一枚の紙を床に落とし、それが本棚の一番下部分と床のわずかな隙間に入った。
取ろうと思えば、本棚を取るしかない。それは無理だ。
だが、あの本棚を取る時とは・・・
2017年9月10日、イトーヨーカドー奈良店が閉店した。
開店から14年。
2003年7月10日、イトーヨーカドー奈良店が開店した。
長引く不況と30歳近くのはじめての就職こともあって、私は最初の就職に苦労した。
1年ほどかけて、ようやく仕事を見つけたが、それは体力仕事で儲からず、やたらと気を使う書店業だった。本当はやりたくなかったが、仕方ない。
それが本当にそうだったのかという判定は、かなりの時間を経てからできるものである。
数年後、私が足を運んだハローワークの担当者から、失業率が最も高かった時期に、よく就職できましたねと言われた。
実際、その時の私も、採用側もそんな状況など知るはずもない。
本屋は本当に向かなかった。値引きができない業種だから、接客を売るのだと。
体力をすり減らし、感情まですり減らす仕事だ。
天王寺の支店で研修をしたが、奈良新店の図面を見た店長が発した言葉は、
「アホやな」 と。
そりゃあそうだ。320坪だったか、とにかく今までどの支店も持たなかったような広さの店。
開店初日に啓林堂の社長が密かに見に来て驚いていたと人づてに聞いた。
大阪や京都の大都市だけで実現していた大型書店が、奈良にできたわけだから、驚くのも無理はない。
一枚の紙を床に落とし、それが本棚の一番下部分と床のわずかな隙間に入った。
取ろうと思えば、本棚を取るしかない。それは無理だ。
だが、あの本棚を取る時とは・・・
一枚の紙とは、奈良新店の図面だ。でも、店が開いてレイアウトが確定したその時点で、不要になったものだ。
イトーヨーカドー奈良店は、そごう奈良店だったところだ。建物はそのまま受け継いで使われる。そこここに、そごうの関連設備があった。金色の浮御堂も残っていた。すぐにこれは撤去され、売り場になった。
一番イヤだったのは、そごうの支店でよく見られた、カラクリ時計が覆われたときだ。あれは3時とかに、壁がひっくり返って、人形が出てくるものだった。その上を覆って、ロッククライミングみたいな事ができるような施設になった。
バブルと高級とそごうが否定され、不況と廉価とヨーカドーで満たされていく店内。
オープン前、正面のカラス張りに白人の子どもの写真が貼ってあった。悪くないなと思ったが、マネージャーに言わせれば、中が見えたら客が入るという判断からすぐに撤去された。
あれから14年も経つと、そんな意図が継がれるわけでもなく、そのガラスの上に、告知やら新刊書のタイトルがベタベタ貼られるようになった。
2003年は、書店のポイントカード発行/使用が始まったばかりだったが、危機感も広がっていた。もとより売り上げの少ないところから、さらに持ち出すのかと。
2003年、ダイエーはとうの昔に衰退して、イトーヨーカドーやイオンの勢いが出てきていた。
この2頭の競争の行方がわかるのは、まだ先だ。
東京の銀座にあった店が閉店になって、そこにあった本が運び込まれた。言ってしまえば、「ゲンの悪い品」
出版社から期限付きで借りた本があって、元からある分と場所を占領して、新刊を3日で返品しなければどうにもならない状況。
「ウチはストッカーを持たないのですよ」とは聞こえがいいが、売れない本を他に保管できる場所もなく、ただ、店先の本棚に「飾っている」状態。バックヤードに持っていけと店長がキレだすが、そこだって一杯の状態。
やたらと、ネオコンという言葉が眼についた時期だった。
東京からやってきた店長と副店長は、杓子定規で物事を進めるひとで、パート・バイトの反感を買い、平社員には序列ができて、一番できない(つまり私)社員にやたらと風当たりがきつい。
あるパートは言った。
「店長も難しいひとですね」と。
客で混む時間に会議なんかするから、バイトの指揮ができない、接客対応ができないというアホな状態になった。
どんな発注をしているのか、ジャンプが一回で50冊も入ってくる。
取次が制御する雑誌の割り当ては、簡単に変えられない。
だが、わざわざ駐車場に車や自転車を停めて、店の3階まで雑誌を買いにくる客がどれほどいるのか。
広い店、売れない商品。
精神的に追いつめられた私は、結局新店開店の2ヶ月後の8月末に退職した。
売り場の片隅で、泣きながらマネージャーに申し出た。
不思議にも私はすぐに次が決まった。小売業じゃないし、それは別の物語だ。
出会ってそれほど時間の経っていない私の送別会を、パート・バイトさんたちがやってくれた。
かれらのまえで私は言う。「夏休みが終わったんですよ」
