tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

そしてFlashはIllustratorに限りなく近づいた

2005年10月31日 14時22分38秒 | DTP/Web
ずっと気づかなかったけど、10月10日くらいに、MacromediaのWeb開発系ソフトが新しくなったらしい。ネーミングは、従来のMXに西暦を入れたMX2005ではなく、それぞれのソフト名の後ろに「8」がついただけだった。単に私個人の問題だけど、なんとなくひっそりと売り出されたような印象がある。

それぞれのソフトの改良部分だが、DreamweaberはXMLとの連携が強化され、これまで見えない内部記述存在だったCSSが目視できるようになったこと。従来はDreamweaberでHTMLを組み、CSSの設定を導入しても、それの効果を確認するには、IEやサファリで開いてみる以外方法がなかった。この技術で、どのようにしてCSSを確認できるのかは楽しみだ。Flashは描画時の効果が、限りなくIllustratorのそれに近くなり、多くの効果を生み出すことができるようになった。しかし、文字に影をつけたりするような描画上の効果は、ファイルの容量を増やすことになり、動きが遅くなることも考えられる。もともと、動画を軽く作ることを目的として作られたFlashだったが、今回の追加でそのあたりがどのくらい考慮されているのかも知りたい。

使ってみたいが、あいにく持ち合わせが・・・

書評:鎌倉 芳太郎 『沖縄文化の遺宝』

2005年10月30日 22時50分14秒 | Weblog
(書誌データ:岩波書店 2005年6月復刊)

一ヶ月ほど前、書店で『岩波書店の新刊』と言う小冊子をもらってきた。学生時代には、大学生協の案内コーナーに置かれていて、よくもらって帰った。内容はいわば、岩波書店の新刊の案内なのだが、外国文学を専攻していた私にとっては、岩波文庫の訳本は、すべて押さえておきたいところだった。学生時代は重宝したが、社会人になるとこの種のパンフレットには、トンと縁が無くなる。時々本屋の軒先においてあって、「ご自由にお持ちください」という状態だったから、持って帰ってくるくらいだった。勿論、いくつかの情報は得られるが、学生時代のように重宝すると言う類のものではない。

さて、今回偶然にも7月の案内をもらった。パラパラめくってみるが、それほどよさそうな本が無い。まあいつでもいい本が出てくるわけでもない。

人によっては、あの岩波書店の文化に対し嫌悪感を示す人がいる。確かに、いて普通なのだと思う。小売店に対しても高圧的だしね。それでもたまにいい本が出てくる。

話を戻して、この冊子を一通り見て、捨てようと思うと、表紙の写真が眼に留まった。(ブログの写真参照、クリックしてもらえば大きく出ます。)じっと見る。

次の瞬間、すごい写真だと言うのがわかった。沖縄戦で失われる前の沖縄の文化を写真集としてまとめたものであり、そこに写っていたのは昔の荒れ果てた首里城正殿。

沖縄、とりわけ琉球王朝の文化を色濃く残した建物や財産は太平洋戦争の沖縄戦の際にことごとく灰燼に臥した。すなわち、戦災ですべて燃えてしまったのである。今日、我々が観光のパンフレットで見る守礼門もまた、先の戦争で燃えてしまい、戦後復元されたものである。しかし、文化財としての価値はすごく高かったらしく、あれは大正8年に国宝としての指定を受けている。

近年、首里城の中核的な建物である正殿が再現された。こちらは立派な朱塗りで、見たことがあるという人が多いと思う。しかし・・・

実際に、大正時代の正殿は木の打ちつけの荒れ果てた廃墟であった。玄関部分に当たるところの木彫りの彫刻が立派なだけの建物であった。過去の地震でかなり危険な建物になり、大正12年には取り壊して跡地を神社にする計画が持ち上がった。

この本の作者は、東京帝国大学工学部建築学科教授であった伊東忠太博士に相談し、取り壊し3日前に、工事を差し止め、国宝としての指定へ持っていかせたという壮挙を行った。その結果、戦災で失われる前の首里城正殿は解体修理が行われ、大正14年、国宝としての指定を受けたと記載されている。

