tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

カセットのウォークマンが生産終了

2010年10月30日 12時42分18秒 | ニュース
レアアースなかりせばのカセットウォークマンにあちこちで訃報がが話題提供元。

もうカセットのウォークマンなんて生産終了しただろうと思ったけど、まだ続いていたんだと改めて実感した。日本では生産終了。アジアや一部欧米では生産を続けるとか。そもそもカセットウォークマンは1979年から発売開始。当時はかなり大きかったはずだ。これが、我が家にやってくるのは、10年はかかったはずである。実家で一番最初に買ったのは父親だった。かなり上位機種であったらしく、音楽を聴くという本来の機能のほかに、ラジオや集音型の録音装置を持っていた。ただし、結構壊れやすく、しょっちゅう修理に出していたように思う。

私は何かの景品で、ただ再生を行うだけのウォークマンをもらったことがある。高校に入ったくらいか。確か機能は再生と早送りだけ。繰り返し聞かなければならない時は、テープを取り出して鉛筆で巻き戻しを行ったいた。すでに周囲はそれなりのウォークマンを持っていたので、そんなものを見せたとたん、大笑いされた。

そんな父親の姿を見ていたというのもあるけど、私が本格的なウォークマンを欲しがったときに示した機種は、ワイヤレスタイプのウォークマンだった。(写真は「とあるソニー好きなエンジニアの日記」さんから)


あまり酷使しなかったというのもあるけど、結構耐久性があった。たしか故障してサービスセンターに持ち込んだのは、一回だけ。これを学校の行き帰りに聞いていたと思う。友人にも見せたが、「大きいね」と言われた。もうすでに、それなりの小型化(といっても今のiPodとは大違いだが)がウォークマンの中でも始まっていたが、その大きさは一回り以上大きかった。しかし、レシーバーと本体は分離していたので、そんなことはこの際関係ない。レシーバーを友人に貸して聞かせていることを忘れて、本体の鞄を持ってうろうろした時は、友人が怒りだした時がある。

それでも本体接続型のウォークマンは大きかった。もちろんだ。カセットテープよりも小さく作れないからだ。それでも結構聞いていたと思う。高校を卒業して二年浪人したが、その時も持ち歩いていた。当時、S台予備校に通っていたが、大阪南校は南の堀江にあったが、心斎橋筋の西側、さらにアメリカ村の西側にあって、今日でこそそれなりのブティックなどが建ち並んだおしゃれな街になっているが、当時はただの倉庫街だった。さらに言うとバブルがはじけた後だったから、なおさらうらぶれた感があった。

それでもかなり工事は遅れていたみたいだが、周辺の再開発が進んでいて、空き地ばっかりでもあって、都市が行き着くとこまでいったという印象があった。夕闇がおりたその風景を、永井真理子のChangeを聞きながら眺めるのが好きだった。

なんとか大学に入ったあとは、普通音楽との付き合いが深くなるはずなのに、逆に疎遠になっていった。家では痴呆の進んだ祖父が大変なことになっていたが、ラジカセをつけると決まって、ウロウロするのである。どれだけ音をしぼっても、ウロウロしだすのである。これが結構なストレスに転じた。そのために音楽を聴くことがなくなっていったのだと思う。

その他にも、レンタルで借りてきたCDをラジカセ経由でカセットに録音する。ただし、テープの時間は決まっていて、どこで切れるかはわからないので、一曲一曲計算しなければならない、録音してもタイトルの情報が残らないので、いちいち書き写さなければならない。下手したら、レンタルショップで歌詞カードすら貸してくれないこともある。

実は、こうした煩わしさをいっぺんに解消したのがインターネットとiTuneであった。今じゃインターネットでググればタイトルも歌詞も簡単に出すことが出来るし、iTuneにCDを取り込めば、たいていCDの情報をどこからか引っ張ってくるのだ。まして店先で聞いた曲の一部を検索サイトに入れれば、だいたいそれを見つけることができる。ただ、それはかなり後の話。

レンタルのショップも遠いわで、そりゃあかなり疎遠になっていく。バブルの頃にレンタルショプが流行ったのは、既にお金を出してCDを買うという行為が忌避されだしていたことを示している。たしかに今でこそ、CDを買うひとがいるし、当時もやたら持っている友人はいたけど、あのカネ余りの時代にしてみても、3000円少しのCDにカネを投じるのは、それなりに勇気がいったのだ。

