みやすさから考えたら、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』あたりか。

彼の大著とも言える社会総合分析が『経済と社会』である。本だけでも何冊にも及んでいて、スケールが大きい。日本でも全訳を出そうとしたが、ある程度まで出して、出版がストップしてしまった。1960年代から70年台の話である。

しかし、この本は、その後も出版社が刷り続けたので、大きめの書店だったら、今でも手に入る。もちろん時々古本屋でも見かけるが、定価が3000円から6000だし、有名な本だから、それほど値段が下がるわけではない。

まあ、そのうちほしいと思っていた本。

ところが、こないだ大衆的な古本屋に行くと(専門的な古本屋の対極だ。ブックオフではない)おいてあった。同じ人物から買い取ったらしく、ほぼすべてそろっていた。ちなみに値段を見ると、一冊800円から1000円くらいの範囲だ。もう脊髄反射のごとく財布を開いていた。コンディションも線引きなどなく、紙が焼けているだけで問題なし。

全部買い取ったので、5600円くらいになった。

ちなみに家に帰って、ネットで定価を足していくと、2万5000円くらいになった。
すごくいい買い物。

専門書はもちろん、小説などの文芸書も売れなくなっている。普通の本屋はもちろん、古本屋でもそうである。おかげで面白いものが見られる。

こないだは、書店定価126万5000円のバルザック全集を4万円で売っている店を見かけた。すごいねえ。

飲み込まれるということ(2)

2005年11月26日 23時47分26秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(使用テキスト:マックス・ウェーバー『職業としての学問』尾高邦雄訳 岩波書店 1936、1980改訳
浅羽通明 前掲書)

前回のブログでは、まるで小林よしのり氏がまるで何もわかっていない人のように描かれている(引用した部分では)が、そもそも、こんな強い自立した「個人」の追求は小林氏のオリジナルな発想ではない。少なくとも私の知見では、その流れの一つは、1919年1月にドイツのミュウヘンでマックス・ウェーバーが行った講演に由来すると見なすことが出来る。その内容は、現在岩波書店の『職業としての学問』で読むことが出来るのだが、表紙の解説にあるような内容になっていないように思われる。その解説を引用してみよう。

第一次大戦後のドイツ。青年達は事実の代わりに世界観を、認識の代わりに体験を、教師の代わりに指導者を欲した。学問と政策の峻別を説くこの名高い講演で、ウェーバーはこうした風潮を鍛えられるべき弱さだと批判し、「日々の仕事に帰れ」と彼らを叱咤する。

とあるが、どう読んでも、ウェーバーは、自分たち教師が指導者でないことを証明しても、各個人の「日々の仕事へ帰」ることまでは発言していないように思われる。ちなみに本書は、現在、ジェンダーの観点から見た場合、かなりの問題を含んでいる。ご確認願いたい。

さて、誰を指導者とするのか。この人選と言う微妙な行為はある人間にとっては、容易く行うことも出来るし、そうでない人もいる。もっとも、宗教の勧誘に誘われて入っていく若い人々に、あのオウムのような「極端な」指導者を欲する部分があったのかどうかは定かではないが。

ところで、大学時代における私個人の指導者は大学の教授であった。しかし、大学の学部生の頃に触れた文学研究は、大学院までいってやることではなかった。「講読」「作品研究」「演習」などと多くの授業名称を用いるが、読んで訳すだけの日々。卒論の時期になってようやく浮上する別な能力としての解釈と論の創作。この乖離は、教員の提供する授業を通じて見た文学研究の世界に対して不信感を募らせるのに充分であった。そこで、大学院では教育学を勉強していた。

大学院に入ってしばらく、修士論文用の関心を聞かれるが、どれだけ言説分析の方法を力説しても「教育の現場へ入れ」の一点的な圧力。これに従わなかったので、論文の指導は受けられないことになった。形式上は私の方からの指導拒否となっている。またもや指導教官に対する不振。そのとき思った、指導教官は研究の何に関心を持っていた人なのか。本は何冊か出しているが解放教育関連の本ばかり、この出発点は、20世紀初頭のシカゴにおける都市問題の調査を源流におく「シカゴ学派」の手法だと聞いた。だったら、その関連の社会学的論文がどこかの研究雑誌に転がっているはず。

