tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

マグライトとフラッシュライト

2006年06月26日 23時58分45秒 | エアーガン/実銃
先週の事、会社の同僚で時々このブログにもコメントをいただいている隣人さんとの会話で、マグライトの事が話題にのぼった。

懐中電灯と聞くとほとんどの人はあの大きな物を思い出すかも知れないが、ペンライトという分類に入る物もある。体躯が小さい分、大した光量が無いのだが、そんな中、その小ささにも関わらず、結構光量が多いのがマグライトであった。そもそもこのライト、アメリカからの輸入品で、アウトドアグッズの一つとして、日本に入ってきた事もあって、入手が難しい時もあった。私の家で手に入れたのは父である。おそらく私の買ってくる実銃関係の雑誌に載っていた広告を見て、買う事を思いついたに違いない。1987年くらいの話である。そうして買ってきたマグライトは立派なハードケースに入っていた。眼鏡を買ったときに付いてくるあのハードケースを思い浮かべてほしい。そしてまたそれなりの説明書も付いていて、まさしく輸入品の香りがした。

隣人さんの手に入れたマグライトはすぐに壊れたと聞く。しかし、本来のマグライトはがっちりとした物であり、アメリカではこの大型の物も出回っていて、それなりの重量もあり、警備員が懐中電灯兼警棒の代わりとして持ち歩いているそうだ。そしてまた日本の警備会社でも似たような用法で使っているらしい。ただし現金輸送の人たちの装備を見ると、警棒は、あの特殊警棒なのだが。

このマグライトの光量とコンパクトさに目をつけ、サブマシンガンやピストルに付けるという動きがアメリカの警察で始まった。1990年位からである。その一般名称をフラッシュライトという。すぐに日本のサバイバルゲーマーの間でもはやりだして、一時期非常に付ける人間が多かった。しかし結構大掛かりな改造が必要で、まず第一にあの固い材質のマグライト本体に穴をあけるような改造があった。これだけであきらめるには事足りる。そのうちいろんな会社から、とりあえず懐中電灯として前を照らしましょうというような製品が出てきた。要するに価格が安く、光量の足りない製品が出回ったのである。これでは意味が無い。というのも、アメリカの警察はただ単に前だけを照らすのが目的ではなく、目くらましの意味もあって使っていたのである。そうこうしているうちに、マグライトでは飽き足らんという風になってきて、インサイドテクノロジー社やシュファイア社といった、特殊部隊にも納品していますという会社の製品が、日本でも販売するようになってきた。

1997年ごろ、とあるショップでであった会社員風の人と話す機会があって、その人たちが、森の中でやるようなサバイバルゲームではなく、室内で行うゲームをちょくちょくしている事を聞かされた。その際によく使うよと言われたのが、こうした大光量のライトであった。

私もこうした物を付けて使ってみたいのだが、なかなか手に入れる機会が見つからない。サバイバルゲームはやらないが、薄暗い森の中で撃つには結構使える。
ちなみに、1997年くらいになると、マグライトはもう輸入品の風格を失って、普通の電気屋で厚紙の前に商品の形に浮き上がらせたプラスチックのパッケージに入って、大量に吊るようにして売られている。これも時代の流れだ。

さて、輸入品がこれだけ多く出回るようになった今日、日本のあの光量の足りない懐中電灯のようなフラッシュライトをまだ作り続けているのか?

実は面白い情報を得た。ある会社が作ったものの注意書きを見たのだが、それによると「10分以上の通電は絶対におやめください。発火の恐れや、リチウム電池の損傷の原因になり、大変危険です。」とある。確かに大光量を得るために、多くの電流を流すのは普通なのかも知れないが、これでは使うのに不安だ。銃本体よりも恐ろしい物になっている。

06色彩検定夏期試験

2006年06月25日 23時33分56秒 | DTP/Web
本当に梅雨空のもと、色彩検定夏期試験が行われた。今日はいつものシューティングクラブの練習会だけど、こればっかりは動かしようが無いので失礼した。来月に入ると、クラブ主催のセミナーと称したマッチの大会が行われるので、審判の練習もかねて出た方が良いのだけど。来月のイベントは外部からも参加者が来るので、規模が大きくなる。そんな中で、対して経験も積んでいないのに、スタッフとして加わる事になった。当日本番という事にもなるので、他の先輩スタッフと連絡を取って、知識を補っておかねばならない。