学部2回のとき、電車の中でとなりに座った国文科の友人が、CDウォークマンを持っていた。しかし、私はこれがそれほど魅力的に写らなかった。というのも、既にカセットのウォークマンでそれなりに「大きすぎる」と感じていたところへ、あのCDの大きさである。もちろんワイヤレスではなく、本体とつないだコードがある。当時はカセット式のウォークマンでも携帯して音楽を聴くのには、それなりの工夫が必要だった。みんなは鞄からコードを出していたり、上着やズボンのポケットに放り込んでいたが、落としそうで、壊しそうでと言った具合だった。中には小さな巾着にいれてズボンのベルトにつけていたのもみたが、お義理にもカッコいいとは良いがたい。

結局、音楽をどんな形におさめてあるかで、大きさが変化してくる。そうこうしているうちにMDが出てきた。これがいったいいつ頃登場したのかさっぱりわからないので今回調べてみることにした。

・・・とはいっても、早いとこ書き終えて、部屋を掃除して勉強しなければならないのだが。

結果、またまた「ソニー」の名前を拝む結果になった。ウィキペディアの結果を編集してみよう。

ミニディスク (MiniDisc) とはソニーが1992年に発表したデジタルオーディオ記録用の光学ディスク媒体およびその規格である。略称はMD(エムディー)。アナログコンパクトカセットを代替するという目標が開発の背景にあった。しかしコンパクトカセットについては2010年現在でも根強い需要があり、市場では完全な代替には至らずコンパクトカセットとMDの両方を搭載したラジカセやミニコンポなどが販売されている。
CDが世界に広く普及したのに対し、MDは日本市場のみに普及した。事実上、MDは日本独自のメディアフォーマットであるといえる。
当初ソニーが日本国外向けにウォークマンのみならず据置型デッキ・ミニコンポ・カーオーディオ機器を開発・発売し、オーバーシーズモデルのカタログにも掲載されその中には完全な日本国外専用モデルも存在したが、ソニー以外の他メーカーの参入はほとんどなく現在はHi-MDウォークマン・MZ-M200が販売されているのみである。
その結果、現在販売されている日本国外向けオーディオ機器はCDとコンパクトカセットが主流である。
2010年現在、iPodやメモリータイプのウォークマンなどのデジタルオーディオプレーヤーの普及によりMD市場は衰退の一途をたどっている。特にポータブルMDプレーヤーに関しては2007年3月以降パナソニックを皮切りに各メーカーが次々と生産、販売から撤退し、ソニー製の録音・再生対応Hi-MDウォークマン、MZ-RH1が唯一現行機種としてカタログに残っているが、2009年10月頃に、一部の販売店では取り寄せ不可になった(SONYの直販サイト、ソニースタイルでは購入できる)。


実家でMDコンポを導入したのは妹だった。2000年頃だったと思う。それで彼女はいろいろレンタルで借りてきたCDをダビングしていたが、私自身は使いにくさを感じた。音楽は取り込めても、タイトルなどの周辺情報まではどうしても取り込めない。ましてMDの編集が効くから、こうした周辺情報はなおさら重要になるからだ。就職した年の2003年、私はMDウォークマンを買うことも考えたし、周囲は結構持っていたけど、結局買わなかった。

すでにiPodが登場していたが、当時はかなり高価に思えた。これを手に入れるのは少し先の話である。

買った本を読む層にケイタイの熱心な使用者はいるか?

2010年09月12日 20時32分06秒 | ニュース
さて、ブックオフのポイントカード制度が変わるという話を続ける。ところで少し昔話をしよう。

4年前の話である。結構ムチャクチャな人の使い方をする大阪にあった勤め先を「辞める」と表明した私の後任としてつれてきたのがユイさんという女性である。ユイさんはとびきりの美人ではなかったけど結構私の好みだった。で、しかも帰り道は私と同じルートだったからチャンスはそれなりにあった。ただし、話ができたのは最初のうちで、ベラベラ話をしていると、ネタが尽きてくる。あろう事かしまいには、当の私が話をするのを苦痛に思うくらいだった。

よく言うが、結婚すると女性が変化して、男性の方が「こんなはずじゃなかった」というパターンに陥る。確かに気の毒なのだが、実際変化してもらわんと困るというくらいでないと、そもそも「他者」なんぞ受け入れられない。ベラベラ話をしていた頃の私は、相当無理をしていたのだと思う。そしてその「背伸び」もあるとき限界までくる訳だ。ただし、これが結婚前に来るパターンと結婚後にくるパターンもあるのだ。で、男性は結婚すると「やれやれ」と言う感じになって、手を抜く。これがどうも女性にとって気に食わないらしい。彼女たちは曰く「冷たくなった」と。そりゃあ女性も変化するだろう。

言い換えれば、相手が変わって文句を言う前に、自分が変わらないと言うのが必須条件になる。ただし、あるとき会話が苦痛になった私のように、限界に至るまでただひたすら走らんとあかんという役回りが生じる。

さあ、あなたはできるかな?(笑)