図書館の書庫で延々論文を探した。しかし、出てきた答えは、論文など存在せず指導教官が大学院で書かれた修士論文の題名のみ。その時始めてわかった。論文らしきものを書かなかった人なのだと。偶然にも今の地位に就いている人だとも。
ところで、学者の世界は「指導教官は誰ですか」と聞かれることが多い。その場に立つ人間の能力以前に、出自が非常に重視される世界なのだ。私も聞かれた。そして「知らないなあ」と笑われることが多かった。指導教官に論文が無い以上、笑われて当然である。そのような人物を指導教官に選んだ私の「自己責任」が問われただけであった。

そもそも、教育の社会学を専門にしていた人であるだけで、選んだ指導教官だった。

解放教育には関心が無かった。昔、差別者を糾弾する集会を見たことがある。「差別は悪いぞ」の一言で、他者の意見を封殺(圧倒)しているだけの集会であった。啓蒙という手段を用いて野蛮に墜す。そんな光景だった。
しかし、ここからが本論なのだが、自ら拒否した人物に対して、何らか信じたい部分もあった。実は、このアンビバレントな感情に対して、うまく説明できなかった。この大学院を出た後、他の大学へ聴講生の身分で入り、そこで尊敬できる新しい「指導教官」に出会えたが、根本的に私の中では自分のせこさ故に、指導教官を変えて出直すという部分を否定できなかった。
この点において、新たに大学院に誘ってくれた、新しい「指導教官」に泣いて土下座してでも謝るしか無かった。
でも、事実に向き合うために元の大学院に戻ることは無かった。そして私は大学という組織を後にして、社会に出た。

当時の私(同時にココロに余裕などなかったのだが)にとっては、指導教官の方針に従い、言われるままに調査し、その方面で書くというのが、ただ「飲み込まれる」という行為に思えた。そうやって「飲み込まれる」ようにして書いたものに対しては責任をおえない人もいるし、修士論文だけ書いてその後何も出て来ない人間だっている。だったら、これから先も追求できる(同時に半永久的に責任の取れる)課題と方法論で書くということを考えていた。それはとりもなおさず、異質な部分から出発し、正統性のポジションを揺さぶり、自らが新たなる中心に立つことの普通の行為のように思えたし、それが成功するかどうかで、既に将来が決まるとも思えた。あくまで思えただけだが。
しかし、そうした感情もまた誰かを振り向かせたいという意思が働いていたのだ。
この感情そのものが、実は私をここ数年悩ませてきた本質であった。
最後に、浅羽氏が小林氏を批判した別な文章を引用しよう。

『新ゴーマニズム宣言 第6巻』第75章は、そんな彼の困惑(若者が別な運動に組み込まれていくことに対して・・・ブログ執筆者注)を見て、「小林さんはつくづく普通の人の気持ちがわからないのだな」といった私、浅羽通明の慨嘆とそれに対する小林の反応を描いている。小林はこう書いた。「その一言がわしにはショックだった/反省して視点を変えるきっかけになった/そうだった!普通の人々が/個を安定させ/美しいたたずまいを/つくれる思想が/必要なんだ/そこからわしは/「個の確立」という/考えを捨て/『戦争論』を描く/モチベーション/を高めていった」と・・・

先の指導者不在こそが、常態であることを喝破したウェーバーは本質的に専門的職業性に裏打ちされた「真の自立した人間」であったのかというと、私はこの問いにたいして否定する。おそらくは本質的に弱い人間であって、責任が負えないことを告白した、または自分の弱さをも吐露した文章なのではなかったかと考える。
結局のところ、ウェーバーもまた、本来は「指導者」を待望する可能性を多くもった個人であったのだ。「強さの裏返しは弱さ」であって、また「弱さの裏返しは強さ」でもある。

だとすると、小林氏もまた本質的に「弱い個人」であったことを指摘しなければならない。実は「普通の人の気持ちがわからない」という言葉にショックを受けたことよりも問題とするべきなのは、自分と「普通の人」を分けていたことへ反省し、「普通の人」へ近づいていくことで、既存の決してリベラルとは言えない思考へ接近していく危険性の方ではなかったのかということである。

実際には、その後小林氏は弱い個人と彼らに対してアイデンティティを供給する集団の賛美肯定へと向かうのだが、ここではこの程度にしておく。なぜなら彼の肯定した集団にはオウムや新しい歴史教科書の団体も含まれるため、今話したいことからずれていくからだ。ただし、こういった集団と次以降で話す内容とは、それほど大きなずれも無いので、少し念頭に置いておいてほしい。それは、こうした集団からアイデンティティを与えられた人間の行動と私を比較するからである。