本書は、戦災で失われる前の沖縄-琉球文化の記録としては一級品である。惜しむらくは、写真集と解説書の2冊本で5万円以上と言う値段であり、誰でも手の出せるものではない。図書館等で入手して眼を通して欲しい(ブログ執筆者も禁退出本を図書館で借りて現地で眼を通しました。)


サイレン

2005年10月29日 23時59分01秒 | 映画
こないだまで書いていたゾンビ映画の最終報告。

去年だったか、朝からプレステーション2のCMが流れていて、そのゲームがこれだった。そのCMを見てもかなり恐ろしい内容であったことがわかったが、その後、ホームページを見てみると、もっと恐ろしいことがわかった。

暗い闇、赤く染まる海と水、鳴り響くサイレン、変わり行く人々、マイノリティーに墜していく生き残った人々。その世界観はアメリカ映画のそれとなんら変わりないが、日本を舞台とし、武器の制限が付きまとっているだけ、非常に難しいゲームらしい。実はやったことが無いけど。

しばらく忘れていたら、来年、この世界観を踏襲する形で、映画化されるらしい。これも日本映画で今かつて無い恐怖を描くとか。

これまでの日本映画のホラー物は実態の無いような存在だった。それゆえ、最強ですらあったのだが。日本映画で死者が生き返る恐怖映画は「死国」くらいだったか?

実は「仄暗い水の底で」みに行きたかった作品だが、見にいけなかったし、テレビの放映も見逃した。

映画の公式ホームページを見るとキャストや世界観もしっかりしている。公開されたら見に行きたいなと思う映画。

いよいよ大団円か?火災遭遇

2005年10月28日 14時16分42秒 | Weblog
こないだ事故車両にのって家に帰ったtyokutakaです。皆さんこんにちは、お元気ですか。最近身近に害のない事故に遭遇する機会が多くなりました。

それは・・・
移動中ではなく、会社にいたときに起こりました。会社にいるときは、事故に遭うこともなく、すっかり安心していましたが、そもそも地震か火事にでもなれば、このビルが棺おけになることもありえます。

昨日、夕方やたらと消防車のサイレン音が大きかった時間がありました。みんな近くで火事だなと話していたら、同じフロアにいる社長と専務がブラインドを開けて、窓をあけて外をのぞいています。チームの一人が外をのぞくと会社の前に消防車が複数止まっているという話ではないですか!みんな窓のところに集まって外をのぞく。火災です。

でも私の会社が入っているビルではなく、向かいのビルでした。周囲はすごい煙。交通は完全封鎖。みんな逃げ惑っているのが見えます。私の所属しているチームは私も含めて野次馬根性の持ち主ですから、みんな窓のそばに集まって大騒ぎ。隣のチームは皆さん大人ばかりですから、座って仕事。明確に分けられました。また何人かは、ビルから出て、外へ見に行く始末。かなりすごい火災だったみたいです。定時だったので、その混乱に乗じて退社する人までいました。

周囲一体大騒ぎ、次の日朝日新聞の三面に載っていました。
次はもっとすごい事故に遭うかも知れません。
皆さんお元気で。

日本の薄くのばす文化

2005年10月27日 14時51分15秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
いつもお世話になっているタミアさんのブログ。タミアさんは、タミアさん自身の画才を認める方から和紙の提供を受けてイラストを製作しているらしい。その和紙が非常に良いそうだ。

妹が紙すきに挑戦したことがある。水を使って作る作業だから冬場は非常につらい仕事らしい。飛び込みの素人が行うと、どうしても均一の薄さにならない。そういえば、妹がすいた紙もボコボコだった。

日本には薄くのばして作る文化がある。和紙もそのひとつだし、ほかにも金箔を作る作業がある。昔、肌用クリームの宣伝でも取り上げられていた。あれは一センチ角の純金を薄い紙のような形態になるまでたたく作業だ。石川県で行われていて、伝統工芸のひとつでもある。

伝統工芸まではいかないけど、そばやうどんの製法もそのひとつだ。あれも熟練技がないと、長い棒でのばしていっても、均一の厚さにならないと聞く。

何事も修行なのだ。

ついに列車故障へ

2005年10月26日 14時37分56秒 | Weblog
8月くらいだったと思うが、一本遅い地下鉄が火事に巻き込まれて電車が止まったことを報告した。実際には火事などなく、煙が見えたという運転手の報告だけで大騒ぎした事件だったが。