さて、これが本論ではない。これは導入。2ヶ月くらい経ったある日、飲み会で遅くなって結局二人同じ帰り道。だが、毎日同じように帰っていた訳じゃない。こっちが残業で遅くなる時もあったし、ユイさんが遅くなるときもあった。そんな状況の二人同じ帰り道。

悪いけど、賢明なる読者の諸君はここで変な期待を持たないでほしい。確かにラブホに誘う方策もなきにしもあらず。ただし、たった2ヶ月である。のっかる方の身としても少し心もとない。で、そのまま電車に乗るのである。ただし、話は既につきた状態である。その時点で勝負は既に決まっていた。

電車に乗ると彼女はご自慢のケイタイを取り出し、なんだかんだと通信を始めた。それを見た私は手持ちの本を取り出した。これが文庫か新書だったらまだかわいいものだが、取り出したのはハードカバーの専門書だった。そしてそのまま、彼女の最寄りの駅に着くまでそのままだった。

うん、事の是非はともかく、話の本質は電車でケイタイをいじる人は、そのままいじり倒し、本を読む人は最寄りの駅か眠くなるまで読み続けるという事である。二人はずっとそのままだったのである。ということは、本を読む層にどれだけケイタイを熱心にいじるのかというデータはないけど、どちらかというと「ほどほど」に使うというのが本音だろう。私はもっぱら通話くらいだ。メールもそんなにしない。

ケイタイをよく使う層の大半は、メールを使用する。この傾向は年齢が下がるほど大きい。(http://www.gamenews.ne.jp/archives/2008/03/post_3249.html)ただし、この層が金銭使用の延長上にケイタイを位置づけているのかいうとどうも怪しい。またケータイクレジットサービスの利用傾向に対する調査においては、20代30代男女で今後使ってみたいという意見が60%も出ている(http://www.nttdocomo.co.jp/binary/pdf/info/news_release/report/060323.pdf)が、少額決済の傾向も高い。定価販売のコンビニが現在消費を牽引していることを考えても、クレジット払いする事に関しては金銭的な皮膚感覚が若干薄い若年層にしてみれば、それほど違和感が無いのかもしれない。ただし、それも皮膚感覚が「敏感に」なったとき、果たしてケイタイのクレジットにどれだけ依存するかということにもつながってくる。知りたいのは、クレジットカードが今後なくなっていく(ケイタイの機能として統合する)ことになるのかという疑問に対する答えである。確かにサイフを持ち歩く事が必要なくなれば、クレジットカードも必要なくなる。ケイタイのみになる。ただ、そうなると貨幣紙幣といった実体的お金も必要なくなるのかという質問もできよう。

ブックオフの例にしてみても、ブックオフで買った本を読む傍らで、ケイタイを熱心にいじるという振る舞いがどれだけ多くいるのか。ブックオフのケイタイポイント制もそんな風に考えるのだ。

話を少し戻そう。私の横の席でケイタイをいじり倒して彼女の中には、私が完全なる「他者」である事を意味していた訳だけど、こうした態度を取る女性の深層心理を悪く言うサイトは結構多い。「心を病んでいる」とか。ただ、そうしたサイトの書き手の大半が男性である事も確かで、あまり当てにもならない。女性が書けばもしかしたら「男性が頼りないからです」と書くかもしれない。まあ、男性依存の見解を示すことは戦闘的フェミニズムの発言から見て妥当とも思えないが。

しばらくして私はその会社を辞した。驚いたというべきか当然というべきか、ユイさんもその会社を辞した。長くいる意味を見出せなかったのだろう。その頃になると私の中のユイさんに対する印象は少し変わっていて、仕事はできるんだと思うけど、少し頼りないかなと思うようになった。ただ、頼りなさは私にも当てはまる。つきあいだしても長く続かなかったと思う。ニッコリ笑って、「おたがいがんばりましょう」「またどこかで」。それ以降会っていない。

元気にしていればそれでいいし、結婚して幸せになっていればそれがベストだ。

ブックオフのポイント方式がまた変わるらしい

2010年09月11日 10時30分43秒 | ニュース
「ポイントどうされますか?」
「あー、ためる方で」

ポイントカードの使用でよくかわされる会話だが、少ないポイントをためていても、全然面白く無い事がわかった。いや、わかるまでもないのだが。とりあえずブックオフで使うTポイントカードは求められるままに出して、つけてもらうだけという感覚だった。出てくるポイントも2ポイントとか10ポイントとか。

「昔は面白かったんだけどな・・・」

ブックオフのポイントがTポイントに変わったのは2007年10月。それまでは独自のポイントシステムで、5%還元。1000円買ったら、50円分の金券が出てきた。この目に見えるアナログなシステムの効果は結構大きかった。ただ、カードに一方的にポイントをつけていくシステムはいちいちレシートを確認しなきゃならない。まして1%だから1000円買っても10円のおまけくらいにしかならない。だんだん関心が薄れていった。