さむくつらい部屋

2005年11月25日 14時51分58秒 | Weblog
だんだん寒くなってきた。
自宅のストーブが置いてある部屋が限られていて、自分の部屋にはまだないから、知らず知らずのうちにストーブのある部屋にいることになる。

ネットに接続した部屋は、寒い場所にある。冬場はストーブの温度を高めに設定しないと、部屋が暖まらないのだ。その部屋で、パソコンをいじっていると、寝る段になって、咳がやたらと出るようになった。パソコンがあいている時間が限られていて、深夜になり、すっかり火も落とした後になる。証明は蛍光灯。昔は合理的でいいとさえ思ったが、壁紙がすでに寒色の色合いだから、非常に寒々とした色合いになる。最もこれは私の部屋も同じことだ。

コタツの上でノートを眺めながらインターネットをとも考えるが、ADSLや光におとり、価格的にも魅力的とはいえないモバイル型の送受信機を取り付ける気にはならない。

マンション購入のハイリスク

2005年11月24日 15時01分16秒 | ニュース
マンションの耐震設計の計算書がずさんで、震度5以上が起こるとつぶれるというニュースをめぐって大騒ぎだ。むかし、こんな話を読んだ。

タコさんはローンを組み、非常に高い蛸壺という一戸建てを構えました。ヤドカリさんは貝殻をひろって住むことにしました。人間界で言うところの賃貸マンションです。10年がたち、タコさんの蛸壺は傷んできて修理が必要です。もう手放したいのですが、10年前より価格が下がったところへ、つぼの痛みが激しく、売ろうにも売れません。その間にヤドカリさんは、貝殻を変えるようにしてなんどか移り変えを行い、今ではもっと大きな貝殻を手に入れることができました。補修費用もほとんどかかりません。なんといっても集合住宅としてのマンションですから。

この話は、マンションの購入価格が下がった時期に、購入のメリットを説いたものだ。

これまでの住宅問題は、どちらかというと一戸建ての問題が大きかったのだと思う。設計のミスなどである。よくテレビなどでも取り上げられている。その反面、マンションとかは狭いけど、構造上の問題はあまり取り上げられなかった。もちろん使い勝手が悪いとかの問題はあったが。

今度の一軒、じゃない一件でマンションも一戸建てなみに購入時のクオリティにリスクが伴うことが明らかになった。欠陥マンションはもっとあるはずだ。

新店開店

2005年11月22日 23時29分41秒 | Weblog
「昨日の日記」三部作完結編(のはず)。
そのため、ネタは昨日の話。

大阪にはジュンク堂書店が3店舗あって、大阪店はかつて西日本最大と言われた時期があった。今はどうか知らないが・・・。ただし、大きな店舗面積を確保するという至上命題から、駅から少し離れた場所に建てられた。おかげで少し遠い場所にあるという感覚がある。

本屋は今、その立地条件において二極分化していると言える。一つは駅前のような便利でアクセスしやすい場所。もう一つは、郊外のような広い土地が確保しやすい場所。どちらかと言うと前者の方へ傾いているともいえる。ところで、大阪店はビジネス街の真ん中にあっても、アクセスしやすいとは言いがたい場所だったから、駅の近くに作りたいと考えるのは(本屋の経営陣から見れば)当然の成り行きだった。そこで、あの大きな大阪店の目と鼻の先である場所に作ってしまった。

それがジュンク堂梅田店である。

リンクした地図を見ていただければわかるように、本当に近くである。
しかし、店舗として指定した場所は、ホテルの中であり、ホテルの中にブティックなどのショッピング街を作り、そのテナントとして入店したものだから、あまり目立たず、実際に行ってみると閑散としている。また5階とかなり上のほうまで行かなければならないのも不便だ。

このくらいまで上のほうになると、まず、雑誌を買いにくる客はほとんどいないと考えてもいい。実際、私も書店づとめの時代に、9階と言う場所の店舗で雑誌担当になった人間のレポートを見たが(勿論ワープロ書きではない、手書きのコピーだ・・・おそらく業務の合間に書いたのだろうが、これがすごく嫌だった)、その涙ぐましい努力は一言では語れない。ちなみに雑誌は開店するまでに並べるのが普通であり、漫画はヒモかけがある。せいぜいそのくらいのボトムアップしか望めないくらいであった。

と言うわけで、専門書に期待をかけるが、どうも望むようなものがない。そもそも、広い店に見慣れた私にとっては、その敷地面積ゆえに、数が限られているようにも思えるのだ。あとオープンしてから9日後に行ったからかも知れない。存在は知っていたが、あまり興味は持たなかった。

なんか場違いなところに店を出したと言う印象もある。

でも神戸の方ではダイエーの中にテナントとして入っている例もあるから、そのうちヨーカドーあたりに入るときがくるのかも知れない。

少し興ざめだが。

大当たり~?!

