つれづれ 2

庭の花や身近な出来事などを退屈しのぎにあれこれ綴っています。

白蝶草

2018-06-29 14:57:38 | 庭の花



しなやかな長い茎に花を付けて咲く姿は
優雅に舞う白い蝶を思い浮かべる様な花です。

朝咲いて夜には萎れてしまう と云う儚い花だからでしょうか
精一杯楽しんでいる様に見えます。

でも次から次ぎえと咲くので驚くほど長い間見頃が続きます。
長く伸びたシベが蝶を連想させてくれます。




















上野公園

2018-06-28 13:11:25 | お出かけ


上野公園へ友達と行って来ました。
蒸し暑い日なのに上野公園は、木陰が沢山あり風が吹き抜け、
快適に公園内を歩きました。(6月26日)

「上野の西郷さん」と呼ばれ親しまれている西郷隆盛像です。



清水観音堂(国指定重要文化財)
御本尊は千手観音坐像で京都清水寺より奉安されました。



月の松
この日は清水観音堂から眺めた写真です。
不忍池側からの月の松と雰囲気が異なりますネ~



上野大仏
江戸時代以来、地震や火災と云った災難に何度も見舞われ幕末の上野戦争では
辛くも被害を免れましたが明治6年に大仏殿が解体され、さらに大正12年の
関東大震災で、ついにお顔が落ちてしまいました。その後、修復される事なく
体は第二次世界大戦の時に供出されてしまいました。
「これ以上落ちない合格大仏」として知られています。



上野東照宮の石灯篭の並ぶ表参道。



上野東照宮
藤堂高虎(1556~1630)が徳川家康を追慕し、
家康を祭神とする宮祠を作ったのが、上野東照宮創建と云われています。


唐門


御三家灯篭
唐門西側に六基の銅灯篭は家康公36回忌に奉納されています。



寛永寺五重塔(旧東照宮五重塔)
寛永8年(1631)土井利勝により上野東照宮の一部として
五重塔が建立されました。寛永16年火災により焼失されましたが
甲良宗広のより再建されたものです。



涼しい木陰でおにぎりを食べながら先輩から歴史などの
お話を伺い、楽しいひと時を過ごしました。

徳川綱吉霊廟勅額門(重要文化財)
五代将軍綱吉は延宝八年(1680)に兄家綱の死に伴って将軍の座につきました。


天璋院篤姫墓所(非公開)
綱吉公霊廟内の家綱公の墓所の隣に篤姫の墓所はあります。
脇には好物であったビワの木が植えられています。


説明版より



寛永寺本堂(根本中堂)
天海僧正が寛永2年(1325)の創建。

上野公園には寛永寺をはじめ清水寺や五重塔など見所が沢山ある
まさに歴史の宝庫だと思いました。
木陰も沢山あるので涼しい夏の一日を過ごしました。


ルドベキア

2018-06-25 16:57:37 | 庭の花



サッカーワールドカップの日本対セネガル戦、2-2でドロー。
未明の興奮が覚めやらぬ日、気がつけば朝から半端ない 暑さだった。
日中は34度にまで うなぎのぼりになる~

庭ではルドベキアが咲き揃ってきています。
ひまわりと並んで夏を代表する花です。

























ヒューケラミラノ

2018-06-24 14:55:11 | 庭の花


春に咲いた後、切り戻しをしてから大分経っています。
又、こんなに元気に咲いてきました。

葉の間から細い花茎を延ばして咲く可愛い花です。
葉の色も季節によって変わっていくようです。

この花を綺麗に開花させるためには
冬の間の低温を必要とするので屋外で育てます~

ティアレアの交配種の様ですが健気な花です。
























情緒溢れる佐原と十一万石の城下町佐倉へ

2018-06-22 14:31:42 | にっぽんの街並みと老舗の味



にほんの街並み第三回は千葉県です

毎日の雨降り続きで、心配していましたが
曇天でしたが、この時期としてはラッキーな一日でした。

一度も行った事のない佐倉城址は一番興味をもっていましたが
やっぱり「百聞は一見に如かず」です。
参加する事に意義があると思いました。(6月21日)