一枚の紙を床に落とし、それが本棚の一番下部分と床のわずかな隙間に入った。
取ろうと思えば、本棚を取るしかない。それは無理だ。
だが、あの本棚を取る時とは・・・
私はとっとと本棚が取り払われるときが訪れないかと思うようになった。
この14年の間に、便利な言葉ができていた。
「爆発しろ」
「日本死ね」
あれは、ただの感情ではなく、本当に訴えたいところからきた言葉だ。
何年も、私は、心理的に奈良県内で本を買うことができなくなっていた。
唯一買えたのは、子どもの頃から行っていた田舎町の小さな本屋。320坪なんてない。
その店も3年前に閉店した。
私が辞めたあと、堰を切ったようにパート・アルバイトが次々辞めた。
12月には、新卒で採用した社員でさえ辞めたらしい。
毎週のように求人広告が出た。
作家を呼んだり、風船を配ったりの「人寄せパンダ」があった時は良かったが、パンダもいなくなると、客入りが悪くなる。
売り上げの伸びない店に、社長は怒りだし、あらゆる資源供給はカットされ、求人広告から本屋の名前が消えた。東京から来たメンバーは異動と称して早々に引き上げられたらしい。どんな待遇が待っていたのか。
近くに比較的広い大きな書店があった。そこで、バイトでありながら、売り上げ実績をのばした人を入れた。
本当だったら、パートに昇格して大事に扱うはずが、学歴やら性格やらに難癖をつけて、バイトのまま採用。ただ、売れ筋を見る目は確かで、この人の言うままに動けば、コミックだけでも売り上げを伸ばせると思った。
だが、店長はこれを拒否。
彼はやる気を失って辞めていった。
もといた本屋から引きはがし、冷遇した上で、辞めて行く。
ひとをつぶすような流れさえあった。
彼がもといた店も、1年前に閉店した。
あの店に、アカの他人という顔をして入れるようになるまで5年。
7年目になると、ポイントカードも発行していた。
広い通路、本屋なのに本が詰め込まれていない空いた棚。
肝心のイトーヨーカドー奈良店は、5年も経つと、土日でも上階は閑古鳥が鳴いている状態。
一枚の紙を床に落とし、それが本棚の一番下部分と床のわずかな隙間に入った。
取ろうと思えば、本棚を取るしかない。それは無理だ。
だが、あの本棚を取る時とは・・・
あれから14年。
棚が撤去されたときに、ホコリまみれになったあの図面が見つかるかもしれない。
取ろうと思えば、本棚を取るしかない。それは無理だ。
だが、あの本棚を取る時とは・・・
2017年9月10日、イトーヨーカドー奈良店が閉店した。
開店から14年。
2003年7月10日、イトーヨーカドー奈良店が開店した。
長引く不況と30歳近くのはじめての就職こともあって、私は最初の就職に苦労した。
1年ほどかけて、ようやく仕事を見つけたが、それは体力仕事で儲からず、やたらと気を使う書店業だった。本当はやりたくなかったが、仕方ない。
それが本当にそうだったのかという判定は、かなりの時間を経てからできるものである。
数年後、私が足を運んだハローワークの担当者から、失業率が最も高かった時期に、よく就職できましたねと言われた。
実際、その時の私も、採用側もそんな状況など知るはずもない。
本屋は本当に向かなかった。値引きができない業種だから、接客を売るのだと。
体力をすり減らし、感情まですり減らす仕事だ。
天王寺の支店で研修をしたが、奈良新店の図面を見た店長が発した言葉は、
「アホやな」 と。
そりゃあそうだ。320坪だったか、とにかく今までどの支店も持たなかったような広さの店。
開店初日に啓林堂の社長が密かに見に来て驚いていたと人づてに聞いた。
大阪や京都の大都市だけで実現していた大型書店が、奈良にできたわけだから、驚くのも無理はない。
一枚の紙を床に落とし、それが本棚の一番下部分と床のわずかな隙間に入った。
取ろうと思えば、本棚を取るしかない。それは無理だ。
だが、あの本棚を取る時とは・・・
一枚の紙とは、奈良新店の図面だ。でも、店が開いてレイアウトが確定したその時点で、不要になったものだ。
イトーヨーカドー奈良店は、そごう奈良店だったところだ。建物はそのまま受け継いで使われる。そこここに、そごうの関連設備があった。金色の浮御堂も残っていた。すぐにこれは撤去され、売り場になった。
一番イヤだったのは、そごうの支店でよく見られた、カラクリ時計が覆われたときだ。あれは3時とかに、壁がひっくり返って、人形が出てくるものだった。その上を覆って、ロッククライミングみたいな事ができるような施設になった。
バブルと高級とそごうが否定され、不況と廉価とヨーカドーで満たされていく店内。