ブックオフの撤退の背景を調べると、次のような文章に行きあたる。

中古書籍販売大手のブックオフコーポレーションは25日、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)のポイントサービス「Tポイント」を2010年9月末までに終了すると発表した。07年10月から実施していたが、当初想定ほどの売り上げ増に貢献しないことなどから脱退を決めた。 同日付で、CCC社長の増田宗昭氏がブックオフの社外取締役を退任した。CCCはブックオフの発行済み株式の6%を持つが、資本関係に変化はないという。 Tポイントの正式な終了日はCCCと協議して決める。ブックオフのTポイント関連の負担費用は年7億~8億円。Tポイントよりも中古書籍の安さや豊富さを利用動機にあげる顧客が多く、新規利用者の開拓につながらなかったとしている。 (http://blog.livedoor.jp/video_news/archives/1269100.html)

負担費用が年間7億~8億円なら、もとの5%に戻して購入者に還元すべきだろう。いちいち振り回されるのは購入者の方だ。実は私のTSUTAYAのカードは、レンタルビデオの会員として入ったが、年会費の継続を行わなかったので、本来の用途からは大きく外れた状態での使用だった。つまりブックオフで使うだけ。昔はローソンでも使えたが、それも脱退とかで使えなくなった。

でも新しいポイント制度はもっと抵抗がある。ケイタイベースなのだ。おサイフケイタイなんてあるけど、ケイタイって重要な個人情報の固まりだ。それを決済に使うのでもなく、ポイントだけのために店先でかざすというのは少し抵抗がある。だって、知らないうちにケイタイの中の情報を抜き取られているかも知れないから。

「そんなはずはない」というのは、私たちが技術を知らないだけで、もしかしたら既にケイタイの中の情報を抜き取る技術は、もう確立しているのかもしれないし、それを知っている人は黙っていれば良いだけなのだから。知っているひとは、抜き取った情報を使っている人たちか。

昔のブックオフのポイントカードは単純な個人情報の記入でカードをもらった。TSUTAYAのカードはレンタルだから、それなりの量の情報だ。次はもっと多くの情報を知らないうちに抜き取られる可能性がある。ほんの少しの得のためだけで。

結局、新ポイント制度へは入会しない方針なのだけど、あの新ポイント制度ってほんとに得なのかは検証してみないとわからない。

ジャン・マリー・ギュスターブ・ル・クレジオ

2008年10月09日 23時56分06秒 | ニュース
私の出身学部はフランス文学科だ。そして、大学は私たちが卒業した次の年から学科名称を変更し、「フランス語フランス文学科」にした。その理由は、「フランス文学科」ではフランス語が運用できるというイメージを世間が持ちにくいという、いわば就職して行く学生に対する配慮からだという。しかし、ゴロが悪いし、こちらは19世紀写実主義で卒業論文を書いたから「フランス文学科」で一向にかまわない。

さて、この種の英語をのぞく外国語系学部は何処もそうだが、大学に入学してから初めて学ぶという人間が多い。私もそうだ。ただし、私の場合、英語が苦手だった。というよりも、外国語の勉強の仕方がわかっていなかった。それで入ってから当初はかなり苦労した。単語は一語一語辞書を引かなければならない。文法は授業を聴くだけではだめで、参考書を新たに買って来て、ノートをまとめ直すということもやった。クラスの他のメンバーはテキストにカタカナで発音を書いていたが、私は当初これをおこたったので、読めるという意味での正確な発音はかなり遅れた。本当はヨーロッパ系の言語は、ローマ字読みであることが多い。そこへ特定の綴り字の並びのときは、決まった発音があって、それも覚えなければならない。発音の正確さは、3年次になっても出来ていなかったと思う。

ただ、授業はそこまで悠長ではない。一回の授業で10行程度のテキストを読んで、簡単なおしゃべりを行うのはせいぜい1年次で、2年次ではペーパーバックの2ページは確実に授業で読ませられる。そして、その2ページに関しては、いつ指名を受けても答えられるように、確実に訳をつけておかなければならない。まして、これはひとつの授業である。他にも作品研究や作文などの授業があって、その準備もしなければならない。

学部2年次といえば、初級文法を大急ぎで習ったあとで、ほとんど読解の能力を持たない。その中で、私のフランス語力をせいぜい人並みにしてくれたのが村尾先生だ。その年、村尾先生が指定した教科書は「パヴァナ」という作品だった。作者はル・クレジオである。ル・クレジオはかつて、前衛的な作家として、哲学的な難しい作品を書いていた作家だった。それは1960年代から1980年代初頭の話で、80年代後半から90年代初めにかけて、自らのルーツや童話的な作品を多く出すようになる。私たちは、その童話的な作品を購読の材料として用いた。

