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つれづれ 2

庭の花や身近な出来事などを退屈しのぎにあれこれ綴っています。

大人の遠足 とかさや散歩

2018-03-18 12:12:55 | 馬場先生の野外講座



日本民家園とその周辺

晴天に恵まれ春の空とは思えない様な
どこまでも青い綺麗な空の下、
川崎市立日本民家園とその周辺を歩いてきました(3月17日)

廣福寺の境内に入る。辛夷が見頃でした。



廣福寺
鎌倉幕府の御家人 稲毛重成の創建と云われている。



枡形山を登り始める~



枡形城址。
標高83,9m 枡形山の頂上に着いた。
源 頼朝の側近だった稲毛重成が築城した枡形城址です。



早速展望台に昇った


展望台からの眺望は素晴らしかった。


スカイツリー、東京タワー、レインボーブリッチまで良く見えた。





生田緑地の丘陵斜面の道を暫らく降りて日本民家園に向かう。
大きい玉石の階段は誠に歩き難かった。



日本民家園が見えてくる。
全国各地から代表的な民家を集めて移築したもの24棟程が集められていた。
沢山 民家の写真を撮ったのですが何棟かを投稿します。



見るからに豪華な木造二階建て建築の原家の住宅。
同じ川崎市内にあった明治期後半の民家です。


完成までに22年の歳月を費やしたと云う立派な住宅でした。



原家を過ぎるとその先は江戸期の古民家が続きます。
この鈴木家住宅は福島県にあった。
19世紀初期馬宿・馬方が泊まる宿で
馬を繋ぐ事が出来る土間があった。



江向家住宅。
越中五箇山、合掌造りの住宅で豪雪にも耐えられる様に
屋根の傾斜は急勾配で作られています。



合掌造りで有名な集落、飛騨白川郷にあった山下家の住宅です。
ここの1階はそば処になっている。ここで昼食におそばを食べた。



作田家住宅
千葉九十九里の漁村にあった。
17世紀後期の網本の家で手前と奥の二棟が合体した造りになっている。
分棟型と呼ばれている。



広瀬家
山梨県塩山市にあった17世紀末期のもので
屋根に二面の傾斜を持つシンプルなデザインの切妻造。


広瀬家の炉辺では薪がくべられ、
古い生活用具も配置されていて暮らしの姿が浮かんできた。



船越の舞台(重要有形民俗文化財)



野外の観客席



日本民家園の西門から出園、暫らく歩いて木の門(枡形門)に辿り着いた。

枡形山城址で一休みしてから帰りは生田緑地の急勾配を只管降りた。
段差の高い階段を降りるのに凄く難儀をしました。
想定外でしたが みんなで助け合って降りたのも いい思い出になります。

来月4月は勝沼ぶどうの丘周辺です。どんな景色に出会えるか楽しみです。










大人の遠足 とかさや散歩

2018-02-18 12:12:36 | 馬場先生の野外講座



相模国分寺跡とその周辺

古代相模国の国分寺は古墳群が並ぶ相模国随一の古代史の宝庫です。
奈良時代の天平13年(741年)聖武天皇により鎮護国家・鎮災致福を祈る為に
建立された国分寺、その国分寺跡と周辺を訪ねてきました。(2月17日)

金堂跡は平面形が復元され当時の様子を伺い知る事が出来た。



道を挟んで海老名市立郷土資料館、温故館がある。



館内は相模国分寺復元模型等が沢山展示されていた。



高さ1メートルほどの基壇上に建てられていた七重の塔跡で
温故館のボランテイヤの方からの説明があった。



海老名の大ケヤキ。
船を繋ぐ為に打った杭がそのまま根付いたものと伝える。
樹齢は千数百年、樹高約20m、根回りは約15mある。



高台にある現在の国分寺までの石段を昇る。



国分寺(薬師堂)高野山真言宗。
戦国時代に旧国分寺にあった伽藍が焼失したため
高台にあって焼失を免れた別院の薬師堂を現在地に移し
国分寺の法灯を受け継いでいる。



本堂右手前の鐘楼の架かる梵鐘は正応5年(1292年)
この地を居館に構えていた海老名一族の国分季頼が
国分寺尼寺に寄進したもので、鋳物師は鎌倉円覚寺や
金沢称名寺の鐘も制作していた名工物部国光。(国重文)



境内に伝説で知られる〝尼の泣水”の碑がある。



瓢箪(ひさご)塚古墳
海老名市内最大の前方後円墳全長約66m後円部直径36m、高さ5.5m
古くからこの地を支配していた相武国造初代の墓といわれる。





古墳頂上からの海老名市街地の展望。



海老名駅前に相模国分寺七重の塔のモニュメントがあった。
市の観光協会が平成4年(1992)に建立。高さ22m
実物大の約3分の1のスケールになる。

古代相模国の国分寺は相模国随一の古代史の宝庫です…と
先生のプリントの冒頭に書かれていましたが
まさに、建久、正応、元禄、寛延…などと
聞き慣れない元号がこんなにも沢山プリントに
書かれている資料は初めての様な気がします。