さて、試験会場はいつもの奈良公会堂。一番最初の色彩検定3級は大阪の天満にある研修センターで受けた。一昔前の国立大学の設備のようで、薄暗く、試験を受けやすい環境ではなかった。実際その試験を落としたのだが、その後同じ場所で受けたDTPエキスパートは合格しているから、対して怖い場所でもない。それに比べて、奈良の公会堂は雲泥の差とも言えるくらい、設備が整っている。照明も明るく、色味の判断にはもってこいである。しかしこれだけの設備を持ってしても、当人に肝心の実力が付いていなければ、簡単に合格できる類いの物ではない。

色彩検定の受験者はここ数年ずっと右肩上がりとも言えるくらい、増加している。先のDTPエキスパートは2004年くらいをピークに減少に転じている。その背景には印刷や出版業界の低迷にあるのだろう。しかし、本屋で試験対策本を見ていると、どうも同じくらいの数が出ている。だとすると色彩の方がかなり門が広く、また認知度も高いのだろう。

ちなみによく言われるのだが、こうした試験は早めに受けておく方が良いと言われる。というのも、毎年内容を増補したりするので、だんだん覚える内容が増えていき、最後にはとても受けられたものでなくなっていく。昨年、この色彩検定のテキストが改訂になり、出題範囲が変わった事はたびたび書いてきたが、旧過程の3級を保持したまま、新課程の2級を受験した場合、知識に穴が生じるのである。本当に良いのは、新課程の3級のテキストを一通り勉強した上で、新課程の2級を勉強した方が良いのだが、私の場合、旧課程の3級と2級のテキストと2003年の過去問を勉強した後で、新課程の2級を勉強したものだから、事前の勉強の時間配分にかなり苦労するはめになった。また改訂に伴うテキスト内容の増加もかなりの量になっていた。これを行き帰りの電車の中で読みこなすにはまた、かなり苦労した。相対的に勉強不足の感もあるし。旧課程の3級も棚ぼたで合格した節があるから、やはり上にいくには相当量の勉強がいる。

しかし、不思議な事にこの資格を取るのをやめようと思った事はない。確かに色味の感覚を体に叩き込むのは難しいのだが、この知識は押さえといた方がいいなと思う事がたびたびあるからである。

セクハラの断罪方法あるいは報道のあり方

2006年06月22日 23時35分31秒 | ニュース
まだまだ日本という国は、セクハラの断罪について寛容とも言える。それは報道の方法によく現れている。

今日も、大阪市立大学の教育社会学を専門とする助教授がセクハラで半年程度の停職処分を受けた事が記事になっていた。大学側は過去の事件も調査し、近くその助教授を懲戒にするという事だ。

しかし、これだけの事を大学で行っておきながら、いまだ報道においては、人権に対する配慮という名目で実名の報道を行わない。ただこうした社会的寛容性という名において隠蔽を行うのは、相手が大学の教員だからなのかという疑問がある。というのも、普通の会社員でも実名で報道される事は多いし、芸能人ならなおさら、厳しく断罪される。しかも極めて質の悪いセクハラが多い。食事やホテルに誘ったりするという具合である。

私が教えを受けた大学の教員の中で約二名ほどが、セクハラで訴えられ、大学を追われた。確率的に考えるとこの数値は非常に高いと言える。そしてまた、今回断罪された助教授もそうなのだが、教育社会学を研究する学者にセクハラで大学を追われる輩が多いように思う。そしてまた今回もそうなのだが、「人権派」などと言われている人々に多い。

何でなんだろう?

