大阪の富田林からずっと逃走して逃げていた人が自転車で大阪から350キロも離れた山口県まで移動し、周南市の道の駅で捕まったいうニュースに、自転車で大阪から山口県まで行こうとしたら山道とかないのだろうかと思っていました。そしたら、国道2号線を通って行ったら、福山から広島までは登り道があるようですが、ほとんど平坦なんだそうです。この逃走劇の足取りが後にわかってきたそうです。淡路島を周遊後、しまなみ海道を通って、四国の愛媛や香川や高知を周遊後、またしまなみ海道を通って、本州に渡り、呉の大和ミュージアムや広島の原爆ドーム、山口の錦帯橋、周防大島を周遊した後、逮捕されたということでした。大阪の富田林署から逃走して48日間、日本一周を装って自転車移動を続け、8都道府県、約1000キロ以上に及ぶ距離を走行していたそうです。
日曜日に開催されるはずだった、台風のために延期になっていた職場の近所の小学校の方向から午前中から午後3時半ごろまでずっと運動会の音楽が流れてきていました。昨日は台風で延期された運動会があちらこちらで開催されていたようです。職場の近所の小学校から風の流れに沿って、入場曲、退場曲、徒競走やリレーやダンスなどの演技をしているときに流れているらしい曲がたくさん聞こえていました。安室さんのヒーローや100パーセント勇気の曲、DAPUMPのUSAや朝ドラあまちゃんのテーマ曲など盛りだくさんでした。どこかで聞いた曲と思って聞き流していたら、ラッツ&スターのめ組のひとの曲も掛かっていましたよ。今流行りの曲以外にも昔流行った歌も使われたりするのですね。クラッシックでは、昔からリレーのときなどによく使われていた定番の天国と地獄も掛かっていました。クラシックの曲が運動会に利用されるのは昔に比べたら減ってきているらしいとラジオでも放送されていたのを聞いたので時代の流れを感じます。時折聞こえてきた太鼓の音などと入り混じって、昨日は聞いたことがある曲をたくさん耳にした日になりました。
先日読んだ本『比べず、とらわれず、生きる』の中で、第3章の31『両忘』”曖昧さの中に安寧は宿る”で曖昧な日本の伝統の良さが語られていました。この章で、作者は、「物事にはっきりと白黒をつけると、そこには必ず対立が生じます。もともと神道の国であった日本に、仏教が伝わって、おそらく他の国ではそこで、宗教的対立が生まれたでしょうが、日本では、新しい仏教も受け入れて行きました。お盆にはお寺にお参りに行き、正月には神社にお参りに行く。日本人にとって大切なことは、心を込めて手を合わせるということ。それが仏様であっても神様であっても構わない。ご先祖様を思い、手を合わせることに心の安寧があるのです。 そうした曖昧さがもってる良さが、だんだんと失われつつあります。欧米の価値観が入ってくるに従って、すべてに白黒つけることが良しとされてきました。イエスかノーをはっきりと主張することがいい。どっちつかずの曖昧な答えは許されない。もちろん、すべてを曖昧にするということではありません。仕事などでは、はっきりとさせたことも良いことがあるでしょう。しかし、あまりにも二者択一の考え方をしていると、とても窮屈な生き方になってくるように思います。二者択一の考え方は、余計な悩みを生み出すことになります。(中略)『両忘』という禅語は、まさにどちらにも執着しない生き方を教えてくれています。(中略)「どちらでもいいじゃないか」と思える心をもつことで、要らぬ悩みは薄らいでいくものです。」と語られていました。最近の日本は白黒つけるのがベストという欧米文化の影響でか、曖昧なことがよくないことのような風潮や印象が至る所に顕著に表れているような日本になってきているのではないのかとずっと思っていました。時代の流れに沿って、自分自身も流されながら、曖昧なことが良くないというような風潮に戸惑いながらも最近は過ごしていたように思います。曖昧なことに重きを置くという日本人が培ってきた歴史の中で曖昧な日本の良さは誇るべきもののひとつでもあり、消えていかないように引き継がれていく尊いものであると思い返すことができました。白黒つけることは対立が生じるという事実、曖昧な文化が世界中に伝わっていくことで世界の平和につながるのではないのだろうかと思いました。