オープン前、正面のカラス張りに白人の子どもの写真が貼ってあった。悪くないなと思ったが、マネージャーに言わせれば、中が見えたら客が入るという判断からすぐに撤去された。
あれから14年も経つと、そんな意図が継がれるわけでもなく、そのガラスの上に、告知やら新刊書のタイトルがベタベタ貼られるようになった。
2003年は、書店のポイントカード発行/使用が始まったばかりだったが、危機感も広がっていた。もとより売り上げの少ないところから、さらに持ち出すのかと。
2003年、ダイエーはとうの昔に衰退して、イトーヨーカドーやイオンの勢いが出てきていた。
この2頭の競争の行方がわかるのは、まだ先だ。
東京の銀座にあった店が閉店になって、そこにあった本が運び込まれた。言ってしまえば、「ゲンの悪い品」
出版社から期限付きで借りた本があって、元からある分と場所を占領して、新刊を3日で返品しなければどうにもならない状況。
「ウチはストッカーを持たないのですよ」とは聞こえがいいが、売れない本を他に保管できる場所もなく、ただ、店先の本棚に「飾っている」状態。バックヤードに持っていけと店長がキレだすが、そこだって一杯の状態。
やたらと、ネオコンという言葉が眼についた時期だった。
東京からやってきた店長と副店長は、杓子定規で物事を進めるひとで、パート・バイトの反感を買い、平社員には序列ができて、一番できない(つまり私)社員にやたらと風当たりがきつい。
あるパートは言った。
「店長も難しいひとですね」と。
客で混む時間に会議なんかするから、バイトの指揮ができない、接客対応ができないというアホな状態になった。
どんな発注をしているのか、ジャンプが一回で50冊も入ってくる。
取次が制御する雑誌の割り当ては、簡単に変えられない。
だが、わざわざ駐車場に車や自転車を停めて、店の3階まで雑誌を買いにくる客がどれほどいるのか。
広い店、売れない商品。
精神的に追いつめられた私は、結局新店開店の2ヶ月後の8月末に退職した。
売り場の片隅で、泣きながらマネージャーに申し出た。
不思議にも私はすぐに次が決まった。小売業じゃないし、それは別の物語だ。
出会ってそれほど時間の経っていない私の送別会を、パート・バイトさんたちがやってくれた。
かれらのまえで私は言う。「夏休みが終わったんですよ」
一枚の紙を床に落とし、それが本棚の一番下部分と床のわずかな隙間に入った。
取ろうと思えば、本棚を取るしかない。それは無理だ。
だが、あの本棚を取る時とは・・・
私はとっとと本棚が取り払われるときが訪れないかと思うようになった。
この14年の間に、便利な言葉ができていた。
「爆発しろ」
「日本死ね」
あれは、ただの感情ではなく、本当に訴えたいところからきた言葉だ。
何年も、私は、心理的に奈良県内で本を買うことができなくなっていた。
唯一買えたのは、子どもの頃から行っていた田舎町の小さな本屋。320坪なんてない。
その店も3年前に閉店した。
私が辞めたあと、堰を切ったようにパート・アルバイトが次々辞めた。
12月には、新卒で採用した社員でさえ辞めたらしい。
毎週のように求人広告が出た。
作家を呼んだり、風船を配ったりの「人寄せパンダ」があった時は良かったが、パンダもいなくなると、客入りが悪くなる。
売り上げの伸びない店に、社長は怒りだし、あらゆる資源供給はカットされ、求人広告から本屋の名前が消えた。東京から来たメンバーは異動と称して早々に引き上げられたらしい。どんな待遇が待っていたのか。
近くに比較的広い大きな書店があった。そこで、バイトでありながら、売り上げ実績をのばした人を入れた。
本当だったら、パートに昇格して大事に扱うはずが、学歴やら性格やらに難癖をつけて、バイトのまま採用。ただ、売れ筋を見る目は確かで、この人の言うままに動けば、コミックだけでも売り上げを伸ばせると思った。
だが、店長はこれを拒否。
彼はやる気を失って辞めていった。
もといた本屋から引きはがし、冷遇した上で、辞めて行く。
ひとをつぶすような流れさえあった。
彼がもといた店も、1年前に閉店した。
あの店に、アカの他人という顔をして入れるようになるまで5年。
7年目になると、ポイントカードも発行していた。
広い通路、本屋なのに本が詰め込まれていない空いた棚。
肝心のイトーヨーカドー奈良店は、5年も経つと、土日でも上階は閑古鳥が鳴いている状態。
一枚の紙を床に落とし、それが本棚の一番下部分と床のわずかな隙間に入った。
取ろうと思えば、本棚を取るしかない。それは無理だ。
だが、あの本棚を取る時とは・・・
あれから14年。
棚が撤去されたときに、ホコリまみれになったあの図面が見つかるかもしれない。