2005年11月21日 15時25分37秒 | Weblog
今回も昨日の話。最近、前日の日記を書くノリで書いているような・・・。

さて、大阪ガスが毎年秋になると、ガス料金を払っている家庭へ「ガスてんのお知らせ」というチラシをおいていく。その中には、くじ引きの抽選券が入っていて、ほかにも粗品進呈のチラシも入る。直接会場まで行かなければならない上に一週間ごとに会場が移動するのだが、私の住んでいるはその会場が多いので、機会を逃すということがまずありえない。あとは行くかどうかだ。

さて、例によって腰の重い母に代わり、昨日行ってきた。行く前に言われる。一等はお米が5キロと2キロの組あわせだ、当てたら電話しろと。これまでもそうだけど、いままで当てたことなどない。当てたら自転車の後ろのキャリアーに積むだけだ。

で、現地。
福引の形式はガラガラポンではなく、抽選用のくじを一枚取り出して、その銀色の部分をこすると出て来るタイプ。
「一枚引いてください」といわれて引く。最初一枚とろうとしたが、それをおき、裏返ったくじの一枚を引く。末等は4等だ。これは参加賞のようなきし麺がもらえる。おそらく今回もそうだろうと思った。

ところが、あけてみると3等があたった。カレーとシチューとハッシュドビーフのセット。レトルトではない。

で、当たったとなると、お決まりのハンドベルを鳴らされた。周囲から「おめでとうございます!」の声。そんな、3等当てただけなのに。

家にもって帰ると「あんたにしちゃ上出来だ」と言われた。
確かに上出来だ。

古裂あわせ

2005年11月20日 19時10分34秒 | Weblog
昨日の話だが、伯母が京都で個展をしているので、見に行ってきた。
ちなみに、伯母はここ十年以上、江戸から大正時代にかけての着物地を収集して、その文様を活かしながら、「お細工もの」を作っている。その細部に至るまでの見事な作品には、既に高い評価が与えられていて、多くの人々が購入し、なおかつ、いつ納品できるかどうかわからないくらいのオーダーをもらっている。いつと言っても、2年も3年も待たすことはせず、最長でも1年以内にはおさまっている。その分必死になって作っているが。

ちなみに伯母のホームページはこちら。

とにかく人手が足りないそうで、妹が会場に出ている。

一週間前にはじまったが、仕事の疲れや、図書館への返却やらでなかなか行けない。やっと訪問することができた。

この日は、まず大阪へ。おとついのお昼休みは外食だったが、そのとき近くの古本屋に寄ったとき見かけた本を購入した。商品は出会いだから、見たときに買うべきなのだが、そのときは別の本を買ったので(それも函入りの分厚い本)、買うのをためらった。まあ、フーコーの『狂気の歴史』であり、おそらく前の持ち主が読むのに挫折した経験を持つであろう本であって、よく古本屋で見かけるが、なかなか手が出せなかった。ちなみに書店で6000円する本を、この日古本屋で2500円で手に入れた。

それを持って、阪急に乗り、京都へ。片道40分程度390円の区間だ。本をめくっているとすぐに着く。阪急烏丸から北へ向かって歩く。京都の地下鉄で二つくらい向こうだが、たいした距離でもないので、歩くことにする。

会場は普段お香を売っている店。中にギャラリーがあって、そこを借りている。会場費はタダ。ただし、どんな作品でもいいわけでもなく、プレゼンを行って審査に通らなければならない。京都市芸大のメンバーも年一回の個展を行うとか。またそこで販売したものは、20%を売り上げとして入れなければならない。(売らなければタダだ)

中に入ると、母と妹がいた。この日、伯母は用事でお昼過ぎから抜けて、その間妹1人なので、母がサブでつく。母からいろんな作品の説明を受けていると、時間が過ぎ、伯母が帰ってきて程なく閉場の時間へ。

伯母と別れて、店の外へ出ると真っ暗で寒い。やはり京都の冬は寒い。
何軒か本屋と古本屋をはしごし、帰宅した。古本屋を見るが、やはり京都の人間はものの価値がわかるみたいで、相対的に高い。