いずれにせよ、一本遅れていたら、火事に巻き込まれた恐れがあった。

昨日の夜、大阪から奈良の自宅へ帰ろうと、いつもと同じく急行に乗った。
快速ならば、25分程度、急行でも33分程度の区間である。
電車に乗って、座って本を読んでいたが、いつもと同じく寝てしまった。
はっと気づくと、電車が止まっている。駅のある場所ではなく、線路の上である。
放送が入る。
「列車故障のため、しばらくお待ちください。」
こっちは意にかえせず寝続ける。どうやら相当長いこと止まっていたようだ。
次の駅に着くと、皆さん事故車に乗るのが不安なのか、降りていって、
車両はがらんがらん。

もう少し寝続けようと思ったけど、すでに45分近く寝ていたことになるから、目が覚めた。何の問題もなく目的地に着いたが、電車そのものは終点まで行かず途中の駅で車庫に入るそうだ。

何がなんかよくわからないが、とにかく「事故」があったみたい。

クスリと詩

2005年10月25日 14時27分50秒 | Weblog
昨日、テレビを見ていたら、覚せい剤依存にたった女性のことが出ていた。
家族問題のつらい現実から逃避するためにクスリに手を出したらしい。
まだ若いらしく、母親が出てきたが、この母親が私の両親とはまったく異なる
世界の住人らしく、理解ができなかった。

自分の親を見て根付いた「親」の概念があって、それと比較するのだが、
「うちの親」とはまったく違うのだ。自分がつらいから子供の面倒まで見られない
とかいう言い訳を行う。「うちの親」からは聞いたことのない言葉である。

さて、いまベンヤミンの『パサージュ論』のなかの「ボードリヤール」を読もうとしている。ボードリヤールとは『悪の華』で有名な19世紀末のフランスの詩人である。
ベンヤミンはボードリヤールについて、いくつか研究論文にしている。『パサージュ論』でも特に長くページを割いて解説している。

詩そのものの解釈はそれなりに難しいのだが、ボードリヤールは特に難しいといわれている。それというのも、彼は麻薬を行うことで、詩を完成させたからだ。いわば、視点が麻薬中毒者のそれなのである。かといえ、われわれが正確に彼の詩を解釈したいがために、クスリを行うことはできないし、やってはならないことだ。

その点から考えると、この詩は読み手を「共感」という語で取り込むのではなく、極限まで突き離すことを念頭に置いた詩なのかもしれない。

応援の作法あるいは技法

2005年10月24日 15時07分22秒 | ニュース
日本シリーズも昨日で第二戦。
あけて今日、会社の熱烈な阪神ファンに聞くと
「あの負け方もないなあ」との評価。確かに、あれだけ点を入れられる
のは、かつて冬の時代の開幕戦当初の阪神の負け方だ。少なくとも、
日本シリーズで行う戦いかたではないはず。

さて、テレビを見ていて気づいた事がある。
応援の方法が、ロッテ側では変わっているのだ。
一言で言うと、サッカーのサポーターの応援方法にそっくり。
まさしく一体化しているのだ。

かつてのプロ野球の応援方法は、演奏というかトランペット主体の
方法だった。一定時間トランペットが鳴った後、一斉に声を出す。
したがって、長く歌うことなどなく、一時的なものだ。あれでもかなり
声をからすはずだが、一体感はサッカーと比べるとかなり落ちるはずだ。

一方、阪神の応援は古典的とも言える、演奏主体の方法。
応援方法も、少しずつ変わる必要があるのではないかと思った。

一ヶ月以上たって(阪急梅田コンコース取り壊し)

2005年10月22日 17時33分50秒 | 都市論
コンコースの閉鎖から一ヶ月たった。まだまだブログで紹介していく。

今、書き続けるのも重要ではないかと思う。と言うのも、時間が経ち人々の記憶から薄らいでいくことで、あの場所への関心が薄れ、なし崩し的に何もなかったような工事が行われることが一番の問題なのではないかと思う。実際、工事はゆっくりだが、確実に進行している。工事そのものが悪いわけではない。もう一度確認しておきたいのは、あれだけの近代建築が何もなかったことのように、取り壊され、忘れられていくことの問題性である。そしてまた、同じものが作られないということの問題性でもある。だとすると残すことの意味はかなり巨大なものであると思われる。