遠い歴史は人の思いや業績が復元された跡地によって
往時の姿を思い描く事が出来、
今に つながっているのだと思った野外講座でした。

次回3月は神奈川編「日本民家園とその周辺」です
どんな風景に出会えるか楽しみです。




大人の遠足 とかさや散歩

2018-01-28 16:57:28 | 馬場先生の野外講座



谷中・根津・千駄木あたり

1月の大人の遠足は谷中、根津、千駄木あたりの散策でした
当日(1月20日)、私は所用があったので欠席しました。

一昨日、森脇さんからプリントや資料が送られてきました。
仲間の田子さんからもメールで写真が14枚も送られてきたので
早速投稿する事にしました。

先ず、谷中の天王寺。



寒牡丹でしょうか、心も和む様な「霜よけ」ですねぇ~



五重塔跡。



観音寺の築地塀。



全生庵。



昼食を食べた大島屋
(昭和の風情を感じる様な建物がいいですね~)



頂いた天ぷら蕎麦はとても美味しかったそうです。



へび道(藍染川の暗渠の上に出来た散策路)



谷中指人形「笑吉」
(森脇さん達は解散してから笑吉まで戻って
指人形の初笑いを楽しんで来たそうです~)



根津神社(閑寂な境内)



乙女稲荷。





乙女稲荷から見下ろした根津神社。



谷中銀座、夕焼けだんだん。

次回2月は相模国分寺とその周辺を歩きます。




大人の遠足 とかさや散歩

2017-12-17 14:09:01 | 馬場先生の野外講座



朝比奈峠をバスで越えて
報国寺と永福寺跡を訪ね、鎌倉歴史文化交流館へ


今回は京浜急行線で金沢八景で下車して、
鎌倉行のバスに乗り朝比奈峠をバスで越えました。(12月16日)

平成18年(2006)に朝比奈切り通しを歩いた時の感動を
思い出しました。
私達は鎌倉の七つの切り通しを全部歩きましたが
朝比奈切り通しは旧道がそのまま残っていて
一番旧観を留めていた切り通しでした。

今回は馬場先生が実踏をした時、岩道が滑りやすい事や
泥濘の深さにたじろがされ諦めました…と仰っていました。

2006年9月16日に朝比奈切り通しを越えて鎌倉東部
を歩いた時の写真を資料として森脇さんから頂きました。
懐かしいです。森脇さんは何時も当日欠席した方にこの様な
アルバムを作って馬場先生のプリントと一緒に
送っていたそうです。頂いた方も元気を貰った事でしょうネ~

クリックで拡大します




竹の庭として知られている報国寺の山門に着きました。



臨済宗建長寺派、建部元年(1334)に創建。
永享11年(1439)関東公方足利持氏が永享の乱で戦死、
子の義久は報国寺で自害した。これによって関東足利氏は亡び
報国寺は同士の終焉の地となりました。



鐘楼の背後には戦いの為に亡くなった方の
五輪塔や無縁仏が並んでいました。




竹林を渡る風を感じながら散策路を歩いた。



境内にある「やぐら」は家時と義久の墓と伝え、
足利一族の墓と云う百基近い五輪塔や宝篋印塔が残っている。



石仏の並んでいる表情にも哀れさを感じました。




報国寺を出て、道を少し戻りカフェレストラン・ゲンで昼食です。
ジューシーで美味しいイタリアンのドリアを頂いた。



午後は永福寺跡へ向かいました。
鎌倉女子大学の前を歩いた時、綺麗な空になったので嬉しくなって撮りました。



永福寺跡は整備工事が終わり全面公開されています。
池も復元されていました。





池越しに見る全観です。(鎌倉歴史文化交流館の資料より)
永福寺は源頼朝が文治5年(1189)に奥州平泉を攻めた後、
奥州藤原氏や源 義経など亡くなった数万の将兵の鎮魂の為に
建久三年(1192)に創建した寺院です。
東を正面にして全長が南北130mに及び全面には200m以上ある
池が作られていた事が発掘調査により明らかになりました。
正面が二階堂、右に薬師堂、左に阿弥陀堂が立ち並ぶ大寺院でした。


クリックで拡大します

壮大華麗な大寺院として隆盛しましたが室町時代の火災以降は
再建されず後に廃寺となってしまいました。



頼朝が最も思いを込めて創建した夢の跡です。
往時の風景を忍ばせる貴重な史跡になっています。






冷たい風の中を歩き鶴岡八幡宮の前に出ました。




遠くに古我邸が見えます。鎌倉の三大洋館建築の一つだそうです。
2015,3,17フレンチレストランとして開業しています。
夕暮れに孤高な佇まいの美しさが優雅に感じました。