予備校が潰れていく

2005年11月19日 23時25分46秒 | ニュース
本日の朝日新聞朝刊。しかも一面に大変衝撃的な記事が載った。
タイトルは、
「大阪予備校来春廃校へ」

大阪予備校は関西でも大手の予備校で、50年の歴史を誇る。主に「大予備」の名前で有名だった。来春には私の出た高校も合併により、奈良県公立高校では、なかなかの名門、郡山高校になるのだが、その郡山高校の卒業生が多く通う予備校として知られていた。

授業方式は、長机に腰掛ける方式で、前に座りたければ、早くから教室に入らなければならない方式。私も予備校に通ったが、同じような設備でも在籍した駿台予備校は座席指定制だった。それも毎週変わるというもの。

私が在籍した当時は、とにかく人間の多い時代で、どこの予備校もあふれかえっていた。いまはそうでもないらしい。

私の通った駿台予備校も大阪ミナミの難波のはずれである南堀江にあった。今でこそおしゃれなブティックやカフェが立ち並ぶ町に変身したが、当時は倉庫ばかりが立ち並ぶ、荒っぽい街だった。そこへ通うためには最初、地下街を通るのだが、ここではホームレスが常に寝転がっていた。人が多く、金に余裕が出て、これ幸いと
予備校側も文房具や問題集を扱う「ショッピングセンター」を近くのビルの1階に間借りしてオープンさせたが、3年ぐらいして近くを通ると、閉鎖されて、ブラインドが下りていた。ちょうど、コンビニが潰れたあの光景である。


実は、アカの他人と飲みに行って、その人が同年齢の場合、予備校のネタで盛り上がることが多い。今の会社の上司も私とは一学年違うが、「私、駿台。彼、河合塾」で大いに盛り上がった。

新聞記事を読んでいると、テレビや新聞広告で派手だった両国予備校も閉鎖されたらしい。ちなみに、両国予備校に関してはウィキペディアで次のように出た。

両国予備校(りょうごくよびこう)は、東京都と大阪府にあった予備校。2005年2月8日に経営難を理由に閉校した。CMでの「医歯薬理工系、文系学部受験の名門」という言葉が有名である。
受験生の間では、強力な監督体制で自由が無いため“牢獄予備校”と揶揄されていた。 医歯薬系に力を入れ全寮制・峻厳な規則のスパルタ式で有名。また、通学生でも入学できた。校長の高畠金蔵はエール出版社から本を出しているほか、ラジオたんぱ(現ラジオNIKKEI)でレギュラー番組を持っていた。
JR総武線で錦糸町~両国(東京都墨田区)付近にさしかかると、同予備校の建物が多数目に入った。大阪では近鉄奈良線・大阪線布施駅(大阪府東大阪市)に入ると、同予備校の大阪校舎が目に入り中で勉強している生徒が多数見受けられた。経営者は高畠金蔵から東京都墨田区の総合学院になったが、経営権委譲なのか校長の所有の会社なのか不明である。 浪人生の激減で生徒が集まらなくなったことや東京校は河合塾の医歯学部専門の校舎も出来るので使命が終わったと判断し、閉校することになった。東京の両国本校舎は更地になっている。
東京校はプラチナ予備校と両国の元講師により両国プラチナ予備校として発足。 大阪校は講師の不当解雇問題があったのだが収束し両国の元講師でもある奈良の北岡総合研究所がオーナーとなり両国BESTとして発足

そー言えば、確か両国のテレビCMには山本陽子が出ていたっけ。家で母が読む『ミセス』に時々出ているが、最近はどうしているのだろうかと思っていると、次のように出ていた

テレビCM
校長の趣味で起用されていた俳優・山本陽子が“Do your best!”と、受験生を鼓舞する。もしくは受験生の両親をターゲットにしていたのか謎である。放送時期は不明だが、1990年代に首都圏や広島圏で放送されていた(一時は全国ネット放送されていた)のは確かである。

ホウ。なかなかバブリーな予備校だったと改めて確信する。
しかし、どこの予備校も似たような状況で、私があの時代に在籍した予備校で見たのもまた、バブルの残光でもあった。

飲み込まれるということ(1)

2005年11月18日 23時03分29秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(使用テキスト:浅羽通明『ナショナリズム』ちくま新書 2004)