ワールドワイド

2006年06月19日 23時14分25秒 | DTP/Web
私はソーシャルネットワークの方でも展開しているが、こちらのほうで面白いのは、誰が来たのかという「足跡」が残ること。

こないだから友人たちが東南アジアの某国へ滞在して、将来的にオリンピックのスポーツになる競技の練習と現地のコンペにでているのだが、わざわざ海外に行ってまでこちらの様子をうかがおうとしている。それが「足跡」でわかるのである。そのうちの一人は、私が書き込むと必ず2.3時間以内にチェックしているくらいだ。まったく・・・日本でできないことをわざわざしにいったのだから、それに専念すればいいのに、日本にいるときと同じ生活様式を求めるのだ。そこで得る情報も、それほど大きな価値のない私の日常である。

それともう一つ、私の会社のWeb部門の人間がヒマそうにしている。まあいつものことだ。5人いる人間のうち3人は定時に帰る。Webの製作会社では信じられないことである。しかし、かねてから私は、所属する会社の「特色」がかえって徒になって仕事がこないのではないのかという推測をたてていた。というのも、会社の業務は欧州圏の13言語の翻訳とDTP、Web作成。確かに製品マニュアルは現地語で書く必要はある、ビデオやDVDの表示が英語であっても、使い方くらいは現地語でないと、選ばれる製品にならない。しかし、Webで製品の説明書を作りたがるところはほとんどない。その間にPDFが入る。彼らの仕事の大部分は、会社のポータルサイトが主体だが、それを13言語で作る必要性はほとんどない。そしてまたごくふつうのホームページ作成においては、ごくふつうの製作会社と変わらない土俵に立たされるから、会社の特色を発揮できないのである。

しかしヨーロッパ、特に北欧や西欧のインターネット普及率を調べてみると日本と変わらないくらいだから、インフラ的に不利というものではない。ただ何が悪くて仕事がないのかは私にもよくわからないのだが、少なくとも次から次へと画面を切り替えて、各言語を出さなければならないようなシチュエーションも今一つピンとこない。

ちなみに友人たちが今滞在している国のインターネット普及率は5.32%。おそらく友人たちはそんなことを気にせずに日本にいるときと同じように湯水のごとく使っているのだろう。

おそらくこのブログも読んでいる君たち、君たちは特権階級なのだよ。こんなブログではなくもっとまともなものを読みたまえ。

仮面ニートの問題

2006年06月17日 23時55分54秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
このブログはgooより提供されたスペースに書いている。gooは検索エンジンを主体としたポータルサイトの運営を行っているが、そのトップページに「退職型ニート」というキーワードが最近注目された一つとして載っていた。すぐには調べなかったけど、気になったのでこのブログを書く前に、調べてみた。

その結果、心理学を経営マネージメントに応用している寺崎文勝氏の「増殖する『仮面ニート族』への対処法」というコラムが引っかかった。その一部を引用すると以下の通り。

64万人とも85万人ともいわれるニートについて、現時点では学校を卒業したものの働くことへの第一歩が踏み出せない「新卒ニート」に関心が集まり、その対策が急がれているが、企業経営においてはむしろ、いったんは職に就いたものの、その後就業意欲を失ってしまった「退職型ニート」の存在に目を向ければならない。
(中略)
働く意欲を持ち、夢や希望を抱いて入社してきた若者が、働く意欲をなくしてしまい、失意のまま退職してしまうのは、若者にとって不幸なのはもちろんのこと、会社にとっても競争力を維持向上するうえで必要不可欠な貴重な戦力を失うという大きな損失を被ることになる。
 若手社員が退職型ニートに転落するのを防ぐためには、退職型ニートの前段階となる「社内ニート」の芽を摘むことが肝要である。社内ニートには2種類あって、一つは、なにかのきっかけで、ある日突然働けなくなって離職するリスクが高い「ニート予備軍」である。このタイプはニートとなってしまうまでは普通に、あるいは人並み以上に働いている者が多い。
 もう一つは、働く意欲や目的を失ったまま働き続ける「仮面ニート」であり、かりそめに職場に身を置いてはいるものの、実質的にニートと変わらない者である。
 このタイプは、本人に働く意欲がない、またはその結果仕事をするうえで必要なスキルを身につけることができないがゆえにやる仕事がなく、仕事を与えてもらえない社内失業状態に置かれていることが多い。
 誤解のないように言っておくが、仮面ニートを「仕事に情熱を持つことなく、会社への帰属意識もないままほとんど働きもせず、ただ来て帰るだけの給料泥棒」と単純に現象面のみを捉えてしまっては本質的な問題を見誤ることになる。