早いもので今年も残すところ二週間余りとなってしまいました。
今年も皆様に助けられながら歩く事が出来ました。
有り難う御座いました。

新春一月は〝や・ね・せん”(谷中、根津、千駄木)あたりです。
来年も馬場ファミリーは歩きます。



大人の遠足 とかさや散歩

2017-11-19 16:48:48 | 馬場先生の野外講座



日高市の高麗神社へー高麗の里散策

9月に訪ねた大磯の高来神社一帯は古代朝鮮半島からの渡来人が
住んでいた地でそこから多くの人が埼玉県日高市に移ってきました。

高麗の地は大磯の真北に当たり、そこから北上する道筋(約95キロ)
を歩く催しも行われているようです。
馬場先生のプリントに貼付されていた写真です。


この日は 八高線高麗川駅で下車して 歩き始めました(11月18日)
高麗の里 散策スタートです。
雨になる予報でしたので、天気はイマイチでしたが、
予報が外れてくれたのでラッキー日でした。



高麗川
奥武蔵山塊にある正丸峠(651m)付近を水源として日高市域を貫流。
越辺(オッペ)川に合流して のち入間川に入る川です。



十月桜の咲く静寂な参道を歩くと遠くに二の鳥居が見えてきます。



「天下大将軍」「地下女将軍」と書かれている男女一対の
チャンスンが立っていた。朝鮮に伝わる悪魔退治、災厄防除の神で
村の入り口などに立てられています。



明治には浜口雄幸が参拝し、総理大臣になった事から出世明神として
知られるようになり政治家や作家、芸能関係者の参拝も多い様です。



山門の奥に高麗神社が見えます。



高麗神社
日高市新堀字大宮に鎮座する。
祭神は高麗王若光・猿田彦命・竹内宿禰。



高麗家住宅
代々高麗神社の神職を務めてきた高麗家の旧宅で入母屋造り・茅葺
柱は手斧仕上げ、表座敷には押板(床の間の原型)を構える。



石碑
高麗家住宅の東側に詩人野田宇太郎の詩碑がある。



神楽殿、斉館、など広い境内を眺めながら
休憩所で森脇さんが持参してくださったクッキーやチョコレートを
頂いて軽食を済ませた。
今日は昼食が遅くなる予定なので…と仰っていました。
申し訳ない…と思いながら頂きました。
美味しかったです~



その後、聖天院へ向いました。
遠くからでもその荘厳さが際立って美しく見えました。
聖天院は高麗王若光の冥福を祈る為に建てられた寺院です。



重厚な感じのする雷門です。



中門を入ると広々とした美しい庭園になっています。
屋根の形の美しい阿弥陀堂も鎮座している。






石段を昇ると立派な本堂があります。



境内の見晴らし台からの眺めは素晴らしい…



本堂の隣りにある雪山と云われている石灰岩は
本堂を造成する時に出土した石灰岩で中々の風光明媚なものでした。



高麗王廟
高麗若光の墓とされている。

高麗神社や聖天院は良く手入れがされていたのが印象に残りました。
高麗王若光が時代を超えた今でも高麗の地にとって
大切な存在である事が伺えます。



そして巾着田へ向かって歩いた…
チャンスンをモチーフにした案内柱などが表情豊かに立っています。



車道を避けて出来るだけ川沿いを歩いた…
高麗川はこの先で川が蛇行しているのを上手く利用して
川を堰き止めその内側に水を導いて水田とした。
現在では一部を残して休耕田となっており、
秋には曼珠沙華の群生地として知られている。



途中、高麗郷にある古民家を見学した。
母屋の建築年代は江戸時代末から明治時代前半と考えられるが
建物は数年にわたる改修で当初の形式が大きく改変されているそうです。

その後、遅い昼食をテラス風の暖かい「阿里山カフェ」で食べました。
野菜たっぷりの美味しいお料理でした。



西武線高麗駅の前にもチャンスンが一対周囲を見渡す様に立っていました


私は 高麗川と云う駅の名前は、20代の始めの頃
高崎から八高線に乗った時
初めてその読み方と存在を知った駅でした。

今日はその高麗川駅から歩きはじめました。
1300年もの昔、朝鮮半島からやって来た高句麗人等が
先進文化を取り入れ高度な生活を営んでいた場所で
高麗の里と呼ばれていること、

高麗川が蛇行している事を上手く利用して川を堰き止め
その内側に作った豊かな田園があった事など を知り
高麗人のロマンに想いを馳せながら帰途についた一日でした。

来月は鎌倉です。
どんな風景に出会えるか楽しみです。