私も必死だった。まともな訳を付けて、まともな発音を行うためにネイティブが文章を朗読するテープをなんども聞いた。その結果、発音に関しては正確さが見え始めてきた。フランス語は直前に語られた内容を次の文章で繰り返さないために中性代名詞という用法を使うが、この指摘は確実にできるようになった。

そしてまた、一冊の本を読み切ることなどない学校の授業で、その年私たちはすべて読み切った。

授業の後半で、その本の訳本が出たが、日本語に直されたその文章は私にとってあまり価値がなかった。本そのものが薄く、買うほどではないというのもあるが、すでにその時点でフランス語から日本語に自分で訳すことが、私自身にとって無上の価値を持っていた。そしてまた、それが出来るという自信がついてきた。

その授業から10年以上がたって、私はようやくフランスへ行くことが出来た。現地の本屋で何冊が本を買ったが、それらの中にはル・クレジオの作品があった。すでに日本では訳本の出された作品ではあったが、それはそれで原書とつきあわせれば、勉強になる。

今年、ジャン・マリー・ギュスターブ・ル・クレジオはノーベル文学賞に輝いた。この作家を知らない日本人は多いと思うが、仏文学にアンテナを持っている人間にとっては、メジャーな作家ですらある。実際、何冊も訳本が出ているくらいなのだ。これを機会に何冊か再販されることが楽しみだ。

Félicitations! Le Clézio

結局、隣の国とは仲良くやっていけない国

2006年07月05日 22時58分40秒 | ニュース
北朝鮮からミサイルがボコボコ打ち込まれている。普通なら戦争である。
私も会社で話が出るたびに
「ピョンヤンを空爆すべきだ!!」
と主張してきた。しかも今日一日で3回は言っていたように思う。それにしても、つくづく日本は隣の国と仲良く出来ないことを思い知らされる。それは日本側の責任だったり、隣の国の責任だったり。結局、隣の人々よりも、遠くの国の人々のほうが、仲良く出来るんじゃないかと思う。一時期盛んに中国に未来を感じますとか、将来性を感じますとか言う人がたくさんいたが、今日ではどの程度いるのかと思う。会社でもタイやベトナムに行ってきたという人はたくさんいるけど、自分が一番行きたい国はヨーロッパのフランスだし、その根拠ともなるヨーロッパ系の言語や文学を勉強してきたものにとっては、アジアってそれほど魅力に写らない。自分の中でヨーロッパから脱却しても、目が向いたのは日本という国だった。中国や韓国ではない。そういえば、大学の仏文科の先生でもアジアについて語る人はいなかったように思う。

セクハラの断罪方法あるいは報道のあり方

2006年06月22日 23時35分31秒 | ニュース
まだまだ日本という国は、セクハラの断罪について寛容とも言える。それは報道の方法によく現れている。

今日も、大阪市立大学の教育社会学を専門とする助教授がセクハラで半年程度の停職処分を受けた事が記事になっていた。大学側は過去の事件も調査し、近くその助教授を懲戒にするという事だ。

しかし、これだけの事を大学で行っておきながら、いまだ報道においては、人権に対する配慮という名目で実名の報道を行わない。ただこうした社会的寛容性という名において隠蔽を行うのは、相手が大学の教員だからなのかという疑問がある。というのも、普通の会社員でも実名で報道される事は多いし、芸能人ならなおさら、厳しく断罪される。しかも極めて質の悪いセクハラが多い。食事やホテルに誘ったりするという具合である。

私が教えを受けた大学の教員の中で約二名ほどが、セクハラで訴えられ、大学を追われた。確率的に考えるとこの数値は非常に高いと言える。そしてまた、今回断罪された助教授もそうなのだが、教育社会学を研究する学者にセクハラで大学を追われる輩が多いように思う。そしてまた今回もそうなのだが、「人権派」などと言われている人々に多い。

何でなんだろう?