この文章を読んで「み、認めたくないけど、私のことじゃん」と思った。しかし、この文章はマクロな視点から捉えていることにも注意したい。というのも、会社にある仕事には、必ずしも高いスキルが必要ではないが、確実に行わなければならないとんでもなく「重要でありながらグレードの低い仕事」というのがあって、それもまた重要な「仕事」なのである。こういった仕事は、アルバイトや派遣社員、あるいは「低い」と能力が判断された人間に対して回される仕事になっている。しかし、見方を変えればアルバイトや派遣社員以外の雇用で来ている人(正社員か契約社員)は、月々に入ってくる額面が少なくとも、そういった単純な仕事で確実に生活が成り立つくらいの給料がもらえるわけだから、まあ「おいしい仕事」なのかもしれない。現に私の周囲でも自分を高めるような「仕事」に位置づけで仕事を行うのではなく、食い扶持のための「仕事」と思って接している人もいる。断っておくが、彼ら彼女らにやる気や実力がないわけではない。ただそういった下積みの、影の仕事を行わなっている人々の前で、「これも重要な仕事」というような仕事の意義を唱えながら、成果主義などというソリッドな部分を同時並行で出されても、困惑するだけであろう。

重要な視点とは、その仕事において確実に「結果」が出せるような内容になっているかどうかである。やる気があっても、成果を出せない人間は多い。私も必要以上に残業等を行って、ハイハイということを聞いて働いたが、あまり成果が残せていないのが現状だ。かつて、正社員の採用が企業にとって普通であった時代、企業にとって個人は「コマ」の存在であり、本人の希望や適性を無視してでも、動かすことが出来た。しかし、現在こうした方法を取ることで、ともすれば会社が潜在的ニートを生み出すだけの「生産装置」になるだけの危険性を持つことになる。そこへ成果主義などというものを導入すれば、そのシステムで高い評価を生み出すことができる人間など、社会的に見てほんの数パーセントということになる。

実は、近年言われる社会階層差の構造とは、その人間が望む仕事に就けて、きっちり働けているかどうかの問題ということになる。翻って考えてみれば、高い階層にいる人間の数が少なければ少ないほど、望む仕事につけない確率が高いということになる。それはこの国に希望が少ないということになるのだろう。

英国の黄昏

2006年06月15日 23時13分54秒 | Weblog
女性のほうが多いのだけど、仕事が終わってから学校に通う人が多い、あるいは教室的なところへ通うというのがピッタリか。かく言う私も一時期仕事が終わってから、DTPやWebの専門学校に通っていたことがあった。仕事を持ちながらだから、週一回か二回が関の山だ。

こないだまで来ていた派遣の人は、フィンランド語を習っていると聞いた。大学へ進学せず、高校を出て、何度か職を転々とした後に、スーパーかどこかの張り紙で「フィンランド語教えます」というものを見つけてきたらしい。張り紙を貼るほうもすごい感覚を持っていると思う。

妹は一年以上お菓子の教室に通っている。学校というのではなく、ケーキを作る技術を持っている人の所へ通うというものだ。開校日も月一日で、日曜日となっているらしい。先生は英国暮らしを経験してきた人で、花屋さんに勤めているそうだ。

作品、すなわち妹が持って帰ってくるケーキはおいしいのだが、どことなく質素なところも見られる。生活全般を質素に行うというのが、現代の英国方式らしい。かつては、この英国方式が雑誌でよく特集された。生活は質素に、心は豊かにというところが、魅力的にうつるらしい。英国人のすべてがこの生活をしているわけではない。それは今の日本人が藁葺きの家に住んでいるわけではないのと同じことだ。

