融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日は礼拝です

2021年05月30日 | 礼拝のご案内

 明日5月30日(日)は、主日礼拝です。午前9時からの教会学校については、コロナのこともあり引き続きお休みしています。10時30分から礼拝が始まります。メッセージの題は「イエスさんの軛」、賛美歌は「聖霊よ、降りて」、「神はわが力」です。礼拝中は、窓を空けて換気をしています。ご興味のある方は、感染症対策の上、どなたでもご出席ください。礼拝後は、会堂清掃、そしてお茶の一時を予定していますが、人数が多い場合は行いません。

 


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「激しい風」

2021年05月30日 | 聖書のお話

「激しい風」 使徒言行録 2章1~13節

 聖霊降臨の様子について、激しい風が吹いて来るような音が響き渡り、炎のような舌が分かれて一人ひとりの上に留まり、霊が語らせるままに他の国々の言葉でイエスさんの愛について語り伝えたことが記されています。クリスマスやイースターは、どちらかと言えば知る人が少なくても構わないといった印象ですが、ペンテコステは、そこら中の人たちに知れ渡ってしまうような出来事であったと伝えられているように思います。

 聴衆の多くは、聖霊降臨の様子を肯定的に受け止め、「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と言いました。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける人もいました。当時の人たちは、“霊”が人間に降ったとき、意識が低下して忘我状態になると考えられていました。「新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける人たちは、聖霊降臨の様子を忘我状態ではないと受け取りました。そのことを通して、聖霊によってイエスさんの愛を語る者は、自分の意識をしっかりと保っていたことが伝えられているのではないかと思います。

 


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目を覚まそう

2021年05月28日 | 日記

 オリンピックを行うための業務委託で中抜きという内容です。電通、パソナが政治と癒着し、オリンピックで儲けて、儲けたお金が政治家にコッソリと環流されるという構図なのでしょう。コロナで苦しむ国民をそっちのけで、利権追求のために爆走する政治の醜い姿が映し出されています。「美しい国ニッポン」とは、利権を追求する者が大手を振って歩くことができる国ということです。それは、自民党、公明党、維新・・・、支持者はもとより全国民を愚弄する背信行為だと思います。鉄槌を下せるのは、選挙しかありません。

 利権欲しさのために、パンデミックの中でさえオリンピックを強行したいのは、人の命よりも利権が大切と考えているからです。きっと文明人ならば、パンデミックの最中にギガイベントなど開催したりはしないでしょう。一人ひとりが立ち止まって俯瞰しさえすれば、再考するのが当たり前なのではないでしょうか。現状、貧しい奴隷を命がけで闘わされて、それを高い所から娯楽として見物(金儲け)する上流階級がいるという、古代のオリンピックの姿を彷彿させるような気がします。俯瞰して、目を覚まそう!

 


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明日は礼拝です

2021年05月22日 | 礼拝のご案内

 明日5月23日(日)は、ペンテコステ礼拝です。午前9時からの教会学校については、コロナのこともあり引き続きお休みしています。10時30分から礼拝が始まります。メッセージの題は「激しい風」、賛美歌は「聖霊よ、降りて」、「神はわが力」です。礼拝中は、窓を空けて換気をしています。思いのほか、風が冷たい時がありますので、服装を加減してください。ご興味のある方は、感染症対策の上、どなたでもご出席ください。礼拝後は、お茶の一時を予定していますが、人数が多い場合は行いません。

 


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「平等に与えられる」

2021年05月22日 | 聖書のお話

「平等に与えられる」 ルカによる福音書 24章44~49節

 イエスさんは、モーセの律法と預言者の書と詩編に書かれている事柄が必ず実現することを悟らせるために、弟子たちの心の目を開いて「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と言いました。そう言ったのは、聖書全体が伝えている神さまの愛が、イエスさんの十字架と復活に凝縮されていることを教えるためでした。

 聖書に記されている言葉は、大昔の言い伝えであったり、父権制社会で語られたものであったり、戦争の時代を反映するものであったりします。そのような複雑な背景の中で語られた聖書は、必ずしも分かりやすい読み物ではないのかも知れません。しかし、人々が熱い思いをもって言葉や書物、行いによって伝えた結果、聖書として今もあることに間違いはないと思います。

 そのような聖書の中心的メッセージは、イエスさんが十字架と復活によって示された神さまの愛に他なりません。イエスさんが示された愛とは、口だけで論じるのではなく、行いによって伝えることが求められているように思います。しかし、その愛は、私たちが独りで行おうとしてできるものではありません。私たちが人を愛し、神の愛を宣べ伝えることができるようになるためには、「父が約束されたもの」としての聖霊が、誰にも分け隔てなく平等に与えられて、私たちと共に働くその時であると教えられているように思います。

 


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