融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

母を委ねる

2019年11月30日 | 日記

 兄からの連絡を受け、高知に帰っていました。そして、26日に母親が天に召され、教会での葬儀を無事終えて浜坂に帰って参りました。母の死の現実を前に、神さまに全てをお委ねする信仰が激しく問われたような滞在期間であったような思いがします。

 ほどほどに物忘れのある父親のお世話をしつつ、母のお見舞いと葬儀と、緊張し続けていましたが、浜坂に帰って我に返るにつれて、この現実に悲しみを感じているところです。油断していると、落ち込んでしまいそうな気がします。

 一方で、ほどほどに物忘れのある父親が、斎場で収骨を待っている和室にて、「皆と旅行ができて嬉しいなぁ」とニコニコしているしているのを見ると、何だか癒やされる思いがしました。状況を良いものとして受け止めているそのポジティブシンキングには、大いに学ぶところがあると思わされました。

 お世話になった方々には、心からお礼申し上げます。

 

 

 


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「もはや恐れも、おびえも、迷いもなく」

2019年11月30日 | 聖書のお話

「もはや恐れも、おびえも、迷いもなく」 サムエル記 23章1~6節

  兵庫教区主事 加藤俊英牧師

 説教題「もはや恐れも、おびえも、迷いもなく」は、エレミヤ書23章4節で、主なる神がイスラエルの人々とくにユダ王国の人々に対して語った言葉からつけました。この当時のイスラエルのユダ王国の人々は内政的にはヨヤキムの圧政に苦しみ、将来的にもアッシリアからの占領が予想されるという状況の中で、自分の生命と生活が脅かされる、恐れやおびえや迷いの中に人々は置かれていました。そのような人々に対し、エレミヤは神の言葉を伝え、暗闇とも思える状況のその先に「主は我らの救い」と呼ばれる者が来るという、神からの確かな希望があることを示しています。

 エレミヤはそれまでの預言とは全く異なる牧者像、指導者像を提示して、それまでとは違う新しい神との契約の時代が来る、今、人間は恐れとおびえと迷いの中にあるけれども、その日には、そのようなものを消し去る「主は我らの救い」と呼ばれる者、つまりキリストが来るということを神の言葉として、当時の人々と、現代の状況に生きる私たちにも確かな希望の光として与えられています。そして、イエス・キリストによって、そのような約束を既に果して下さっている神と共にあることを喜びつつ歩んで行きましょう。

 


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「神さまに委ねる」

2019年11月17日 | 聖書のお話

「神さまに委ねる」 出エジプト記 2章1~10節

 信仰とは、何でも自分の力でやろうとするのではなく、神さまに委ねてお任せすることが大切であると思います。一方で、神さまに委ねるとは、ただお任せして何も考えも行動もしないのかというと、決してそうではないことがモーセの誕生物語を通して示されているように思います。

 出エジプト記の物語では、エジプト王ファラオがヘブライ人に対して「生まれた男の子は一人残らずナイル川に放り込め、女の子は生かしておけ」と命じたことを伝えています。そんな中、ヘブライ人の男の子が防水処理を施した籠に寝かされ、ナイル河畔の葦の茂みの中に置かれました。それは、母親が神さまに男の子の行く末を委ねる行為でした。男の子の姉も、遠くから見守りました。そして、ファラオの王女が水浴びの途中で男の子を見つけたとき、「ヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」と王女に申し出て、王女が「そうしておくれ」と言うと、母親を連れて来て乳母とさせました。

 母親、姉、ファラオの王女は、「生まれた男の子は一人残らずナイル川に放り込め」と命令されていた状況において、人間の命を守ろうとして必死に抗う中で神さまに全てを委ねました。それが、モーセの生い立ちでもありました。

 


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明日は礼拝です

2019年11月16日 | 礼拝のご案内

 明日11月17日(日)は、主日礼拝です。午前9時から教会学校、午前10時30分から礼拝があります。メッセージは「神さまに委ねる」です。讃美歌は、「いつくしみ深い」、「花彩る春を」、「主よ、みもとに」です。礼拝後には、祈りの一時、お茶の一時があります。ご興味のある方は、どなたでもご参加ください。その後、合唱練習が1時30分から行われます。

 今週、前日比マイナス10度の気温の日があって、どうやらその時に体調を崩してしまいました。夜中、布団からはみ出していて、震えて目が覚めて、そこから調子が悪くなり寝込んでしまいました。ちょうど、高知から母親のことについて連絡がありましたが、連絡があったことすら気がつきませんでした。

 来週は、教区の集いが但馬地区を会場にして行われ、浜坂教会にもマイクロバスで一グループが来られる予定です。果たして、私がその対応ができるか心配になっています。神さまのみが知ることです。

 今日は、浜坂では「カニ祭り」がありました。例年、県外からもたくさんの人がやって来ます。振る舞いのカニ汁も、割と早くなくなってしまうのですが、鳥取の方でも同じ様なカニ祭りがあったようで、人が分散したのか、消費増税のためお客さんが減ったのか、最後の方までカニ汁があったようです。私は、来週の教区の集いの仕事を済ませておきたかったので、残念ながら今年はカニ祭りに行けませんでした。カニ汁があったなら、食べたかったです。

 カニの季節になると、何だか浜坂も冬の装いを感じます。ちょっと疲れ気味なので、体調管理に気をつけたいと思います。皆さんも、ご自愛ください。

 

 


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「信仰による義」

2019年11月16日 | 聖書のお話

「信仰による義」 ローマの信徒への手紙 4章13~25節

 信仰の父と呼び称されているアブラハムは、行く先も分からないのに神さまの言葉に従って故郷を旅立ちました。それが、神さまによって義とされたアブラハムの信仰です。信仰とは、何か尊い行いをしたかどうかではなく、全てを神さまに委ねて従ったかどうかが問われているのです。

 私たちは、信仰というと自分の信心のことであったり、行いのことであると考え、それが「信仰による義」であると誤解している節があるように思います。それは、むしろ「律法による義」のことであるとパウロは教えています。そして、私たちは、「律法による義」によって救われることはありません。なぜなら、私たちは必ず過ちを犯してしまうからです。

 信仰とは、自分の行いによって認められるのではなく、神さまにその判断を全て委ねるというのですから、多分に楽観的思考とかプラス思考と表現できるように思います。パウロは、とかく難解な復活とか罪の赦しの問題についても、楽観的思考とかプラス思考を用いて受け入れなさいと教えているように思います。

 


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