あの場所に、大げさとも受け止めれるような意義を見出すことを不思議に思う人がいるかもしれない。
ウォルター・ベンヤミンも次のように書いている。

美術学校によって建築は造形芸術の側に入れられてしまった。「これは建築にとっての災厄でもあった。バロックにおいては芸術と建築の一体性は完全であり、また自明の事柄であった。ところが一九世紀が進むうちにこの一体性は分裂し、偽りのものになってしまった。」(ジークフリート・ギーディオン『フランスにおける建築』)この箇所はバロックについての重要な観点を提示しているだけではない。同時にこれは、歴史的に見てもっとも早く芸術という概念から抜け出たのが建築であることを示している。あるいはこういった方がいいのかもしれない。建築は「芸術」として鑑賞されることをもっとも嫌うものとなった、と。もっとも、一九世紀は、これまで想像も出来なかった規模で、しかも結局のところいままで以上にはっきりした根拠があったわけでもないのに、精神的想像力の所産に芸術と言う名を押し付けたのだが。
(ウォルター・ベンヤミン『パサージュ論 1』岩波現代文庫 2003 357ページ)

この示唆は重要である。既に19世紀に入る前に、建築は芸術としての認定を受けることを忌避してきた。つまり、他者の評価を退けてきたのである。そしてまた、「あれは美しい」という行為、すなわち「芸術」としての認定が、ただそのように見たいと思う人々の押し付けの概念ではなかったのかとも言われる。

確かに、あの梅田のコンコースを美しいと感じ、残したいと思っている人々(同時にその中に私も入るのだが)は、そう見たいと思っているだけの人なのだろう。

しかし、つい最近立てられた建築を「この建築、50年くらい経って、高い芸術的評価が出ますか?」と聞いたときに、今答えられる人はいないだろう。なぜなら、もう既に建築が芸術から離れた場所にあるから、誰も評価できない。

作ったすぐに評価が出ず、時間が経って評価が定まるものを新しく作る欺瞞。そして、既に高い評価が出ているものを壊す矛盾。

(評価の対象になりにくい)芸術が多くある中、確実に、「残すもの」として評価できる存在として、コンコースを挙げたいのだ。

ホラー映画とゾンビ映画

2005年10月20日 13時42分14秒 | 映画
さて、今日も続き。
いわば、ゾンビという概念は、中南米のハイチなどを中心とした「ブードゥー教」に出てくる、死者を操る能力のことをさしたらしい。その概念を利用した映画は、実に1913年くらいに作られているらしい。映像の歴史の始点が1900年くらいだから、早くからあったということである。しかし、この宗教から離れた存在として描かれたのは1968年にジョージ・A・ロメロが製作した作品らしい。

ところで、いわば恐怖を想起させる映画をホラー映画というのならば、ゾンビ映画はその中のひとつのジャンルなのだが、もうすでにここから独立していると考えられるくらい、ゾンビ映画の作品の数は多い。

私もそれほど多くは見たことがないので、あまり知らないくらいだが、中学のとき非常に詳しい友人がいた。彼は学級委員であったが、その後生徒会長に登りつめた。今は茨城県の中学の教員をしているが、そのことは今回の話とは関係がない。

しかし、考えてみれば、1980年代の後半、テレビの夜9時くらいからやる映画でも盛んにホラー映画が取り上げられていた。それもかなり血なまぐさいやつである。年間放送数のなん10パーセント台の数で取り上げられていたと思う。しかし、その後検挙される殺人事件の犯人が、よく参考としたという事実から、放送を控えるようになった。アメリカのホラー映画は本当に血なまぐさかった。ただし、こうした血なまぐささが多くなったのも、1980年代以降であったと思う。そして、人々はこのあり方にも飽きたようだ。

本当に怖い映画はあるのだろうか?
その問いかけに対して、答えたのはアメリカではなく、日本であったのが不思議だ。それが、「リンク」や「らせん」であったのだが、これらは確実に血のにおいがしないものであった。

さて他には・・・(以下次号)