最初に訪ねた佐原街並み交流館。ここでガイドさんと合流しました。
歴史の息づく町の様子などや、ミニ建物の奥の細かい部分に至るまでの
手造りの展示を拝見しました。



忠敬橋からは遠くに「とよはし」別名「ジャブジャブ橋」が見えます。
ジャブジャブ水が落ち続けている橋です。





伊能忠敬記念館(撮影禁止)
忠敬の人生と共に伊能家の沢山の資料を拝見しました。

江戸時代の佐原は利根川や小野川を利用して江戸の文化が一早く伝わり
商人の町ならではの自由な雰囲気がありました。

当時の伊能家は酒造りや米の売買などの商売をしている名家でした。
忠敬は17歳で伊能家へ婿養子になりました。

忠敬は好奇心旺盛な勉強家だったようです。
文学・歴史・医学・数学・測量術・天文暦学の本に親しむ
教養人であった事が展示物を見ていて伺えました。

55歳で北海道南岸の測量を行い、日本全国の測量を71歳まで続け
73歳で亡くなりましたが没後3年にして弟子達により日本全図は完成しました。



伊能忠敬の旧住宅
主な家業である酒造業を営んでいた店舗となっていた処で
江戸時代の雰囲気が良く表れています。



庭には
伊能忠敬像があります。



佐原は江戸時代から利根川水運の中継港として発展し
商人の町として栄えました。
伊能忠敬旧宅の近辺には江戸・明治大正・昭和期の町屋・土蔵・レンガ造りなどの
情緒漂う建物が数多く残っており関東で初めて国の
「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。




麻生家本店の老舗で鰻の昼食を頂きました。
美味しい うな重でした、やっぱり千葉県である事が頷けます。

午後は佐倉城址公園から歩きます。ここでガイドさんが変わります。
二班に分かれて各班にガイドさんが付いてくれました。

佐倉城は印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を外濠とし、台地上に土塁を加えて
築城した平山城で石垣を用いていません。
戦国時代の中頃千葉氏の一族鹿島幹胤(みきたね)によって初めて築かれたと伝えられ
別名を鹿島山城とも呼ばれました。
後に徳川家康がその要害に着目し、土井利勝に命じ慶長16年(1611)正月から
7年間を費やし、元和3年(1618)ごろに完成しました。
佐倉城址概略図



馬出し空合濠
城門前に築いて人馬の入り口を敵に知らぬようにした土手が「馬出し」です。
この空濠は、明治初期より連隊造営の為埋め立てられていたもので、
昭和46年から二回にわたる発掘調査により、長辺121m・短辺40m・のコの字型、
深さ5,6mの規模と確認されました。
(復元にあたっては長辺、短辺はそのままとし深さを約3mとしてあります)



椎木門跡。



一の門跡。
東面、木造、本瓦二階造り、本丸から見て初めての門で一の御門と呼ばれていました。


説明版より



本丸跡。
天守閣、銅櫓、角櫓、御殿がおかれ御殿の前庭には
金粉をすり込んだ栗石が敷かれていたと伝えられています。



夫婦モッコク
本丸跡にあり庭樹の一つであったと考えられます。



佐倉城の天守閣は二段の土塁上に片側を掛ける造りでした。
本丸側からは4階建て、反対側崖下(搦め手側)からは3階建てに見えました。
その造りを石碑で再現しています。
天守閣は文化10年(1813)に盗人に行燈が倒された事により火災になり
焼失し、その後再建されませんでした。





二の門跡。
東面、木造、本瓦、二階造り、
本丸から大手門に至る第二の門で「二の御門」と呼ばれていました。
一の門の東方一直線にあたり、武器庫として使用されました。
門内は二の丸といい、藩政を執る役所が置かれていました。


説明版より


大手門跡(追手門)
大手門は惣曲輪の表門、この門の西側には
広小路、中下町、大下町と云った武家屋敷が整備されています。


説明版より



武家屋敷通りに隣接した小径「ひよどり坂」を登りました。
今でもサムライが出てきそうな雰囲気の小径でした。

昇ったり下りたりで前日の雨の為、道が悪かったので大変でしたが
両側を竹林に囲まれ江戸時代の雰囲気を良く残した小径でした。



武家屋敷通り
関東地方では最大級の武家屋敷群になります。
道路に面して築かれた土塁や生垣など江戸時代の雰囲気を色濃く残しています。
通常は建物の外からの公開になっています。

旧武居家住宅
武家屋敷関連の出土品の展示が見られます。



旧但馬家住宅
武家屋敷関連の展示があります。



旧河原家住宅
武家屋敷の中で最も古いものとされています。
展示されている調度品に佐倉の武士の生活様式が伺えます。

城下町佐倉には佐倉藩の政治を支えた武士たちの屋敷や当時の様子などを
沢山見る事ができ、佐倉で生きた武士たちの生活を垣間見る事ができました。

今回もB2版(510×728)の大きな佐倉城の古地図を頂きました。

次回7月は山梨県です。
どんな歴史、文化、自然に出会えるか楽しみです。