死刑は本当に悪か(改訂版)

2006年04月18日 23時43分16秒 | ニュース
大急ぎで書いて、論旨が大破綻したので改訂版です。ちなみに前の原稿は見直しをしていませんでした。関係各位にお詫び申し上げます。

母子殺人事件の上告審が結審、弁論続行の主張退ける 山口・光市 (朝日新聞) - goo ニュース

18世紀末から19世紀の初頭にかけて活躍したフランスの文豪ヴィクトル=ユゴーは熱狂的な死刑廃止論者としても知られていた。彼の作品にも、そうした性格の濃い作品がたくさんある。しかし、仏大革命の時期、比較的簡単に死刑という刑罰が出されたことはそれほど知られていない。仮に知っていても、それは大革命の権力闘争による他者(政敵とも言う)の排除装置として機能していたとみなす向きが非常に多い。
ただ、民衆と呼ばれる人々に、死刑が課されるのはそれ相当の犯罪を犯したからであったという部分も見逃せない。

そのユゴーが書きながら、人間への洞察が多く省かれ、ほとんど偏見の名の下に作成されながら、その重要な部分(偏見と人種差別を主題として書かれたということ)に気づかせず、美しい恋愛物語の印象を与える『ノートルダム・ド・パリ』でさえも、まず殺人への罰として死刑という方法が採用されていることは、見逃せない。ちなみにこの作品を映像化したディズニーアニメの『ノートルダムの鐘』は絶対見ないで欲しい。あれはディズニーという企業が、西欧の美意識を啓蒙するために作った作品であり、そこには悪意に満ちた偏見がこめられている。これに関しての研究はドルフマンとマトゥラータが分析し、チリのアジェンテ独裁政権に発禁処分とされた『ドナルドダックを読む』(晶文社 1984)という本を薦める。

さて、死刑廃止制度だが、最初から私の見解を書くとこれを支持しない。というのも、既に1人ないしは、複数の人間が殺人によって亡くなっているのである。なおかつそのような状況にありながら、当の殺人者は生き延びるという、きわめて簡潔な状況が理不尽だと思うからだ。また、死刑廃止論者のもつ意見の希薄さは、簡単に受け入れられるものではない。彼らはよく言う、欧米では人権的な配慮から、犯罪者にも人格を認めてというようなことを言う。

しかし・・・私は、「主張を持たない意見」という言葉を用いて、それらを一蹴する。

こうした流れは、死刑廃止という風潮が欧米の主流として認めることができるから、やりましょう/やめましょうというのは、あまりにも軽薄な考え方である。他にも仏教に、キリスト教に、オウム真理教に、哲学に・・・といい続けて、何らかの根拠を元に説明を組み立てるのは、自分のどこかに逃げ道を作って、賛成する/反対するを論じているだけに過ぎないのである。その点、私の考えはきわめて単純で、人一人が死に、それに手を下した人間を許せないということである。そしてまた同じだけの苦しみを犯罪者にと願うのである。
これではまるで、古代のハムラビ法典と同じではないかという意見があるだろう。しかし、そうした刑罰が行われた古代を、簡単に死刑という刑罰を行った大革命時のフランスを「野蛮」だといえる権力は、どこから出てくるのかという問いかけもある。

いい加減、他人から与えられた人権論を振りかざすのは止めにしよう。本当に議論すべき土台はそこから始まるのだと思う。

寂しき法学の大学院

2006年04月04日 22時58分45秒 | ニュース
二年前、鳴りもの入りで各地の大学に設置された法科大学院という異様な教育機関。この3月で初の修了者を出したそうだ。

そもそも、法曹資格者を増やす目的で行われた司法改革。その一環として、大学院に於ける法学教育の重視と、司法試験受験時の一部科目免除と合わさって、比較的容易に弁護士・裁判官・検事の資格を得るように考えられた制度だ。しかし、大学にとってみればもう既に冬の時代を迎えた場所だから、お客である受験生や院生を呼び込めるまたとない機会とばかりに、あちこちで設置された。その中には、この大学、過去に司法試験の合格者を出した事があるのとも疑いたくなるような大学もあるが、それについてはこれ以上言及しない。

法科大学院以前の法学部から大学院の進学ルートは極めて異質なものであった。そもそも大学院は研究機関であるから、どこにでもある私学の大学院は学部の延長で勉強すると行ったノリだが、法学の大学院は、研究者養成機関と司法試験受験者の受け皿と、公務員受験者やモラトリアルの人間のたまり場だった。見方をかえれば、法学という学問が本質的に専門的な研究者を必要としないのかもしれない。われわれ一般人が驚く事実として、あれだけ困難な司法試験を乗り越えて弁護士・検事・裁判官になる人間がいる一方で、大学院で3から5年も教えれば、自動的にこれらの資格を得る事が出来るという不可解な制度がある。しかし、かつて大学の教官が弁護士になるというのも少し頼り無さげな印象がある。

話を戻して、これらの「新しい」法科大学院は本当に司法試験に有利なような教育システムを持っていたのかと言うと、そうでもないみたいだ。今回の修了生と入学生の比率を取ると、入学者の96%が修了していったみたいだ(朝日新聞4月4日朝刊)

