最近は、地方軽視が流行しているのでしょうか。別の言い方をすると、弱い者いじめ、弱者切り捨てです。人の流れは、お金の流れでもありますので、人が多く集まる中央と呼ばれている場所は有利です。都市部が益々便利になり、地方が益々不便になっていくというようなことです。
昨日のエントリーでも述べましたが、支援を必要とする地方の(地方とは限らないのですが)教会が、どうして昨年度まで受けていた支援金より減額されるのか、その理由は、都市部も支援金を申請できるようになったからです。ところで、ややこしいので詳細な説明は省いたのですが、「支援」は「支援」ではありません。(何のこっちゃ)
これまでは、都市部も地方も、同じような条件で宣教の働きができるようにするために、資金を配分することを目的とした制度だったのです。言い換えれば、全国津々浦々で、平等に宣教の働きができるようにするための制度だったのです。平等にする部分は、主に地域の体力の部分です。従って、都市部は資金を出す側、地方は資金を受ける側という関係でした。
ところが、新年度からは、「申請」によって都市部も支援金を受けることができるように制度が変わりました。全国津々浦々の地域で「申請」できるようになったのです。一見すると、「平等」になったように思えます。しかし、それは「体力」の部分の不平等が、そのままにされている中で、制度の中に「活動」に関する内容を盛り込んだということではないでしょうか。
そもそも「体力」がなければ「活動」もできません。その「体力」の部分が、都市部と地方では違うのです。往々にして、地方は都市部よりも体力が弱いのです。その体力を平等にするために、これまでの制度がありましたが、それを廃止して、新制度では、体力の小さい地方からも負担金を平等に出させています。その上更に、これまで受けていた資金が減額されたのです。トータルで、負担が数百万円も増えたことになります。これでは、体力の小さい地方は、近い将来に疲弊し、行き詰まってしまうことが明らかではないでしょうか。
教会の世界も、新自由主義者が多くなったのでしょうか。強い者が更に強くなろうとするためには、弱い者が更に弱くなって行く姿を見ても、何とも思わないという、行き過ぎた自由が平等を破壊するといった状況があるように思います。確かに、平等を求めれば求めるほど、自由は制限されるようになります。だからといって、強い者がどんどん自分たちの論理で事を進めて行くと、不平等な世の中になり、階級社会、奴隷社会といった野蛮な社会に逆戻りしてしまいます。すでに、そうなりつつあるのではないでしょうか。なかなか、難しい問題です。それとも、地方の教会を破綻させ、改めて奴隷として傘下に収めようとしているのでしょうか。
人は、誰でも自分さえ良ければ、それで良いと思ったりするものではないでしょうか。そのような自由な思いを、理性でコントロールしているところがあります。青臭いことを言うと、キリスト者は、キリストの教えに従って、自らの自由を、もっぱら弱い者と共に生きるために捧げても良いと考えるように自由な思いをコントロールできる者でありたいと思ったりします。
以上、アバウトで、おおげさに誇張しながら自分の頭で考えながらメモしてみました。今日も、風が強く、時々雪が降ったり、晴れ間が覗いたり、厳しい中にあって凜とした但馬の冬を感じさせられる一日です。但馬で生活していると、この自然を作られた神さまが畏れ多い方であり、人間などちっぽけな存在で、謙虚に生きるべきであると日々教えられるような気がします。
地方には、都市部にはない自然があり、都市部ではできない体験があります。ひとところ、田舎は古い因習に囚われた場所と言われましたが、人のつき合いは深く、何でも力を併せて苦楽を共にしようとするところがあります。それに比べて、都会は、隣近所のお付き合いも少なく、近くで何が起こっているかも分からず、犯罪も多いように思います。どちらも、一長一短ではないでしょうか。仲良くやって行きましょう。そして、この難問を乗り越えて行きましょう。