こないだ英国のケーキを特集した雑誌を頼まれてジュンク堂で買ってきた。これの入手は非常に苦労した。旭屋書店では一冊くらいしか取り扱っていないからだ。これの傷みも激しかったから、もう少しまともなものをと思ったのだ。

そして買ってきた雑誌の内容的には、非常に「まったり」としたものであった。今の私には、少し会わないかもしれない。

しかし、英国が今日たそがれていくなかで、あのような生活を選択できた理由のひとつは、世界中に領土を持っていたことと関係するのかもしれない。さんざんやりたいことやったから、もういい・・・という気質なのかもしれない。

アメリカは世界の頂点でいようとする気に満ち溢れている。おそらくあれに近いものが英国にもあったのだろう。その点で日本は中途半端に過ごしているという感じである。

今の日本に近い気質を持つ国は、どこの国なのだろう。

コバルトアクア

2006年06月13日 23時47分03秒 | Weblog
今年も梅雨に入ったはずだが一向に雨が降らない。
ゴールデンウィーク中に手持ちの新規入荷分のエアーガンのフィールドテストを行おうとしたが、あのすさまじい仕事ですべてキャンセル。中に入ると靴底だけでもドロンコになるので山には入りたくない。梅雨が明けると、すさまじい暑さとヤブカに悩まされる。夏場しか使えないようなものもたくさんあるから、できるだけテストしてみたいが・・・・。

私が大学院に入った年は、雨が非常に多かった。6月でも日によっては半そでで寒い日があったくらいだ。今でこそ金をかけた大学院棟というのがあって、後輩たちは快適に研究(?)しているはずだが、私たちの頃の大学院棟は古い建物だった。しかも我々の研究室は半地下にあって、少しじめじめしたような場所であった。
レトロで重たいドアを開いて建物へ入り、暗証番号を押してキーボックスから研究室の鍵を抜く。そして入るのだが、床はじゅうたんでもなく、コンクリ張りでもなく、ただ木の板のうちつけだ。小学校を思い出す。歩けば少しギシギシなる。天井は蛍光灯が数基あるが手元は少し暗く、補助のライトが必要だった。これも蛍光灯だったから、部屋の色は青色系統の寒色。

あの寒々とした建物のまとう色が、どんな色だったのかというと、白い外壁と一部廊下にあったコンクリ打ち付けのような床。そして蛍光灯。

コバルト本来の色は灰色に近い。澄み切った青色のような印象があるが本当は重たいような色。

もう一つ思い出がある。共用の台所。すなわち流し台がステンレスではなく、これまたコンクリとタイルの打ちつけ。しかし、少しひねるとそれだけで勢いよく出た水を思い出す。アクアの印象。

ふたつあわせてコバルトアクア。

大学院の研究室でありながら、人がほとんど出入りしないような場所だった。あそこへ行くと正直しんどかった。権威や権力で自分の意思がまったく意図しないもので塗り替えられるかもしれないという恐怖。本当に自由な論議などあったのか?いまでも疑問だ。

6月になると、少し思い出す。

エレベーターと映画

2006年06月12日 00時20分47秒 | 映画
シンドラー社のエレベーターが社会問題となっている。聞くところによると、世界的に見てシェアが第二位だというが、日本の普及率はわずかに1パーセントにも満たないとか。奈良でも、奈良女子大で使われているらしい。

ということは、日本での普及率が少ない反面、外国ではすごく普及しているということになる。言い直せば、外国でエレベーターに乗るのは、すごく危険を伴うということになる。しかし、基本的に乗り降りの際に動き出し頭とかをぶつけるわけだから、もたもたせずにとっとと乗り降りすれば、この問題による事故は少なくなる。もっとも、閉じ込められたり、何回も往復しだすようになると、それだけで災難だが、そもそも本体を吊るワイヤーが切れて落下するという事故そのものはないようだ。これがあると困る。

私の会社のエレベータはMITUBISHI製。でも、金曜日のお昼くらいに定期整備とかの立て札が立てられて、一基とまっていた。

しかし、ここが盲点なのかも知れない。というのも、世界的に第二位のシェアを誇ると言うことは、もしかしたら、シンドラーに作らせたエレベータを、MITUBISHIが自分とこのブランドで販売している可能性だってあるかもしれない。そのくらい市場を押さえている会社だからだ。