ここは、いかにも日本の学校システムを踏襲しているともいえる。すなわち入るときに難しくして出る時は比較的容易というパターンだ。これについては嫌になるほどの議論が続いた。曰く、「入るとき簡単、出るとき困難」とか「どちらも困難」とか。しかし、今を持ってほとんど変わらないところを見ると、よっぽど変えたくないシステムなのだろう。どう言おうとも日本の大学院の建て前に近い本質は「研究者養成機関」なのだと。

さて、本来のふるいにかけて、修了者の厳選に入れば、司法試験の合格者は7から8割であった。しかし、どこの大学院もほぼ全員を修了させてしまったため、5割にまで落ちたそうだ

国立大学に対して、私立大学はほぼ入学者の全員が修了している。国立の方が厳しいかと言うとそうではない。国立の場合、途中で退学する人がいて、その中には現行の司法試験にうかった人もいるくらいだからだ。

さらに驚くのは、私学の一部において2名とか3名しか入学していない大学もあるという事。一体どういう教育を行っているのか分からないし、少人数教育といっても教育の不平等という考え方がそっくりそのまま使える。どういうことか? 学部は50人で一人の先生の授業を受けるが、大学院では3人でその先生の授業を受ける。年間の授業料が学部と大学院で同じであるすれば、この不平等は歴然である。確かに年間の授業数や取得単位数は大学院の方が少ないが、それでも不平等は残る。

最近の大学院は法学研究科以外でも、研究者以外の進路を取る人間が増えてきた。そのために、進路の取り方が一つのイデオロギーを持ち始めて、その確執がおこり、大学院生同士がいがみ合っているという話をよく聞く。ただ法学研究科は、その状況をかなり以前から作り上げていた。

大学院が何も得られない場所になりつつある。在籍者の不安さえ掻き立てるような寂しい組織へと落ちていっているのである。

ドラマの評価

2006年03月23日 00時55分34秒 | ニュース
年度末であったことと、夜帰るのが遅いのか、会社ではドラマの話を行うことがほとんどない。あっても深夜の非常にマニアックな番組とかである。ウエヤマさんは、「やっぱり猫が好き」が非常に好きだったとか。またビデオにとっても、たまるばかりで見ないから、取らないという人も多い。そういうメンバーでガンダムの話が盛り上がる。

「ザクとは違うのだよ、ザクとは」
「右舷弾幕薄いぞ」

とか。このあいだは、ガンダムの中の名セリフばかり印刷したコップをもらってきて自慢している人もいたくらいだ。

私はどちらかというと、ビデオにとってでもドラマを見るほうだ。まあ、最初の回を見てこれは面白いかどうかを判断する。びっくりしたのは「西遊記」の視聴率が結構高いことだ。人々はやはりコミカルなのが好きなのか。

コンスタントに見ていたのは「アンフェア」である。犯人がわからないのは普通としても、本当に事件自体がつながっているのかどうかもわからないような展開を見せた。数年前、国際的スケールで描いた「眠れぬ夜を抱いて」のような深みがあった。「白夜行」は本当は見るべき作品だったかもしれない。実は見送っていたが、先週少し見たとき、話が重いのは事実だが、悪くない雰囲気だった。

本屋で原作を見たが、文庫本にしてはすごい厚みである。しばし考えて、買ってしまった。しばらくはこの本を読むことになるはずだ。
原作者東野圭吾の作品はこれが初めてだが、映像化されたものは、映画の「秘密」を見に行ったことがある。必ずしも完全な幸福で終わるという印象の映画ではなかった。今回も同様である。東野作品における人々は決して幸福にならないというメッセージがこめられているのだが、それもまた普通の人間の描き方なのである。

久世光彦氏死去

2006年03月04日 00時26分19秒 | ニュース
小学生の時に読んだ江戸川乱歩の少年探偵団から脱却すべく、中学生になった私が読んだのは、彼の作品の文庫本として収録された作品だった。とはいっても、小学生の間は、名探偵ホームズと怪盗ルパンを押さえるのにせい一杯だったから、少年探偵団はだいぶんと後回しになった。とはいえ小学4年生の時点で、少年探偵団をしっかり押さえていたのは、クラスのインテリ層(たった一名!)くらいしか知らない。当時は、金曜の7時くらいから少年向けのドラマとして、「少年探偵団」を放映していた。しかもスポンサーは阪急電鉄や阪急百貨店などの阪急グループだ。とはいえ、当時でも私はまだ金曜の7時に放映されていた「ドラえもん」を見ていたくらいだ。

さて、中学に入ってあのポプラ社から出ていたハードカバーの「少年探偵団」買う気が薄れ、その結果として、手を伸ばしたのが、ミステリーで定評があった角川文庫だ。横溝正史の作品が有名だが、江戸川乱歩の作品も収録している。余談だが、横溝は若い頃、編集者で、江戸川乱歩の担当だったそうだ。この辺の話をもじったのが、1995年公開の「RANPO」という映画だ。しかし、背伸びして文庫に手を伸ばした結果、とんでもない事実に遭遇することになる。