1990年代の初頭、私は受験生だった。そんな時代、Z会で有名な増進会出版から月刊の小冊子が発刊された。タイトルは『セリオ』。スペイン語で「まじめ」の意味を持つらしいこの冊子は、バブル末期からその崩壊後にかけての大学を詳しく紹介した雑誌としてごく一部の人々に記憶されている。しかし、当時のバブルを背景した金にまみれた都会の学生の生活の一部を切り取って紹介するのではなく、むしろ大学生の等身大の生活を紹介したり、学問の様子などをレポートしていた。インタビューを行った大学の先生方は、後にその学問分野の最前線にたった人も多くいるし、大学院生の中にはその後非常に注目された人もいるくらい「先見性」のある本だった。

そんな特集のなかで、非常に独自の視点で文章を書く浅羽通明氏がいた。
簡単に彼のプロフィールを言うと,浅羽氏は23歳のときに司法試験に合格しながら、弁護士や法曹関係に職を求めなかった人であり、むしろ思想家として、多くの本を書く人である。受験生の頃、私は彼の書く文章を非常に優れた文章として評価し、好んでいた時期がある。

彼は、昨年ちくま新書から『ナショナリズム』という本を出した。私が今読んでいる本である。

本屋で手に取って中身を少し読むと、少なからず「毒」のある文章だと感じた。長く離れていたから、彼の文章に対する私のスタンス自体、ほとんど初期設定に近いのだが、読者を取り込むように話し言葉を用いて書かれたその文章は、内容と合わせて、「この本は本当に買うだけの価値があるのかな」と思わせた。

そのため、とりあえず図書館で借りてきた。
文章の展開に少し無理があって、論を積むよりも本当に自分の意見を出しまくっているような印象があるが、その中で、「ゴーマニズム宣言」で有名な小林よしのりを解説するくだりに少し強い印象を受けた。そのところを少し引用してみる。

(1980年代末から)反原発やエコロジー運動に学生など若者が関心を寄せ始め、深夜討論番組「朝まで生テレビ」がヒットする。こうした布石を経て、93年頃から『ゴーマニズム宣言』が十代、二十代から「僕たちの論壇」として圧倒的な注目を集めるに至った・・・。
自らの存在理由をめぐる不安を解消したくて、社会問題に関心を寄せ、正義の側へ加担することで安心したがる若者たち・・・。
小林よしのりが、そんな実情に思い知らされたのは、薬害エイズ訴訟支援を『ゴーマニズム宣言』で書き続け、ついに厚生省による謝罪を勝ち取った後、小林の訴えに応じてボランティアに駆けつけた学生らが、共産党系の組織に次々と勧誘(オルグ)されていく事態が生じた際である。
フリーランスの人気マンガ家である、小林がそれまで理想とした人間像は、プロフェッショナルとして職能への誇りこそをアイデンティティの基盤とする、自立した個人といったものであった。ゆえに、社会運動は、そうした個人達の自由な参加で盛り上げられ、目的を達すれば参加者は日常の持ち場へ戻ってゆくものであると考えられた。
しかし、それは甘かったのである。
いまだ、職能も持ち場も無い学生など純粋まっすぐな若者達は、社会運動へ参加してそのやりがいの味を占めると、あたかも新宗教へ依存していく信者そのままに、次なる抗議対象を与えてくれる左翼系組織へやすやすと洗脳されていったのだから。
プロフェッショナルである誇りのみで、正義を掲げる組織や教祖の勧誘などでぐらつかない個を自立させ得る人など、実のところ小林のような才能ある自由業者などごく少数でしかいない。(pp,16-18)

受験生のときや、大学に入って当初は私も、浅羽氏のような「強力な」意見を発する、いわゆるカリスマ的な指導者を待望したときもあった。しかし、希薄な人間関係から学んだのは、結局のところ、何らかの理由をつけては他者を信頼できないという側面であったと思う。実は絶対的な影響力を持つ他者への依存(あのオウムに入信していった若者に代表されるような)と徹底した他者の拒否はその両極に位置しながらも、ともに同質的ともいえる。従って、拒否という形で他者との接触を拒み、孤独を選択した人間が、他者への依存を強めた人間たちよりも「強い」かというと、決してそうではないのである。

言い直せば、私は他者を拒むことで、宗教や怪しげな政治団体に入るようなことをしなくてすんだのである。大学では原理研がうろついていた時期でもあるが。

ただ、多くのものを拒み続けた結果、私には中核となるものが欠落したという感覚につい最近まで付きまとわれた。実はこの欠落が研究者としての修行をやめたこととの直接の原因なのだが、それに関して説明が長いこと出来なかった。

ただ、意外にも最近、ナショナリズムの勉強を通じて、このことへ一つの回答が用意できそうな気がしてきた。それに関しては、長くなったのでまた今度。