外国映画などを見ていたら、非常に味のあるエレベータが出てくる。例えば自分でドアの開け閉めを行うようなエレベータなんかだ。しかしたいていは普通のエレベータを使うことが多い。アクション映画でもよく使われていて、ドアが開いたらショットガンでドカーンというパターンもある。リュック・ベッソン監督の「ニキータ」では、掃除人に扮したジャン・レノが大使館の職員をドアが開いたら即座にサプレッサーつきのワルサーGSPで暗殺する。この監督はエレベータを使うことが多くて、「レオン」の冒頭でも殺し屋のジャン・レノが乗ったはずのエレベータをマフィアのボディガードたちが乱射するシーンがある。勿論、この場合蜂の巣になる訳だし、逃げ場もないからプロの殺し屋は勿論使わない。その代わり階段を使っていた。

エレベータを効果的に使おうとしたら、高層ビルがもってこいである。この分野では「ダイハード」がもう既に古典的名作に入るであろう。またホラー映画でも「ポルターガイスト3」がこの分野に入ってくる。

団地や高層マンションなどではエレベーターも密閉型ではなく、ガラス越しに中が見えるものであるが、これを利用して恐怖シーンを演出したものがあった。日本映画の「呪怨」である。あれは伊東美咲が乗ったエレベータが何階か通りすごすうちに、そのうちの何階かにかの怨霊がチラッと見えるのである。サブリミナル効果的なものを狙うのだが、はっきりと見たという確信がある分、その効果は疑問がある。

こうして考えると、エレベータって、結構怖い乗り物だ。

サインの価値

2006年06月09日 23時28分14秒 | 映画
例によって、昼休みは会社を抜け出して、梅田界隈の本屋へ行く。
派遣の女性たちの会話を聞いていると、会社が梅田の繁華街に近いために、昼休みや帰りにショップによることが多く、その分買い物の誘惑が多いそうだ。確かに、私も自宅近くに職場があって、そことの往復しか出来なかったときは息がつまって仕方なかった。

今日行ったのは、ブックファースト梅田店。おととし以前のブックファーストは狭く、ただ店を出しているだけという印象だった。しかし、そのおととし以降、店を二階、三階と借りて改装工事を行った結果、非常に本の数も多く、おしゃれな店に変わった。

時々、この本屋では企画展みたいなものを行う。今やっているのは、「ハリウッドスターサイン展」。単なる展示会ではなく直売を行うものだ。ハリウッドスターの写真に直筆のサインが入っていて、アメリカのサイン業界団体所属のディーラーが鑑定を行い、その保証書つきでイタリア製のオリジナル額は装飾以外にも、紫外線を通しにくくし、サインの劣化を防ぐという至れりつくせりな「商品」だ。

よくこれだけ集めたなと思うくらい飾られているが、スターのサインよりも、鑑定書の鑑定人サインの方が目立っていて、きれいと思うのは私だけであろうかと考える。

これだけの有名人のサインだから、かなりの値段だと思うが、これがそこそこの価格になっている。例を挙げていこう。

アル・パチーノのサインは67200円。「レオン」のワンシーンでサプレッサーを組み立てるシーンの写真に書かれたナタリー・ポートマンは77000円。007の扮装でおなじみワルサーP99を構えたビアーズ・ブロズナンで67200円。「バッドボーイズ」のラストのアクションで、モスバーグのソウドオフショットガンを持つウィル・スミスは56700円。「デスペラート」のこれから撃ちまっせと言うシーンである、2丁拳銃(スタームルガーKP89)のアントニオ・バンデラスで51450円。ゲームやる連中に受けそうな「バイオハザード」のミラ・ジョボビッチはレミントンのソウドオフショットガンを見下げるように構えて56700円だ。