江戸川乱歩のミステリーの本当の姿は、人間の愛欲に根ざしためくるめく官能の世界なのである。おかげで、二、三冊読んでおしまいとなった。あまりいいとは思えなかったからだ。もう一つ付け加えると、少年探偵団ははるかにグレードを落としたまさしく「子供向け」の話だったわけだ。

それから6年以上がたち、江戸川乱歩の作品から遠のいた私はある文芸書に興味を持つ。それが久世光彦氏の『一九三四年冬ー乱歩』という作品だった。当時私はこの本を、新聞の紹介で読み、新刊書を本屋で求めた。ハードカバーだったから、結構な値段がしたと思う。

内容は、乱歩の出奔から、逗留した旅館で作品を書くというもの。乱歩の行動と、作中で書かれる乱歩の作品という形を取ったもう一つの作品が同時並行で進行し、次第に現実と虚構の世界が入り乱れるという内容になっていく。煮たような話では、先ほど挙げた映画もそうだし、筒井ひとみの『月影の市』(新潮社 1991?)もそのような内容になっている。かくも乱歩に興味をもったのは、乱歩と言う人物を通じて見た、東京と言う街、すなわち都市論としての方面だった。話を久世作品に限れば、やはり乱歩の筆調をまねたエロスの世界であった。まあ、趣味と実益をかねていたと言うのも事実かもしれない。(「何の」というツッコミはおいとくとして)

久世氏の作品を読んだのは、後にも先にもこの本が最初で最後だ。しかし、その前後の彼の活躍は、私の中に結構、根付くこととなった。彼はもともと小説家ではない。本業はテレビのドラマの演出家だ。

実はここがすごいことなのである。少なくとも現代の我々にとっては、テレビの演出など、ありふれたことのように思える。しかし、戦後30年間は、完全にテレビよりも映画のほうがはるかに大衆の娯楽として認知されていた。従って、テレビの将来性などほとんどわからなかったし、映画の演出よりも軽視されていたと言うのが本当のところだろう。だとすると彼の選択は地道な部分を歩いたと言うことでもある。話はかわるが、昭和40年代、雨後のタケノコのようにぼこぼこ設立された会社の一つが広告代理店だった。当時はある意味、注目を集めた職業なのだが、今日で言うところの、IT企業だから、胡散臭い目で見られたのも事実だ。テレビも同様であったと思う。

しかし、それにもかかわらず、新しいフィールドを求めて、多くの若い脚本家、演出、プロデューサー志願者がテレビに殺到した。今日では随筆家として知られる故向田邦子もそのひとりだ。向田の才能を見抜いたのが、久世氏である。彼は始めて向田に会ったとき、脚本の内容に驚いたそうだ。それもそのはず、シーン1で食卓を囲んで家族で会話、シーン2でも同様の演出を行う。以下、向田の脚本には各所でちゃぶ台を囲んで食事のという風景が描かれるのだが、これを読んだとき、久世氏は「アヴァンギャルドではないか」と思ったそうだ。しかし、向田の主張もはっきりしていて、家族とはいえ、集まって話をするのに、不自然ではない情景は、結局ちゃぶ台を囲んで食事をすることであった。以降、この演出は向田邦子が不幸にも航空機事故でなくなった後も、久世氏によって引き継がれる。

久世氏の演出方法は二通りあったように思われる。一つは向田邦子作品を演出する際の、非常に澄んだ空気を切り取るような映像の見せ方、役者への指導法などだ。昔は、正月の向田邦子ドラマがよく放映されていたが、それはどこかでみた方法論ながら、確実に人物の誠実さをも封じ込めるような、映像の「切り取りかた」であった。もう一つは、コメディーの追求である。今日の奇をてらうような大げさな演出ではなく、普通の日常生活にあるような、人物の特徴がにじみ出てくるようなおかしさであった。だが、作品の方向性が違っていても、彼の底流に流れる世界観、すなわち「昭和」の面影を語れる人間としての哲学があった。私でも、少し懐かしいとさえ思えるくらいだ。もう私たちが昭和という時代の特徴を知る最後の集団かもしれない。

だいぶん前になるが、彼は小説を書くに至った動機について、自分が死んだとき、新聞の訃報欄でテレビ関係の業績だけをかかれるのも嫌だからという理由を書いていた(話していた?)その結果、本日の朝日新聞の記事を読むと、作家としての活動紹介のほかにも、作曲家、書評委員の業績まで紹介されている。

さぞかしあの世で喜んでいるだろう。