ただし、別格ともいえるくらい高かったのは214000円のポール・マッカートニーだった。サインとついでに役者の経歴も書いてあるが、なかなか面白い内容になっている。

私が小学生の頃、ビアーズ・ブロズナンは007になる前で、「レミントン・スティール」という連続ドラマに出ていた。この頃、彼は文句なくかっこよかった。だが、彼は作品に恵まれなかった。この部分は天才的だった。その証拠に、彼は一度007のオファーを受けたが、スケジュール的に折り合わず、辞退したことがある。しかし、彼が出るはずだったその007シリーズの作品は、どう見てもお粗末以外の何ものでもなかった。ちなみにこの作品に出たティモシー・ダルトンは今頃どうしているのやら。

しかし、昨日くらいか。ブロズナンが腕時計の新聞広告に出ていて、その変わりように驚いた。一瞬、「これは確か彼のはず・・・」と躊躇するくらい頬がこけ、老人の雰囲気だった。

ところが、今日解説を読んでいると、「40代半ばにして、老け込みが激しい」と書かれていた。みんながそう感じているのだろう。

金券ショップの新入荷

2006年06月08日 23時36分36秒 | Weblog
色彩検定の春季試験が近づいてきた。これまでの試験の出題範囲が変更された試験が昨年度から開始されたのは、前にもこのブログで書いた。

これまで、前回の試験で使ったテキストや問題集で勉強してきたし、過去問も安く手に入れたが、新試験対応型のテキストや昨年度の試験問題の入手が遅れていた。これらは、一般的な書店を通じて手に入れるしかない。こまめにブックオフなど回れば手に入るかもしれないが、そんな余裕などない。

ところが、この二冊を手に入れるだけで、軽く5000円を超える出費を強いられる。用意できない金額ではないが、安く上げるに越したことはないと、金券ショップで図書カードを手に入れて、それを充当することにした。貧乏くさいが・・・。

さて、金券ショップ間でも最近、競争が激しくて、職場の近くの大阪駅前第三ビル周辺は、きわめて競争の激しい場所である。この場合の競争とは、「価格上の」競争である。ちょっと軒先を見てみると面白いものがある。今回入手を考えた図書カードのほかに、映画の前売りや、商品券、ビール券、音楽カード、美術館のチケット、電車の回数券、勿論新幹線の回数券もある。お正月に東京へ行ったが、このときもこれら金券ショップを少し回り、一番安い京都ー東京間の回数券を一枚手に入れた。これをJRの窓口にもっていけば、座席指定のきちんとした乗車券と交換してくれる。また、電車や映画館は、株主優待券というのもあって、これだけで見放題、乗り放題と言うのもある。

この日手に入れた一万円の図書カードの販売金額は最初行った店で9600円。その後回った店で、9550円だった。勿論後者のほうで買い物をした。

ちなみに、映画の前売りは劇場公開するまでは、映画館で取り扱うが、公開すると前売りがなくなる。しかし、こうしたショップでは公開が始まっても取り扱っているから、映画を見に行くときに少しよっていくのも一つの手だ。

またJRが発行する「青春18きっぷ」は5枚つづりで1万円以上するが、こうしたショップだと、ばら売りしてくれる。5回も乗らないと言う人には少し耳寄りか。

tyokutakaは3月に神戸までナポレオン展を見に行ったとき、ショップでJRの昼得切符と、博物館の前売りを手に入れた。おかげで700円以上浮く結果になった。

話を戻して、こないだ軒先を見てみると、商品の配置が変わっている。それもそのはず、商品のバラエティが変わったのだ、何が増えたのか?

びっくりすることに、外貨を取り扱いはじめたのだ。その時のレートによって少し変わるみたいだし、果たして我々消費者にどの程度のメリットがあるのかわからないのだが、かなり興味を持った。

私の父も外貨預金をしているみたいだけど、あれは銀行とネットを通じたものだから、現物のドル札を見たわけではない。しかし、ケースの奥にあったのは、紛れもない本物で、まさしく「買う」ことができるものである。まあ、手元においておけば、円安になったときに価値が出る。勿論、次に持ち込むのは金券ショップではなく銀行だろう。しかし、このように接すると、投機や利潤の追求と言うよりも、半ば遊びのように思えてくる。

まるで「子ども銀行」だ。